フュヌイとその馬車はフアリキの町に帰還した。荷台にはそう大した量でもない菜の種と、フュヌイの腕ではなんとか持ち上げるのが精一杯の岩塩の塊、それと青く染め上げられた薄布が少し載せられていた。それらの品々はフュヌイに確かな栄光と信頼を与えるものに違いなかった。

 馬車がある建物の前に止められた。馬車に吊るされた紋章旗とそっくり同じ模様の付いたその建物から大男が何人か飛び出てきたのを見て、フュヌイにはそれが蹄と鉄車輪の作り出すけたたましい音に引き寄せられたかのように思われたから、とても面白いもののように思われた。無論人の顔を見て笑うほどの失礼をするはずは無いので、そのことを大男のうちの誰かが表情から読み取ったりすることは当然無かった。フュヌイは馬車からひょいと降りると男らに手早く指示を出し、男のうちの一人が岩塩を担いで、別の一人が馬車を回送して、残り三人は手持ち無沙汰に建物へ戻っていった。

 フュヌイも追随した。建物へ入ると、それは軍人の住処らしく、入り口からすぐのところに明らかに装飾の多い部屋が見え、それが応接室かエンリケの居室か、それか何かなのだろうと彼女にはすぐに分かった。フュヌイはためらいもなくそのドアを開けると、しかし期待は外れ、彼女の視界にエンリケは無く、そこにはがらんどうの部屋に大きな机が一つだけ鎮座している景色のみがあった。

 フュヌイは突然振り向いてもみた。もうすぐそこにエンリケが来ているのではないかと直感したからだった。しかし廊下のすべてを視線で薙ぎ払ってみても、どこにも彼の影は無かった。仕方がないので、岩塩を倉庫へ運んで戻ってきた大男が建物に入ってきたところを捕まえて彼の所在を尋ねたが、その会話をしているうちにどこからかエンリケが現れ出てきた。教会での時には随分気が合うと思っていたが、今や考えを改めるべき時かもしれない、とフュヌイは思った。

「エンリケさん、お久しぶりでございます。ご報告差し上げたいところなのですが」

「執務室で聞こう。そこの派手な部屋だ」

そう指し示されたのが、今さっきフュヌイが顔を突っ込んで空振りをした部屋だった。手順を一つ早まったような違和感がフュヌイには残った。

 執務室の机に向かってエンリケがどっかりと座ると、それはもう堂に入った振る舞いのようであった。まさに彼のために用意された部屋、椅子、机、空間、しかし私がいる。フュヌイはこの空間の中で明らかな異物であった。それが自覚され、むしろエンリケのために用意された空間をいくらか奪い取ってやろう、それでちょうどいいとさえ思った。

「まずこちらの地図、ええあなたさまが出発時に持たせてくださった地図です、その……ここ、この場所に岩塩坑がございました。継続的に取引をなさることをおすすめします。少しの塊――とはいえ一ヶ月やそこらで尽きることは無いでしょう――を持ち帰り、部下さんに倉庫に運ばせましたから、あとでご確認くださいね」

「ああ」

「それからですね、こちら、菜種でございます。油そのものは、もうしわけございません、オリーブ畑も鉱油も見当たらず、代わりと言ってはなんですが、こちらを持ち帰ってまいりました。この種を圧搾すれば、油も少なくない量を採れるはずです。もっとも、持ち帰ってきた量がこれほど少ないのも、当地で貴重な種を分けていただいたことによるものですから、まずはこれを植え育てるべきかと愚考する次第でございます」

「……そうか」

「そして最後に、こちらが道中立ち寄った村で買ってまいりました染物でして、良い色でしょう、これはこの町でも売られて然るべきものですから」

「そんなものを俺は頼んだか?」

「いいえ。ですがしかし、頼まれていないものも持って帰ってきては何か不都合がありましょうか?」

エンリケは剣呑な声色をフュヌイに叩きつけた。しかしフュヌイは氷漬けのような言い返ししかできないので、そのようにしてエンリケにその双眸を打ち付けると、エンリケは激して立ち上がったように見えたが、その炎が長く続くことはなかった。

