エンリケ・ラグナルソン
雨天も良し悪しであった。直射日光を厚く垂れ込めた雲が遮って、それで疲れないのは明らかに良いことだったが、太陽が今どこにあるかを利用して時刻を測ることができないのは難点だった。フュヌイはまだ全然空腹を感じていなかったこと、商人業で培った自身の移動時間の感覚、そういったものから朝の時間のうちなのだろうと推測をしていた。予想は正しかったが、一方で彼女は想像よりももう教会までそう遠くないところまで戻って来ていた。
この教会へ向かう道から逸れてどこだか彼女の知らないところへ向かう側道をひとつひとつ見るたび、彼女は訪ねてくるはずの「隊長さん」を想像した。それを思い浮かべるたびに、まったく同時に、集落でのアロンソの醜悪な無能も脳裏の一区画を占有し、誰も見ていないのに眉を顰めずにはいられなくなっていった。道がつなぐ先があたかも記憶の繋がりとかたく結合しているかのように思われた。それを打ち払うように、彼女は足早に道を踏み進んでいった。
フュヌイの目は、すぐに木々の向こうに金色の十字があるのを捉えた。もう教会の見えるところまで戻ってきたのだと思うと、一気に彼女の気持ちは緩んだ。集落でのことはすっぱり忘れ去り、必要によって、また神への奉仕のために在ることができる。福音の一変種だ、とフュヌイは思った。それからは足取りも軽く、その一方で僅かにでもこの気持ちの浮沈を気取られてはいけないかのようにしずしずと、その両方を同時にこなす足跡があった。
そうして帰ってきた教会は、フュヌイの目には昨日の烈日に照らされた外壁の記憶とは程遠い、くすんで灰がかった色に見えた。しかしそのことは彼女に何の影響も与えなかった。神の威光が欠けることなどコキュートスの凍土にあってさえ想像すらできまいと、彼女は芯からそう思っていた。不満から解放された満足を心に抱えながら、彼女の手は教会のドアを開いた。
「ただいま戻りました」
教会の内部ではがらんとした空間に司祭と見知らぬ男が一人だけいて、なんとも余白の多いように見えた。その男はフュヌイを見つけると一瞬怪訝そうな顔をしてからすぐに真顔を整えた。
「おおスリストゥウさん、おかえりなさい、ちょうど良いタイミングでした、いまちょうどあなたがいつ戻ってくるか知れないのでお待ちをという話をしていたところだったのですよ。こちらがラグナルソン隊長、エンリケさん、あちらが話してましたスリストゥウさんです」
「エンリケ・ラグナルソン、セデイラ伯エンリケの次男にして王の騎士だ」
「あら、お初にお目にかかりますね、ご紹介いただきましたスリストゥウ・フュヌイと申します」
男の無骨な雰囲気をまるで無視して上書きするかのように、フュヌイは努めて司祭と雰囲気を同調した挨拶をした。そして話の主導権を確かに握らんとしたのは、やはり商人をやっていた4年間の蓄積というものに由っているのだった。
「失礼ながら、ラグナルソン、とはあまり聴き馴染みの無い名前ですね。それに私も浅学非才の身ですから、セデイラというのもどこにあるのかわからなくて、もしよければお話をいただけます?」
「セデイラはイベリアの北西の……そうだ、聖地サンティアゴからは3、4日でそう遠くない、そのあたりにある、海のある土地だ。……親父から聞いた話では、500年ほど前にラグナルソン家の先祖がイベリアへ渡り、現地で暴れたところ王の軍に止められたが、その統率力を認められて土地を与えられたらしい。その先祖がノーサンブリアから来たのだ、と聞いた。家祖があのノーサンブリア王ハーフダンだからノルドの名前なのだ、と。本当かどうかは知らんし、俺はイベリアとこの副王領にしか無いから与太でもいいんだが」
そして、フュヌイは予想外の返答に面食らってしまった。サンティアゴのことはもちろん知っている。イベリアの信徒にサンティアゴを知らない者はいないわけがない。しかし、ノーサンブリアという地名は初耳だった。無論ハーフダンという人物が何者だったのかも彼女は当然知らなかった。すっかりイベリアの世に溶け込んだようでいたフュヌイにとって、唐突に未知の世界があって返答を作ることができない、そのような状況に陥ったことは大失態として感じられた。加えてエンリケのすぐ隣で、フュヌイのわからないところを司祭が興味深そうにしているのも我慢ならないことでしかなかった。その言語的・精神的両方の不満によって、話の主導権は簡単にフュヌイの手から抜け落ちてしまった。
