後編
あまり知られていないことだけれど、月面のレゴリスには緑やオレンジの微細な色ガラスも混じっている。隕石が衝突した際の熱で表土のケイ素がガラス化し、その時に化学反応を起こして、そうした色がつくこともあるのだ。
「鳥」が消え去った後に残っていたのは、そうした緑の月面ガラスを融解して形成したと思しき、植物の双葉を模した小さなオブジェだった。
生命が育まれることのない、有機物皆無の月面にふさわしい、鉱物性の植物。
樹木の果実が甘く熟すのは、鳥に種ごと食べてもらい、糞として排出された場所で発芽するためだと、聞いたことがある。
炎で生まれた焼き物の鳥は、ガラス製の双葉を残すのだ。
僕はその写真も撮って電子メールで送ったけれど、中村さんからの返信はなかった。いろいろお願いしてしまったから、調整が難航しているのかもしれない。
宇宙焼き物師で中村姓の人を検索してみたけれど、ヒットしなかった。作家としての名前は本名と別にしているのだろう。全員のプロフィールを調べてみても、祖父の中村さんと繋がる情報は非公開にしているらしく、絞り込めなかった。
“ひのとり”が完成したことは明らかだ。ガラス製の双葉は、月面に元々ある安定した素材から作られているので、隕石がぶつかって砕けない限り、もう変化を起こすことはない。
それなのに僕は<ジャスミン>を操作するたび、荒涼としたモノクロの世界に忽然と現れる鮮やかな緑に、会いに行ってしまう。
日々の業務をこなしながら僕は、電子メールの着信を待ち続けた。
*
窓ガラスの向こうに広がるレタス畑を見せると、観光客たちからはやはり、思いがけず知己に出会った時のような歓声が上がった。
軌道エレベーターに乗り、漆黒の宇宙空間を抜け、はるばる月面までやってきた彼らが緑にどんなに輝きを見出しているのか、以前よりもわかる気がする。
「最近ちょっと、増えてきましたね」
ここまで観光客を導いてきた女性職員が呟き、頬を緩ませて去っていった。
確かに少し増えたようだ。今日はどんな顔ぶれだろうと1人1人の顔を見て、ある人物に目が留まり、僕は思わず「あっ」と声を上げた。
白髪でアジア人の容貌の、単独旅行者らしき高齢男性。
「中村さん!」
名を呼ぶと彼は少し微笑み、どうも、と頭を下げた。
お孫さんと連絡を取りたいと電子メールで打診して以来、かれこれ2か月ほど経っているだろうか。返信はまだ来ておらず、体調でも崩したのかもしれないと心配していたのだ。まさかこうして本人が再び訪れてくれるとは。
「見学されるんですか?」
「いや、今日は相田さんに会いに来たんです。どうしても直接お話したくて」
急遽、同僚と案内役を交代してもらうことにして、僕は中村さんを談話室に誘った。お孫さんも連れてきてくれたのかと思ったけれど、彼は1人だった。
「お久しぶりです。メール、見てくださったか心配していたんですよ」
「返信せずにすみません。どうも文章にするのが難しかったもので」
丁寧に頭を下げると彼は、背から下ろしたリュックを膝に乗せた。
そして中からおもむろに、1冊の電子ノートを取り出した。
手書きに特化した記録端末だ。アイデアをメモ書きやイラストで直感的に残したい、アーティストタイプの人間に好まれていると聞く。
「あなたにこれを、どうしても自分で渡したかったのです。
内容はコピーですが、孫が書いたものでね。例の“ひのとり”と一緒に、ホテルの部屋に残されていたのです。
孫はその日、ホテルを出発して、あの宇宙観光船に乗りました」
一拍置いて僕は、その言葉の意味を理解した。
中村さんと目が合う。
頷こうとして中村さんは、不意に目尻を歪めた。
端末の暗い画面に大きな水滴が落ちた。
*
『低軌道を周回する宇宙観光船を予約した。地球一周の旅だ。万里の長城を見つけるのが密かな楽しみ。それを終えたら次は、いよいよ月へ出発だ。
“ひのとり”を預かってくれそうな人に、目星は付けてある。
HPで調べたら、同じ日系人の職員が案内をしているらしい。日本ルーツなら、信楽焼を知っているかもしれない。その進化系だと言ったら、少しは興味を持ってくれるんじゃないか。宇宙的な視点で、何か活用法を見出してくれたら嬉しい。』
電子ノートの日記の最後のページには、そんなことが書かれていた。
別のファイルには“ひのとり”に使用した陶土の成分が細かく乗っていた。
使用する全ての土について、月面に放置した場合の収縮率と耐熱耐寒温度を割り出した計算式や、気の遠くなるような実験の記録までもが。
僕は日記に戻り、ページを
何かしていないと、指先の震えが全身に広がりそうだった。
