夏雨

 一夜が明け、フュヌイはいま、降りしきる雨ですっかり塞がった空の下、森の道を歩き進んでいた。彼女に用があって今日来るという客を司祭に尋ねてもいつ来るとも知れないようで、それであれば、と手持ち無沙汰を嫌う彼女は一度故郷の村を見に戻ってみることにしていた。イベリアではついぞ感じられなかった、重い雨が雨除けの外套に一粒ひとつぶ打ち付ける、杭を打つかのような感触と音が彼女にホームシックの感情を取り返させていた。

 こんな雨では匪賊が潜んでいたって開店休業もいいところだ。雨に打たれて体調を悪くする上に通る人もまばらでは、まったく割に合わないだろう。そういった目論見もあって、彼女は今日先に戻ってみてしまうことにしたのだった。

 今彼女が歩いている道は、副王領がそのように呼ばれるようになる前、すなわちシフア人たちの社会がまだまともに存在していた頃にも使われていた、それなりに有名な道だった。4年も年月が経てば、使われなくなった道など草花が生え狂ってすっかり見えなくなってしまう。逆に、そんな風にはなっていないことがこの道が現役で使われていることの何よりの証拠であった。

 道がまだあることと雨の重みから来る故郷への恋しさの鮮烈な印象――それが弱まってくると、フュヌイの心中には何か違和感が芽生えてきた。賊の気配は感じられない。だからその違和感が何に由るのか――考えてもわからないので、それに気がついた瞬間、彼女は思わず声を漏らしたほどだった。

 。彼女の記憶の中にあるこの道よりも。旧使用者のシフア人は、しめておそらく1割くらいに減っているのだろうだから、この道が維持されている時点でイベリア人がいくらかシフア人の遺産を使っているのだろうということは推測された。しかし、沸騰するように浮き上がってきた彼女の記憶と今彼女の目の前にあるこの道を照合してみると、まず道幅が明らかに広くなっているし、道にかかる木の枝もよく見れば叩き切られているし、よくよく見ればこの草の生え方は馬車の轍に対応するのだろうか、そういった観察が次に息の吸われるまで閃いて、雨が弾かれるほどに彼女の思索を捉えた。

 フュヌイはそれが意味するところまで思いを馳せようとし、足を止めた。この道を行き交う人はどんな人なのだろうか。いちばんありそうなのはイベリア人に違いない。しかし、イベリア人がこの向こうに何の用があるのだろうか。この道を二週間ほど行けばシフア人の王都が存在していたはずだが、あいにく彼女はそこに行ったことが無く、旧王都については想像を巡らせる余地も無かった。イベリア人がそこに新しく城でも建てて何かやっていて、それでここの通行が多くなっているのかもしれない。そう彼女は思ってみたが、いまひとつ説得力を持って彼女自身に訴えかけるものではなかった。それよりかはもしや神の怒りペストをどうにか免れたシフア人の一団がいて、遺産をそのまま使って復興しているのかもしれない。そういった想像の方が彼女にはまだありえそうなことだと思われた。

 足を再び動かし始めて幾許も無く、しかして彼女の希望的観測は誤りであったことがはっきりとした。彼女の知っている場所よりもはるかに手前で急に森が開けて、その先には田畑が広がっていた。その中に建物が散在していたが、それらはすべて彼女には見慣れない様式であった。少なくとも、シフア人が建てたにしては異様な建物がそこかしこに目に付いた。

 秋口に差し掛かろうというのに、田畑に育つ植物はそれほど努力を実らせているようには見えなかった。まばらと言っても、腰ほどある何かの植物がそれなりに生えているので、世辞であれば壮観と言っても良いな、とフュヌイには思えた。

 おそらく集落の管理者あるいはそれに類する集団がイベリア人なのであろう、シフア人はこの土地からとうに去ってその痕跡も残らないかのように思えた。この畑で何かを育てているのは、イベリア人か、あってもイベリア人のもとで働くシフア人だろう。そう思うと、フュヌイは集落のすべてがペストに苦しんでいたときの暗い記憶の雰囲気を思い出さずにはいられなかった。

 それでも、とフュヌイはまだ歩みを進めた。そして、その理解の動くまいことを見た。

 風景は様変わりしていたが、彼女の覚えている距離を歩けば、徐々に旧集落の建物の姿があるところになった。そうなればもう彼女にとっては勝手知ったる庭のようなところだったが、無邪気に喜ぶことはできまいと思っていた。これまでに見た景色が、その懐かしさに岩を落とすように思えた。そしてその直感も実際に正しかった。

 彼女の生家に誰かが住んでいる。隣接する畑にも植物が植わっている。さっき見た、イベリア人のもので違いあるまいものと同じものが、父と兄2人と弟で手入れされていたはずの場所に。フュヌイが、生まれてから4年前まで一度として離れたことの無かった場所に。

 ノックをしてみようか、という思いが彼女の脳裏に一瞬だけよぎり、すぐさま却下された。そこにいるであろうイベリア人――どんなに短く見積っても、種を撒く春には住んでいるはずのイベリア人――に、もし彼女が悪意を見出すことに成功していたのであれば、ノックどころかすぐに扉を蹴破って果敢に立ち向かうことができていたに違いない。しかし、そうではなかった。

 元の規模の2倍や3倍に膨れ上がった今のこの集落に住む人全員が、おそらく廃墟と化していたであろう建物や荒れるに任せられていたであろう畑に、奪おうという確かな悪意を持ってやってきた――そう考えるのはあまりにも荒唐無稽だった。集落全体の単位で考えてもそうなのに、彼女の生家に限って騙し奪おうと思って人がやってきたと思うこともまた彼女には不可能だった。そこに今住んでいる人が誰であれ、そして権利の正当な保持者が彼女であったとしても、明らかにこの場で闖入者となるのは彼女の方だと、分からずにはいられなかった。

