水晶の老い

 フュヌイの手元で開かれた地図には、大まかな街道とエンリケの駐屯する町の位置、そして広大な余白の部分とが共存させられてあった。その大きさの割に情報量の乏しいそれは、エンリケがフュヌイに寄越してくれた商売道具のひとつだった。記入すべきことはフュヌイ自身の判断によれば済むだろう、として渡されたものだった。フュヌイは今いるであろう地点にバツ印を書き込みたかったが、馬車の上ではインクもペンも無いので、右手の人差し指の爪を押し付けて道を横切るような痕をその地図に付けた。

 しかしなぜフュヌイはこのような森の只中で馬車の足を止めているのか。それは賊が現れたからであった。男が5人も脇の茂みから湧き出てきて、それでフュヌイの方もわざわざ止まってやったというのに、フュヌイの頭上、馬車の荷台の骨組みに括り付けてあったエンリケの部隊の紋章を軽く指し示した途端蜘蛛の子を散らすように彼らは去っていった。これが部隊の紋章自身の威光なのか、それともインエスカッシャンにある王の簡易紋章の眼力なのか、その区別はフュヌイには付けられなかった。そしてまた馬車は動きだした。

 馬に人と荷台という大荷物を曳かせる以上、馬車にむしろ駿馬のような速度を期待するほうが酷だというのは理屈ではすぐにフュヌイにもわかったものの、別にそれはこの知らない林道、景色に驚くほど代わり映えのない林道を延々、到着地がどこだとも知れずに行く退屈に対する免罪符となるわけではなかった。

 だから、フュヌイはもう何度も考えたことをまた脳内でさらい、何度も考えて手応えが無くなってしまったそれが考えるべきことの網の下へいともたやすくすり抜けてしまう、その感触さえも面白がらないわけにはいかなくなっていた。オリーブ油か鉱油、岩塩か海水塩。まずオリーブが副王領で育つのか、そこからフュヌイには疑わしく思われた。であれば鉱油を探す必要があるが、そうなれば骨だからあまり考えないようにした。次いで岩塩も岩塩坑が発見されていれば話も早そうだが、無ければ海水塩を煮詰めているところを探す必要がある。ところがフュヌイが今向かっている方向は海とは真反対だった。あまりにも億劫になりそうな移動を、またフュヌイはあまり考えないようにした。するともう検討すべきことは無くなってしまったように感じられた。

 そのような無意味な思索を、馬の背を見るのも飽きるたびに繰り返していた。

 日も傾いてきた。真昼間の陽光から受け取り得た熱は薄らいでいき、それがフュヌイには人の蛇を触るような心地悪さを感じさせた。暗くなっては護身具クロスボウも頼りない上、紋章の加護も怪しくなってくる。次に人の住むところに到着することがあれば、そこで一夜を明かせるように頼もうと彼女は思った。最後に集落を出たのはもう2時間ほど前になるはずだから、そう遠くないうちに新しく人家の見つからないわけも無かろうという皮算用もそれを手伝っていた。

 彼女の予想は今回も外れなかった。まだ空は赤らむ素振りも見せず、太陽も天頂から地平線のあるべき所まで半分程度しか落ちていない。畑の緑と、少しばかりは人の影も見えていた。もう少し進めば集落の中心的建物もあろうと思って、フュヌイはまだ見ぬそこに馬車を進めていった。

 十分に近いところに別の集落があるのであれば、まだ今日のうちにもう少し進むこともできただろう。しかし、フュヌイはそうしなかった。

 商人には踏み込んで良いリスクと踏み込んではいけないリスクがある。前者は金貸しや人への信用だが、後者の最たる例が無理な移動だ、とイベリアにいた間に彼女は叩き込まれていた。無理に移動しようとして、どのような理由であっても足止めを食らったが最後、日は落ち闇夜にうずもれてクロスボウひとつで賊を撃退できるなど、そのようなことは妄想でも厳しい。よしんば撃退できたとして商品にどれだけ傷が付くことか、百害あって一利なしだ、とその時には教えられていた。フュヌイの理解としては、より一般的に想定外を想定しなければ商人業はできないのだ、というあたりであった。

 日も弱くなってきた時間帯らしく、遠目で見たよりもずいぶんぽつぽつと人のあるのが見えるな、とフュヌイは思った。あとひと月もすれば収穫作業でいくら手があっても足りないようになるのであろうが、嵐の前の静けさというものだろうか、そこにいる人々はなんとも気楽そうに見えた。物珍しそうにフュヌイの馬車を見ていた農民らしき青年とフュヌイの目が合い、慌てて顔をそっぽに向けたのをフュヌイは見た。