宇宙焼き物師の肩書や月面に立つ信楽焼の狸を、滑稽に感じた自分を思い出す。
何もわかっていなかった。
どこにいようと全力を尽くす人は、そうしている。
与えられた環境で、手の届く方法で、突き抜ける情熱で。
“あの宇宙観光船の事故”の代償は、観光客の減少なんかじゃない。
そのことを僕はたぶん、初めて思い知った。
「あいつの両親、娘夫婦には、ひどく罵られました。
なぜ最後の陶土を渡したのか。陶芸など教えたのか」
中村さんの声がぽつぽつと降る雨音のように、耳に届いた。
「忙しい娘夫婦に代わって預かりがてら、土で遊ばせているだけで、教えているつもりなどなかった。それが同じような道を選んで、後継者にしろなどと言う。
重荷になるとわかっていたから、表向きは渋っていたが、内心私は、嬉しくてね。
沈みゆく国の伝統を守って何になる、無駄じゃないのかと思っていたが、若い世代が受け継ごうとする価値があったのだと、密かに自慢に思ったものです。
それが、こんな結果を招くことになってしまった」
中村さんは
「相田さん、写真とメッセージを、ありがとうございました。
最後の作品があなたのような、実際に宇宙で仕事をしている方の目に留まって、あいつも本望だったと思います。
その電子ノートは差し上げます。陶土について書いてあるようですから、孫の生み出した配合が必要なら、どうぞ使ってやってください。
あいつのしたかったことを見届けることができて、私は満足です。
あなたにまで、このような話をすることになってしまい、申し訳ない」
何度もお手間を取らせてしまって、すみません。
日本式に謝罪を重ねて、中村さんは静かに席を立った。
「あの、中村さん」
ほとんど反射的に、声をかけていた。
「この日記、全部読みましたか」
しばしの沈黙を置いて、中村さんはゆるゆると首を横に振った。
「……いや、辛くてね。最後のページと、他のファイルを少し覗いただけで」
「行きましょう」
席を立ち、僕は歩みを促した。不思議そうな目を向けられた。
「お孫さんの気持ち、直接見てほしいから、行きましょう」
僕は戸惑う中村さんを連れ、関係者以外立ち入り禁止の廊下に招いて、建物の奥へと進んだ。
こんなこと見つかったら、確実に処分ものだ。
突き当りの扉をロック解除すると、<ジャスミン>の操縦ブースが現れる。
生体認証を済ませて起動シーケンスを進めているところで、別の職員に見つかってしまった。
「あれ、何してるんですか。その人、観光客じゃ……」
僕は口の中で舌打ちして振り返り、何食わぬ顔を装う。
「ゲストだよ。大丈夫だ」
「え、聞いてないですけどねえ。通行証はお持ちですか?」
「土のプロなんだよ。陶芸家だ、信楽焼の」
「シラガ? 有名なんですか?」
シ、ガ、ラ、キ、ヤ、キ。1音ずつ区切って教えてやったのに、通じない。
「聞いたことないなあ。とりあえず一度、事務室に戻って手続きを……」
こんな時にうるせえな。
僕はとうとう、苛立ちに任せて怒鳴りつけた。
「シガラキヤキ! 有名なジャパニーズタヌキだよ、知らねぇのか!!」
相手はたじろぎ、目を白黒させながら部屋を出て行く。
誰か呼びに行ったかもしれない。急がなければ。
僕はまず、<ジャスミン>に記録された観察初期からの映像を再生した。
赤い素焼きの“ひのとり”。
初めて月面に立った信楽焼の「狸」。
太陽フレアによって翼を広げ始めた「鳥」。
何もかもが砕け散った後に残る「緑」。
ブザーが鳴って、エアロックの減圧が完了したことを知らせた。
すぐに<ジャスミン>を分厚い扉から放出し、モノクロの月世界へと進ませる。
地球より月の方が星がよく見えると考えている人がたまにいるが、誤解だ。大気のない空は太陽光ですら拡散させない。漆黒の背景に白いレゴリス。それが月だ。
生も死もない、その荒涼たる沙漠のような場所に、宝石のような緑が現れたら。
人類は歓声を上げる。それはもう、たくさんの人と僕自身で実証済みだ。
モニター画面に大写しになったガラス製の双葉は、周囲のレゴリスと同じ成分だからだろうか。いつも不思議と埃にまみれておらず、瑞々しい輝きを保っていた。
きっとこれも、彼の計算の内なのだろう。
「お孫さん、すごい人ですよ」
操縦席に座ったまま、僕は低く呟いた。
「地球にいながら月のことを調べて、土のことも調べて、収縮率とか帯電性とか太陽フレアとか、全部調べて実践して。こういうの、なかなかできることじゃない。
あなたが守ってきた信楽焼を、宇宙に出したかったからです。
人間と一緒に、連れて行きたかったんです」
人類はもう火星を目指している。