 所在なく、空をノックする用意でもしていたかのように出されていた彼女の右の拳が、雨を帯びるようになっていた。その拳が下ろされると共に、生家が恐ろしいものに化けでもしたかのように彼女は一歩後ずさった。

 フュヌイは、次の4年はここで動けずに立ちすくんでいそうだと自分のことを思った。

 さりとてこの4年は実際には4秒程度で済んだ。

 彼女は軽快とは言い難くとも間違っても鈍重ではない足取りを、旧集落の中心にあったはずの一等大きい家へと向けた。もし悪意をもって不正義を働いた忌まわしきイベリア人がこの集落にいるとすれば、それは集落の長のような立場に立っているに違いない。もしそこにいる人物が不正義を働いているのであれば、糾すことが真の進行を持つ者としての義務である。そのようなことは思うまでもなく、彼女の行動原理の一つとなっているものだった。

 雨は少し弱まった。叩くような雨粒が無くなって、湿った薄布のように空間を満たすような雨が降っていた。外套に覆われていない顔鼻がそれをかき分けていくので、むしろ彼女の正徳心はより燃え上がっていった。

 今度は迷いの無いノックの音が響いた。返事も待たずに、半ば押し入るようにしてフュヌイは悪の巣と思しきところへと入っていった。入ってすぐのところにはがらんとした客間があった。すっかりシフア人の雰囲気は無くイベリア趣味になっていたが、誇示される金銀のような鼻につく悪は見つけられなかった。すぐにドアの一つが開いて、イベリア人の女が一人フュヌイと対面した。見るやいなや、機先を制さなければすべてが終わるとでも言わんばかりの勢いでフュヌイは口を開いた。

「お初にお目にかかります、わたくしはスリストゥウ・フュヌイ、この地で生まれ育ったシフア人にして真の神の光を見た者でございます、本日はお願いを致したくここに参りました、どうかご寛恕いただけませんでしょうか」

「……はあ、主人を呼びますね」

ぱたり、と空箱のような軽い音でまたその空間はフュヌイ一人によって占拠された。

 壁の向こうから声が聞こえた。シフア人が面会を求める云々。すぐ行くからワインでも出せ云々。フュヌイにはあまりにも粗野に聞こえた。どそどそと足音が鳴って、それからまたフュヌイによる部屋の占領が終わりを迎えた。

「どうもどうも、お客さん、お待たせしてすいませんね、なにせお客を迎えることなんて珍しいことですから使用人も準備ができてなくて」

出てきたのは無邪気な笑顔を浮かべた身なりの良さそうな小太りの男だった。フュヌイは、もうこの時点でこの集落に住むイベリア人の誰かに悪性を見出すことをすっかり諦めてしまった。彼女は徒労を働くことを嫌っていた。

「お気になさらず。わたくしはスリストゥウ・フュヌイと申します。ええまあ、お願いを致したく参りましたわけなのですが、ええと……何とお呼びすれば?」

「ああこりゃ失敬、私のことはアロンソとでも呼んでください、一応この村の長老をやっとりますんで皆は長老とか呼んでくれますがね」

「では、アロンソさん、わたくしは――もしや先ほどお聞こえになったかもしれませんが――シフア人でございます。それも、こので生まれ育ちまして、ええまあ少々事情がありまして、副王領を離れておりましたから、こののこともすっかり放っておくことに違いは無いところでございました。それで、今日になってやっとこのまで来られましたから、生家の方へ戻ってみようと思ったら仰天、中がイベリア人の活気に満ち溢れ、私の生家まで使われているではありませんか、ああいえいえ分かっております、今更どけなどと言うつもりも毛頭ございません、ただ、ただ少し、私は……寂しく思いました。もし、もし可能であるのであれば、そこに正義を介在させて頂くことは可能ではありませんでしょうか、そのことをお願いしたくここまで参ったのです」

「……この村出身のシフア人の生存者がいたとは、驚きです。てっきり、完全な無主地とばかり……でしたら、あなたへ補償をなにかしなければ。まあ見てもらったならわかると思いますが、うちはそう豊かな村ではありませんし、そうだ、新しく土地をあなたに割り付けましょう、それでいいですね」

フュヌイは無言でさも満足そうに首肯した。これ以上愚鈍な話し口に付き合っていたくないと思って、アロンソにも礼儀というものを学ぶ機会が無かったと見るやこれ以上の礼節は不要とばかりに竹を割るような仕方に変えていた。しかし土地などはどうせ集落の外縁部の山か森、女一人では畑にもできないどうしようもない土地が来るに決まっている。そんなことが見通せているのにいちいちどこが良いかなどの話にも乗り気になるはずがなかった。フュヌイは良きところをそちらで見繕いいただければ、とだけ言って突き放した。

 善は容易にして悪は狡猾、悪に逆らうは神の意志たる正義である。そう考えていた彼女にとって、狡猾すら為せないような知性では取り合っても仕方がないものとするほかなかった。

「そうだ、イベリア式の農業もご紹介しましょう、シフア人のやり方では何かと不経済ですからね」

「いえ、申し出はありがたいのですが、本日はたまたまこちらへ足を運んだのみで、別件がありまして……また今度、お願い致しますね」

副王領の風土にイベリアのやり方を押し付けた結果があの散漫な畑の様子か、と思うととうとうフュヌイにはアロンソが哀れに思えてきた。しかしそれは彼の無能への嫌悪を上回ることが無く、フュヌイは足早にその部屋を去った。

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