「あの、もし、よろしいでしょうか」

「えっ、いやそんな、お貴族さまになんて俺できること無いで」

だからフュヌイは彼に話しかけた。それはフュヌイの悪戯心の発露だった。

「いえいえ、ほんの少しばかり知りたいことがありましたから、わたくしフアリキの町より来たものでして、今日はそろそろこの辺りで夜を過ごす準備をしようと思いまして、それでしたらこの集落の長にでも話を通しておかねばまずいでしょう、その長さんはどちらにいらっしゃるのか教えていただきたくって」

「ああ、それなっ、それなら、あっちの方に行けば木がたくさん植わった大きい建物があるから、そこを訪ねれば」

「あら、ありがとうございます。そしたら、こちら、心ばかりですけども、ぜひ受け取ってくださいまし」

そう言って、フュヌイにとっても貴重であった銀貨を一枚その青年に握らせた。フュヌイは貴族だと思われたのであれば貴族らしい振る舞いをしなければ気が済まない性分だった。

 農民の彼の誠実はすぐに証明されることとなった。フュヌイの目はその『木がたくさん植わった』ところを捉え、馬車はその前に止められた。フュヌイは板の端に裾を引っ掛けないように慎重に座席から降りてから、ずっと背ばかりを見てきたその馬の横に立ち、首を一度撫でた。一日ばかりの付き合いながらもうすっかり愛着が湧いてきてしまったので、町でこの馬の名前を聞いておかなかったことをフュヌイはやや後悔していた。

 フュヌイは振り向き、ドアまでの数歩を行った。ドアをノックする寸前で無能のアロンソが脳裏によぎり、それが彼女の手を止めた。フュヌイは大きく息を吐いた。心底から、忘れ去るために、感情を押し流すためにそのようにした。それでノックはあっけなく済まされた。息を吸って、吐くこと、4回ほどで初老の女性がドアを開いた。

「はい、どなたでしょうか」

「こんにちは、わたくしスリストゥウ・フュヌイと申しまして、フアリキの方から参りました、しがない商人でございます。ご許可を頂きたいことがあるのですが、ここの村長さんはいらっしゃいますでしょうか?」

「まあ、フアリキから……それでしたら立ち話もなんですから、どうぞお上がりください」

「では、お言葉に甘えて」

形式的な挨拶と、しわがれているものの柔和な声と、それから背を向けた老女のその所作の質素ながらも貧乏なみすぼらしさは無い歩き仕草にフュヌイは好感を覚えた。比較対象が悪すぎるのかもしれないが、なんであれ気分を害さなかったというだけで、一日馬車を繰って疲れたフュヌイには嬉しく思えるものだった。それで、彼女が通された客間にはなにやら生活感は無く、しかしそれなりの頻度で使われているのではないかと思わせるような、誹るほどでもない僅かな汚れや、部屋の隅にまとめて置いてある何か紙の束らしきものが彼女の目を引いた。

「こちらで座ってお待ち下さい、いまワインを持ってきますから」

そう言われてはじたばたする気も起きず、フュヌイは素直に従って椅子に腰を下ろした。

 部屋から人がいなくなり、それなりに静かな空間となったところでフュヌイの頭は惰性で回転を続けていた。第一義は宿泊許可をもらうことではあったが、もののついでというものだ、油と塩についても情報があれば、それから他に知らないこともあるかもしれない、なるべく情報を吸い上げてみようと、彼女はそんなことを思っていた。それにしても、会話の声が聞こえないことにフュヌイは引っ掛かりを覚えた。先の老女のものだろう足音と、何かの物音はあったのに、誰か――それこそ村長や、そうでなくとも使用人など――との会話の声が無いのだった。それを頭の中で詮索するよりも先に、老女はフュヌイのいる部屋へ戻ってきた。

「お待たせしてすみませんね。こちら、どうぞ」

ワインが置かれ、フュヌイの対面に老女が座った。随分と物怖じしない人だ、とフュヌイは思った。

「この村には村長はいなくてねえ。だいたいのことはみんなと話して決めてますよ。だから、まあ、お願いの内容にもよりますけど、私があとでみんなに伝えれば、私が決めちゃっても構わないことになってますの」

「なるほど、それでこの風格、お見逸れしました、しがない一商人には到底敵わないようにお見受けしましたから」

「あらあら、ありがとうございます。ただ、あんまり褒められると照れちゃうから、そろそろ本題に入ってくださいな」

フュヌイにはこの老女に抜け目というものが全く感じられなかった。しかも村全体の単位で合議制では、取り入る有力者も無い。もし噛み合わなければ早々に村を出ねば、時間も危うくなってくるだろう。しかし、悪人や無能といったフュヌイの嫌う様子からかけ離れたこの老女の振る舞いは、フュヌイにも快く思えるものだった。フュヌイはワインを一口飲んでから口を開いた。