「……いや、いい……すまない、ここ何日かは面倒が多かったんだ。その布はどこか適当な店に話を伝えておこう。……菜種を置いていってくれ……報酬は……次にしてくれ。日銭くらいはこれで足りるだろう」

きり、という音を立てて菜種の入った袋が置かれた。フュヌイはエンリケから銀貨をひったくるように取り、何も言わずに部屋を出た。

 フュヌイのエンリケに対する噛み合わない感覚――教会で話したときには、互いを利する提案を持っていた交渉者同士であった二人が、この場では依頼者と実行者であったことと関係が無いはずがないとフュヌイは思っていた。そうなるとエンリケの紋章がどれほどの威力を持っているか、旅の先々で嫌というほど見てきたフュヌイは、そのお膝元のこの町から今は一刻も早く離れたい気持ちで満たされた。一度歯車を引き剥がすことによって噛み合いを正さなければならないと、そう思っていた。

 フュヌイは素より実行の人であった。そんな様に気持ちが固まったならばその瞬間に足を町の外へ向けた。ずんずんと歩いていった。中心地を抜け、だんだん建物が小さくなり、それに呼応するかのように畑が見える限りに増えていった。畑があり、集落があり、日が暮れ、夜を過ごした。

 一夜が明ければその衝動も無くなっているのは当然のことだったが、今更戻るのはフュヌイには癪であったし、さりとて一宿一飯の恩義を忘れて長々居座ることもできず、フュヌイは次の昼と夕暮れの境のようなときになって教会へ到着した。教会のあたりでは畑がなくなり、周囲の光景はすっかり森林地帯であった。

 やはりと言うべきか、金の十字は彼女の心をふたたび魅了した。壁の白と十字の金の対比がまた美しいとフュヌイには思われたが、芸術的素養のありうべきも無いフュヌイはそれを誰かに言ったことは無かった。言ってもシフア人風情が、と言われて屈辱を受けて終わるであろうことでもあった。

 ドアが静かにノックされ、フュヌイはマティアス助祭の招きの声をわずかに聞いて教会の中へと入った。

 聖堂は空だった。特に目的を持って訪れたわけでも無かったが、人のいる場所まで来たのであったら人と話さねば悲しいとフュヌイは思った。聖空間に特有の、無言の聖性の足止めをまったく振り払いながらフュヌイは聖堂を突っ切り、助祭のいそうな、前にも妙に埃っぽいと感じた部屋へまっすぐに向かい、その扉へもノックした。

「どなたでしょうか」

「私でございます、スリストゥウ・フュヌイです。この間はお世話になりまして」

「……要件は何でしょうか」

「いえ、特にこれといったことは無いのですが、司祭は今いらっしゃらないのですね? いましたら先に司祭が出てきますものね」

「失礼、今は取り込み中でして、また後で来ていただけます、この間使っていただいた部屋はご自由にどうぞ」

扉越しに会話を済ませた上、今度は案内も寄越さない失礼さを見てフュヌイは憤ったが、一方で仕方ないと言うのなら仕方ないと思う、そのような妙な素直さが彼女を立ち去らせようとしていた、その時であった。

「…………待て……待て」

それはフュヌイが4年ぶりに聞くシフア語だった。助祭もシフア語を話せるはずではあったが、その声は助祭の黒曜石のような声ではあり得なかった。ほかにシフア語を話せる人物は司祭かほかの教会の人物くらいしかフュヌイには思い浮かばなかったので、不意に扉が開いてその男と対面したとき、フュヌイはそのみすぼらしさ、肌に刻まれた刀傷、そしてその顔に驚愕を覚えた。教会関係者ではありえなく、それはシフア人そのものであった。

「フュヌイという名前はシフア人に違いあるまいな……同胞……」

フュヌイはイベリアの言葉とシフア語のどちらを口にするか少し逡巡してから、シフア語を選んだ。

「ええと、マティアス助祭、この方は?」

「グルイム・スィフニウさん。……保護を求めて来たので、パンを与えました」

「まあ!」

フュヌイは目を輝かせた。彼女は部屋の中へ足を進めると、座っていたスィフニウの左手を両手で取って上下に振った。ワインのためにぶどうを踏むかのように振り回してから、大波のような勢いでフュヌイは話した。

