中編

 

 普通に考えたら断るべきだったのに、そうしなかった理由は2つある。

 僕が土壌学を専門としていたことと、観光部門に在籍しているということだ。

 畑と工芸。方向性は違えど、扱うものは同じ土。

 月面に置いて完成する焼き物なんて、本当だったら面白い――と、少々挑戦を受けるような心持ちになっていた。

 それに、もし月で完成する焼き物があるとしたら、新たな観光客を呼ぶ商材になりうる気がした。

 減ってしまった観光客を増やすべく、野菜以外のアピールポイントを新たに創出できないかと、上層部から尻を叩かれているところだったのだ。


 まだ海とも山とも知れない段階だから、同僚や上司には知らせず、1人で観察することにした。変化があったら電子メールで写真を送ってほしいと中村さんは言い、謝礼の提示をしてきたのだが、さすがにそれは発覚したらまずそうだから断った。


 月面で基地の外を動き回っているのは、障害物回避機能に優れた探査車ローバー遠隔操作ロボットアバターばかりだから、置く場所には困らない。今や人間が基地の外に出て自ら作業する必要性は、皆無と言っていいレベルなのだ。

 レゴリスばかりの不毛の地に信楽焼の球体を1つ置いたところで、付着した有機物が活動できる環境下でもなし、問題にはならない。

 アバターを出動させてローバーのちょっとした不具合を解決する仕事は日常茶飯事だったから、そのついでに球体の脇を通り過ぎ、目に見える変化があれば写真を1枚撮っておく程度のことも、職務の範囲を逸脱した行為にはならないだろう。


 さっそく<ジャスミン>と名付けられたアバターに信楽焼の球を持たせ、エアロックで減圧操作を済ませてから、外に出した。

 荒涼とした月面を進むカメラ越しに、何か良い目印になるものはないかと探したけれど、結局は覚えやすい座標の数字で設置地点を決めた。

 灰色の大地にぽつりと置かれた信楽焼は、やけに鮮やかな緋色に見える。

 さて。これがどう変化して、どんな完成を見せるというのか。


     *


 赤い球体を僕は“ひのとり”と呼ぶことにした。設置して数日の観察で、細かなヒビが生じ始めていることがわかった。

 当然だ。月面は大気がなく乾燥し、強いエネルギー粒子線に終始さらされている。1ミリメートルより小さな隕石が減速することなく、秒速10キロメートル以上の速度で突っ込んでくる。それに砕かれ舞い上がったレゴリス粒子が、鋭い研磨性と磁気を帯びてあらゆるものに付着する。

 カメラ越しには静の風景だが、実際には想像を絶する過酷な環境下なのだ。


 月の1日は約655時間。地球の日数に換算すると約27日間で、「昼」と「夜」がおよそ14日間ずつ続くことになる。この間に問題となるのが、激しい寒暖差だ。

 月は太陽系の中でもトップクラスに温度変化が大きい。場所と時期によっては「昼」に華氏260度と尋常ではない暑さに達し、「夜」は華氏マイナス280度と、これまた尋常ではない冷え込みが襲う。地球由来の物質を月面に放置すれば、この寒暖差でまず壊れるのが必然だ。


 この観光基地は寒暖差の緩やかな高日照地域に建設されてはいるが、それでも温度変化が極値に達する時には、ローバーやアバターの全てを施設内に格納して、外作業を中断することにしている。この間は観察ができない。

 ヒビの目立つ“ひのとり”の写真を1枚撮り、電子メール経由で中村さんに送った。


     *


 長い「昼」と「夜」を超えて、月の「翌日」がやって来た。

 温度変化が極値を脱した時点で、ローバーたちは再びレゴリス集めに駆り出されている。環境に変化がないか見るために、僕もフットペダルと手元のグローブで<ジャスミン>を操作して、「朝」を迎えたローバーたちの後を追う。


 モニター画面の座標数字を見て“ひのとり”を思い出した。あの球体は、観察できない間にどんな変化を見せているだろう。

 月面に放置すればヒビが入って割れる。それくらいのことは、宇宙焼き物師を名乗るアーティストならば予測していただろう。作品は完成したのだろうか。


 座標地点へ近づく途中で、レゴリスに覆われた小山のようなものを見つけ、僕は思わず「あ」と声を漏らした。

 割れている。まるで卵のように、球体だった“ひのとり”が。

 ほとんど粉々に崩れ去った焼き物のかけらの中心に、何かあった。遠目には球体をぎゅっと握りしめ、でこぼこと形を変えたような印象。

 接近し、アバターの巻き起こした埃が収まるのを待って、その物体の表面を覆った微細なレゴリスを、グローブ越しに握った除去装置で取り除いてみる。


「はっ」

 思わず短い失笑が出た。現れたのは例の、とぼけ顔の狸だったのだ。

 平たい帽子を被って酒瓶を携え、小首を傾げて宇宙を見つめる動物。

 信楽焼で有名な置物だ。

 がっかりしたことで、少しは期待していたのだと気付いた。所詮、こんなものだ。子供の遊びに付き合わされたような徒労を感じた。地球にいながら考えたにしてはと、褒めてもいいのかもしれない。