「では、本題に入りましょう。ええ、ドアを開けたところで貴女も見たでしょうけれど、私は旅の商人でして、それで今日はこの辺りで泊まろうかと思っていたところで、その許可を伺いに参りました」

「……何の問題がありましょうかね。宿まるアテはありますか?」

「私めには馬車で十分でございます、許可をくださり感謝いたします」

「そうですか。本当でしたら客間にでも通せたら良かったのでしょうけど、あいにくこの建物には人を宿めるための部屋が無くって……」

事は存外順調に運んだ。やはり町でなければ足元を見るような悪知恵も無いものだ、とフュヌイは思った。

「いえ、本当にお気になさらず。……そうだ、少々探している商品がありまして、もしよければそのことを教えていただければと」

フュヌイはあたかも今思い付いた企みかのように話した。相手の善意を見て要求を入れたような素振りは、やはりこの老女にも好ましく受け取られたようであった。

「力になれるのであれば、なんでもいたしましょう。それで、どのような物なのですか?」

「なんてことのないものですが、そうですね、まず、副王領でオリーブを育てている場所をどこかご存知ありませんか?」

「……ううん、ごめんなさいね。私にはわからないことでした。……他に、何かあります?」

「ありがとうございます。そうですね……ええと、では、岩塩坑のある町は」

老女は嬉しそうに机の上で両手を合わせて破顔した。

「それならずっと北に行ったところにありますねえ。この建物の前の大通りをずうっと……1日ぐらいですかね、西に行くと北へ折れるところがあるので、そこからまた何日かで着くでしょう。確か……ええと……すみませんね、こうも老いては覚えも曖昧で……町の名前が出てこなくて……」

「いいえいいえいいえ、その情報だけで結構です。もう大助かりですから、それから、ちょっと強欲ですが、もしかして鉱油の湧いているところをご存知だったりはしませんか?」

「鉱油……鉱油は……流石に知らないわね。ああ、でも、そうしたらさっきのオリーブっていうのはオリーブ油が欲しいってことだったのでしょうか?」

「ええ、ご明察でいらっしゃる」

「それでしたら、うちの村で自給自足程度ですが菜種油を作っているので、いかがでしょうかね」

フュヌイは飛び上がりそうになってしまった。普段は驚きでも憎しみでも、表情にはおくびにも出さないようにしていたのに、今回ばかりはそうできなかった。一瞬だけ暴れた眉はすぐに平常の位置に固定されたが、老女はくすりと笑っていた。三ヶ月かけて達成する大目的のはずが一日目でできてしまったので、拍子抜けというかなんというか、とにかくフュヌイは自身の幸運を神に感謝するところであった。

「ええ、ぜひ。でもそうですね、生産量が少ないのであれば沢山持っていってしまうのは気が引けますし、種を分けていただけくことは?」

「そこまでは私の決められることではありませんね、今日でも明日でも良いですからその者の下へご案内しましょう。他には?」

「いえ、いえ、ここまで教えていただいて何を求めましょうか。これ以上は強欲の罪というものです、本当にこの出会いを神に感謝します」

老女は微笑み、フュヌイも老女もワインを飲んでその場は終わった。

 翌日、フュヌイは菜種と残りの銀貨をすべて引き換えて村を西へ発った。振り返っても村の見えなくなるまで森の中へ道を進んでから、あの村に着くまでは疲労と心配によって、着いてからは思いがけない幸運によってすっかり覆い潰されていた、砂粒のような違和感のあるのに気がついた。気がついてしまうとそれは見る間に大きくなって、いますぐあの村に戻って問いただしたい衝動に駆られるようになってしまった。

 あの村にも、やはりと言うべきか、シフア人の姿は見当たらなかった。

 それがどのような理由なのか、フュヌイには推測ができなかった。いくらシフア人が神の怒りペストに曝されたとはいえ、フュヌイの故郷の村でも片手には余る程度の人数が生き残っていた。より規模の大きく見えたあの村ではきっと両手以上の生存者がいたことだろう。それなのに、影も形も見えなかったというのは、一体どういった事情があったのだろうか。フュヌイにしては珍しく、このことはぼんやりとした不安として彼女の脳裏に残り続けた。

 そして、そのようなことは、首尾よくエンリケの部隊の信用を使って岩塩を手に入れ、そして帰る道中でもやはり見かけられた。

 もしくは、シフア人が

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