この先、地球はどんどん遠くなるだろう。
他に大事なことはたくさんある。
水没した国のたった1つの文化を守り続けたことに、意味はあったのか。
そんな中村さんの葛藤を彼は、鮮やかにぶち壊してみせたのだ。
日記のとあるページに、こう書かれていた。
『陶土はもうない。でも信楽焼は、月面で進化を遂げた最初の焼き物になる。
形がなくなっても、記録さえ残れば、人類はこれを忘れないだろう。
月でも火星でも、シガラキヤキと言えば通じる日が来る。
他の惑星のレゴリスから作られた器はそのうち、全てがシガラキヤキと言われる。シガラキヤキが焼き物を意味する宇宙共通語になる日が、絶対に来る。
無駄なことなんて1つもない。宇宙はそういう場所だと、俺は思う。』
中村さんは微動だにせずモニターを見つめていた。
廊下から複数の足音が聞こえてきて、空気がにわかに騒然とした。
何してんだ、カズマ。上司の声がする。振り返った僕の目は赤かっただろう。
部屋に入ってきた職員たちの視線が、僕を通り越してモニター画面を見た。
わあっと驚愕の声が上がり、誰もが度肝を抜かれた顔つきで、立ち尽くした。
ぽかんと口を開けたその顔。僕は嬉しくて、おかしくて、思わず笑った。
おい、やったぞ。
宇宙のどこかにいるだろう彼に、呼びかけた。
君の作品は記録に、記憶に残った。
他の誰が忘れても、僕は忘れない。ここにいる奴らもきっと忘れない。
細胞に抱えたまま、いつかその日が来たら、宇宙の果てまで会いに行く。
*
その後の顛末を僕は、もらった電子ノートに記録しておくことにした。
いいことも悪いこともあり、僕個人にとっては大半が悪いことだったが、今考えてみても全く後悔はないということを、はっきり記しておく。
驚きから解放された上司によって、中村さんは丁重に観光ルートへ戻され、僕は大目玉の末に謹慎処分と減給処分を食らうことになった。
宇宙で不測の事態は即死に繋がる重大案件だから、ルールを逸脱した輩の処分としては優しすぎるくらいだ。異論も不平もない。
ガラス製の双葉は、大いに注目を浴びることとなった。
大量の始末書を書きあげる過程で僕は、それまでの経緯を
図々しくも、新たな提案をしさえした。
新・シガラキヤキの創設だ。
思いついたのだ。あのガラスの双葉がある場所を、シガラキという通称で申請したらどうだろうと。
あまり一般には知られていないが、現在の月に関する国際法では、月の地名を勝手につけることはできないものの、情報伝達の円滑化と月面地図の詳細化のため、「新たな目印を発見または設置した者に、その場所の通称を申請する権利がある」とされている。
通称の使用が認められた場合、十年経って浸透していると承認されたら、正式に地名として申請することができるのだ。
もしその審査に通ったら、いよいよあそこはシガラキという地名になる。
周辺のレゴリスで作った焼き物は、新・シガラキヤキになる。
上司との面談の機会に僕は何度となく、そのことを熱く語った。
新たな観光の目玉となりうる焼き物作りの協力者には、中村さんを推した。
「幻の国ジャパンの伝統工芸士が、月に移住して伝統工芸を続けるんですよ。かっこよくないですか? きっと話題になって、その器を使ったうちのサラダを食べようと思う人が増えます。窓から“進化する焼き物”の眺めを見せれば、リピーター客の獲得に繋がります。伝統と進化と緑。そのどれにも人は魅かれるんです」
必死でPRする僕の姿は、それまでの僕を知る人の目に、どう映っていただろう。
どうしてこんなに一生懸命なのか、自分でもわからなかったけれど、丸く熱い火の鳥の卵が、いつの間にか僕の中には産み付けられていた。
観光部門だからできないことなんてない。僕はいつか火星に行く。その時に今の経験が役立たないと、どうして言える。
宇宙は広く過酷だ。いつどうなるかなんて、誰にもわからない。
だからこそ今、やるんだ。
与えらえた環境で、手の届く方法で、突き抜ける情熱で。
何があろうと宇宙には、無駄なものなんて1つもないのだから。
上司の許可をもぎ取って、僕は中村さんに電子メールを送った。
返事はなかなか送られてこなかった。
1か月、2か月、3か月、待った。
待ち望んだ返信がある時、ようやく訪れた。
そこには簡潔な文章で、こう書かれていた。
準備ができたので今から月に行く。
宇宙焼き物師になります、と。
<了>
緑 in the moon 鐘古こよみ @kanekoyomi
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