「それで……そうか、あんたはシフア人の名前をしているな。なるほど、神への奉仕と商業を矛盾なく務めるカラクリがわかった。シフア人だったら真の信仰へ改宗しているんだろ? だったらどう頑張ろうと死後には煉獄が精々だ。だからちょっとぐらい異教徒のような真似をしたところで、ってことだ。そうだろ、ベルトラン司祭?」
「ええ、まあ、しかし地獄から煉獄へ救ってくださることが神の愛ですから……」
主導権を失った結果は、そういうことだった。シフア人であること、商人であること、女であること、そのような瑕疵にもならない瑕疵を目ざとく見つけてきては人はフュヌイを下に見ようとする。それでもフュヌイはこの屈辱をおくびにも出さなかった。内心ではそれこそ煮えるような怒りがあったが、それを行動に移してもより虚仮にされるぐらいが精々だ、とはっきり理解していた。次はあるものか。フュヌイはまたそれを思った。
「それで、ラグナルソンさん、本日のご用事は何でしょうか?」
「そうだな。ベルトラン司祭には悪いが俺は宗教談義には興味が無いし、本題に入らせてもらうか。スリストゥウ、あんたは商人をやってたんだろ?」
「ええ、イベリアで4年ほど、親切な方の下で修行させてもらいました」
「よし。それでだ、イベリアにはそれこそ異教徒が沢山いて商人をやってる。軍に必要なものなんぞもその商人から買い付ければ困ることは無かった。ところがだ。こと副王領には商人がまったく足りていない。豪商は大西洋を渡るリスクを嫌って誰でもイベリアの椅子にふんぞり返って指示を飛ばすだけなんだ。すると副王領の俺らからこれが欲しいと言っても、それが手下から伝わるまで何ヶ月かかるかわかったものじゃない。伝わってから承諾の返事が貰えるのかとか、そこまで待って商人の手下が乗った船が沈んだからそもそも言葉が届いてませんでした、とかもある。そんなんでやってられるか、ってことだ。副王領の方で独自に商人業をやってくれる者があれば、これほど助かることはない。どうだ、スリストゥウ、ここでも商人をやらないか?」
「ええ、いえ、元より商人を辞める気など毛頭ございませんでしたけれども」
「……そうなのか? ベルトラン司祭、あれは無一文になったんじゃなかったのか?」
困ったように司祭の視線がフュヌイに流され、それに釣られてエンリケもフュヌイへ向き直った。フュヌイの心には怒りの燃えさしがまた光ったように思えたが、二対の眼光にたじろぐようなことは間違っても無かった。
「ええ。まあほんとうに無一文になってしまうといろいろ不便ですから、今来ている服一式に替えの服、それから……この
フュヌイは隠し持っていたクロスボウをちらりと見せると、また服の下へそれを戻した。そのクロスボウはエンリケの歓心を買い、司祭をぎょっとさせたようだった。
「その、スリストゥウさん、クロスボウは……」
「ええ、私も存じ上げております、教皇猊下は無益な殺生を嫌うお方、私だってその御心にそぐわない行いはしたくございません。ですが、しかし言わせてください、クロスボウが名指しで教皇猊下の怒りを買いましたのは、それは戦場で男の力で簡単に連射してしまえば多恨であると、そのようなことでしょう、女の私であれば、このようなものがなければ命の補償も危ういのです」
「……スリストゥウ、それを射ったことは?」
エンリケの視線はフュヌイの目へまっすぐ突き刺さっていた。仏頂面を続けていた彼の口角が僅かに上がっているのを見て、フュヌイは彼のことを単純な人だと思った。
「あります。イベリアにいたとき、いくらか練習をしました。そうでなければ当たりもしませんから」
「それで人を殺したことは?」
「幸いにも、いいえ、このクロスボウはまだ血の味を知りません」
「なんだ……まあいい」
エンリケとフュヌイを短く結んでいたいっときの絆はすぐに霧消し、エンリケはどっかりと椅子に座り直した。それを合図にフュヌイも司祭も姿勢を正して、場はむしろ熟成したようになっていた。
「それでだ、まあ要するに御用商人になってくれっていう話だ。俺も王の騎士である以上、詐欺を働けば王の威信にも傷が付く。それにそこの司祭にも迷惑をかけることになる。ま、庶民にとってどうだかは知らんが、そもそもラグナルソン家の栄誉に泥を塗るような真似はできないってだけで十分すぎる保証になるんだが。さて、俺が提供できる信用はそんなところだ。どうだ、話を受けるか?」
「確認しておきたいことが一点ございます。いえ、まあ、私の身の回りを見ればラグナルソンさんであればすぐ理解できるのでありましょうけど、私は従者を伴うような商人ではなく、あちらこちらをふらふらと回っていく、どちらかといえば行商に重きを置いているような者です。……ですから、御用商人になったから、とずっとラグナルソンさんの軍勢に付いていけ、と言われましたら……」