「まあ、まあ、まあ! あなたがシフア人で、それでここに自分から来たということは、そうでしょう、真の信仰に目覚めたのでしょう! ああ、なんて良い日でしょうか! 福音が、もうすっかりいなくなってしまったとばかり思っていた者たちにも届いていたなんて!」

スィフニウはすっかり困惑してしまって、左手を振られるがままにしながらフュヌイを見るとも睨むとも言えるような様子でいた。ただ、あまりにもフュヌイが有頂天になっているようだったので、スィフニウはしびれを切らして強引にフュヌイの手を払った。

「……もう少し……説明してくれ」

「あら、いえ、なんてことは無いんですけれども、花戦争というとんでもない誤りを脱して、真の神の愛に触れられたのでしょう、イベリア人の言うように……」

「そんなわけがあるか」

スィフニウがか細く怒鳴った。疲弊しきったその姿では、声を荒らげることさえも命取りであるかのように思われた。

「スリストゥウ、お前はイベリア人が何をしたか……知らないのだ、病を生き延びたシフア人が建てた、新しい村……おとといイベリア人が突然襲ってきて、俺は……生き延びた、飲まず食わずで逃げた、そしてまだ命がある。他の奴らを犠牲にして……それで何が愛だ……」

「しかし、では、あなたのすぐ横に立つ、善いイベリア人のことは無視できないでしょう?」

スィフニウの言葉には、嵐のような怒りがそのまま言葉に姿を変えたような暴れる力が秘されているようにフュヌイは感じた。それが引き起こしたフュヌイの感情は困惑、次いで怒りであった。

「何十人の大罪人の……イベリア人が、一人の善人がいたところで」

そして、真の神の光を見ない彼のことが哀れに感じられるようになった。

「誤った神に従うからそのようなことになるのです」

「……その真の神とやらには……シフア人とイベリア人の見分けが、付かないようだが……イベリア人には付いた、俺たちの……村だけじゃないだろう、その神の信徒であっても、きっと……」

フュヌイはこの迷信深いシフア人のスィフニウをなんとかして方法は無いか、そのことに思考を向け始めていた。フュヌイ自身が救われた神の光を他のシフア人にも見せねば神に対する不義理というものだ、とフュヌイは思っていた。ちらとマティアス司祭の顔を盗み見ると、沈痛そうな面持ちで口を真一文字に結んでいた。おそらく彼も同じような説得を試みて、しかし断念したのであろうな、とフュヌイは理解した。

「私はいまこれほどに栄光を帯びている、そのことは証拠にならないのですか?」

「現世の問題では無いだろう……崇高なる名誉の問題……だろうに」

「私は死後のことも言っているのです、せめて神の愛にすがって地獄に落ちるのを免れましょう」

「地獄……地獄ときた。さっき……そこのから聞いた、真の信仰とやら……に改宗しなければ、どんなに……高潔であっても、地獄だ……と」

「ええ、そうでしょう」

「馬鹿だ……祖先すべてが、父が……祖父が、病で死んだ……盟友が、偶然に……イベリア人のいなかっただけで地獄など……」

またスィフニウの言葉には彼自身を殺さんばかりの怒りがこもっていた。今日のところは処置なしだ、とフュヌイは思った。

「神は乗り越えられない試練を与えられないのですよ」

「何度目だ……」

それだけ吐き捨てて、フュヌイはスィフニウに背を向け、その部屋から去っていった。

 しばらくして、マティアス助祭がフュヌイのいる客間に訪れた。形式的に無礼を詫び、またその形式を堅持して宗教文句を述べるものだった。しかし、彼と目が合うたびにそれが罪であるかのように逸らされた、その顔に彼の苦悩は書いてあるようだった。フュヌイもマティアス助祭の考えているであろうことと同じように、あのシフア人を、ひいてはすべてのシフア人を救うためにはどのようにすればよいか、小窓からの光を服の上に受けながらぼんやりと思っていた。

 神は乗り越えられない試練を与えられない、自分で言った言葉がなんとなしに心に残っていた。

 神が与える試練とは、果たしてフュヌイにとってどのようなものなのだろうか。考えてわかることではないのに、フュヌイは寝るまでそれが延々と思考の中の一部分にどっしりと構えているのを意識しないわけにはいかなかった。

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