「定期的に帰ってきてくれさえするならどうでもいいだろう。たまに外征にも行くのかもしれんが、もうずっと同じところに駐屯しているから、そのときにはきっと話が伝わると思う。……そうだな、一季に一度くらいは帰ってきてもらわないと困るが、それで良いんだったら……よし、交渉成立だ」
フュヌイがわざとらしく頬を持ち上げたのを見て、エンリケは素早く言い切って手を差し伸べてきた。フュヌイも握手で応じた。雨の降りしきるせいかエンリケの湿った冷たい手が、フュヌイには路傍の石よりは価値があると思わせた。
「いやー、良かったです、スリストゥウさんの生活の目処が立ったようで。それではエンリケさん、もう取り次ぎは良いでしょう? 私はお暇しますね。もし何か用事があれば、そこの部屋まで。では」
そして司祭が割って入った。客2人を置いて主人が引っ込むとは、とフュヌイは視線で司祭を刺してみたが、司祭は何も気に留めていないようだった。視線では人を捉えることはやはり叶わず、結局彼が見えなくなってしまうまで彼を抑え留めることはできなかった。できなかったものは仕方がないと思って、フュヌイは正面に視線を戻した。エンリケもまた司祭の方を見て眉尻を下げていたので、フュヌイは自分のことをまったく棚に上げて滑稽だと思った。
「まあいい。それで早速なんだが、兎にも角にも日常的に消費する物はなんでも足りないんだ。食べ物やワインだったらとっくに副王領でも作られてるし、農民から買い上げることもできる。そのぐらいだったら豪商の手下にも頼める。大して貴重でもないから小遣い稼ぎにしかならんのだろうな。話が逸れた、入用なのは、まず油、塩。この2つが特に足りない。それから衣料品だな。包帯だけは職人を確保してある。だからあとは『共感の粉』だ。あとは……そうだな、硝石があれば良い」
「油、塩、『共感の粉』、硝石……ですね。ええと、質問しても?」
エンリケが足を組んであまりにも寛いでいるようだったので、武器を持っている人間の前で随分と不用心だとフュヌイは感じた。彼女には虫も殺せまいとでもエンリケは思っているのだろうか。何であれ、エンリケからの文句は聞こえなかった。
「まず油ですが、この用途は何でしょうか?」
「主にランプ用だ。オリーブ油だったら食用も兼ねられるからより良い。まあ夜中に灯りの無い方が問題だ、鉱油でも最悪妥協はできる、見繕えるなら何だって良い」
「ありがとうございます。では次……『共感の粉』、ええと、失礼ながら私は聞いたことが無いものでして、どういったものなのでしょうか?」
「傷を負ったときに、その傷を作ったもの、剣とかだ、それがあればその剣とかにかけるための治療道具だ。原理は知らんが、確かに治りが早まる。ただまあ知らんなら無理に頼めはしないな、そう緊急でもない、また今度見に来い。粗悪品でも掴まされたらたまったもんじゃないからな」
言い分はもっともだ、とフュヌイは思った。しかし能力が軽んじられていることを感じないわけにはいかず、それはそれなりにフュヌイの機嫌を悪くした。会ってすぐの人間の能力を全面的に信頼するなど無理に無理を重ねてもできない話だとは内心分かっていても、見たことがないくらいで粗悪品を買わされてしまうような人間だと思われているのがフュヌイには心外に思われた。
「では、そのようなところで。早いほうが良いでしょうから、私は今日のうちに出発したいと思っていますが、ラグナルソンさんには都合が悪うございましょうか?」
「一度駐屯場所に寄ってくれ。せっかくの御用商人が賊に襲われれば俺らの損害でもある。だから部隊の紋章旗を貸す。あと、馬車は繰れるか? そうか、それなら馬車も貸そう」
「でもそんなご厚意、私には勿体ないでしょう、ラグナルソンさん」
無論フュヌイにとってこれはリップサービス以上の意味を持たない言葉だったし、エンリケもそのように受け取った。司祭や村長と違いなめらかに話が進む、このことをお互い心地よく思っていた。
「俺が受け取れと言ってるんだ、いいから受け取れ。それと、ラグナルソンと呼ぶのはやめろ。親父と同じように扱われるのは、本当に虫唾が走る」
エンリケの直情的な声は、本心において迂遠を嫌うフュヌイにも気に入るものだった。
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