 写真を1枚撮って、僕は中村さんに電子メールを送った。「無事に作品が完成したようですので、観察を終了します」と、ひと言添えて。


 その夜――地球時間での夜という意味だが――中村さんからの返信が届いた。

 丁寧なお礼の言葉と共に、もう少し観察を続けてほしいと書かれていた。

 まあね。

 ちょうど宇宙ビール――水回収システムに影響を及ぼさないよう配慮された疑似アルコール飲料――を飲んでいた僕は、おおらかな気持ちで頷いた。

 最後の陶土を譲り、月まで運んでやった作品の完成形があれでは、正直言って肩透かしというものだ。まだ何かあるだろうと考えてしまうのも無理はない。

 僕は返信をしないまま、気が向いた時に様子を見に行くことにした。


     *


 少し大きめの太陽フレアが発生するとの予報が出た。

 人体や機器に悪影響を及ぼす高エネルギー粒子線やX線、電気を帯びたガスなどが放出されるので、ローバーやアバターは施設内に収納され、外作業は中止だ。

 予期せぬ事態に備えて施設内も極力電源を落とし、僕たち職員は寝台と兼用の緊急退避カプセルに収まって、孤独な時間を過ごすことになる。

 生体デバイスのアクセスも遮断されるから、アナログな方法で本を読むくらいしかやることがなく、この時間は本当に暇だ。


 昔ながらの電子書籍端末を手に取り、僕は適当な漫画を探して画面をスワイプしていた。オフライン状態でも、著作権の切れた世界中の書籍が格納されていて、各国言語で自由に読むことができる。

 僕は最近、と言ってもこんな時間がある時に限るのだが、日本の古い漫画にハマっていた。数年前、宇宙的人気を誇るポップスシンガーがSNSで「テヅカオサム」について呟いたことが発端となり、世界中で日本漫画ジャパコミブームが息長く続いているのだ。


 ランダムに切り替えられる注目の作品コーナーには、「テヅカオサム」作品が並んでいた。そのうち1つの表紙に目が吸い寄せられて、僕はそれをタップした。

 『火の鳥 phoenix』

 幼少期に母に叩き込まれたので、簡単な日本語の漢字なら僕にも読める。

 あの信楽焼の球体に書かれた文字が、脳裏に浮かんだ。

 まるで太陽フレアから生れ出たような黄金に輝く鳥が、表紙いっぱいに翼を広げている。あの球体から生まれたのは信楽焼の狸だったが、何か関係あるのだろうか。

 無料の気安さから僕はそれをタップして、そして、やめられなくなってしまった。


     *


「目が赤いぞ。いいバーチャルポルノを見つけたらしいな」

 通りすがりの同僚のからかいに欠伸あくびで返事をして、僕はローバーたちを平常作業に戻し、<ジャスミン>を出動させる手順を進めていた。

 太陽フレアの後は、機器類が予期せぬトラブルに見舞われることがあるから、ローバーたちをこまめに見回った方がいいのだ。


 太陽風は地球上で言う風とは違うから、吹き荒れたところで月面がめちゃくちゃになって地形が変わったりはしない。それなのにどこかしら、雨上がりの庭を見るような気持になるのは何故だろう。

 それまで月面を構成していた微細な粒子たちの構造が入れ替わり、人知れず新たな装いをしているためだろうか。密かに初雪を踏むような感覚になるのだ。


 モニターの端に表示されている座標画面に、緑色のマーカーが現れた。信楽焼の狸が立っているポイントだ。もしかしたら粉々になっているかもしれない。

 「テヅカオサム」の『火の鳥』では、火の鳥は自らを炎で焼いて再生を繰り返す、不死の存在だった。“ひのとり”もそうだとは思わないが、狸の中からもう1つ何かが生まれるくらいはしているかもしれない。マトリョーシカのように。

 傑作と引き合わせてくれた礼の気持ちもあって、僕は見に行ってみることにした。


 月面に佇む影が見えてきた時点で、違和感を覚えた。

 記憶にある信楽焼の狸の形と、どこか違う気がする。

 頭が小さくなり、体の両側が膨らんでいるように見える。角度の問題だろうか。

 首をひねりながら接近し、レゴリスの埃が収まるのを待つ。

 やがてカメラにはっきりと映ったその姿に、僕は目を疑った。


 そこに佇んでいたのは狸ではなく、鳥の置物だった。


 首をまっすぐに伸ばし、宇宙を見つめている。口は小さな嘴になっている。

 飛び立とうとする寸前のように、翼を両脇から少し離し、それで体が膨らんでいるように見えたのだ。翼の一部から表皮のようなものがパラリと剥がれ落ちた。

 そこから覗く本体の色が赤であることに気付き、僕はレゴリス除去装置を起動させた。微細な粒子が電磁石によって取り除かれていく。

 まるで朝日が昇るように、鳥の置物は本来の鮮やかな色を取り戻していった。

 燃えるような緋色スカーレット

 AIが信楽焼に特徴的と述べていた、最初の球体よりなお赤い色だ。


 モニター画面の前で僕は茫然とし――心情的には突如現れた鳥の置物の前で、立ち尽くしていた。

 狸が壊れて中から鳥が出てきた、というレベルではない。

 焼き物が進化した。いや、これは再生だろうか。

 太陽フレアに焼かれて信楽焼の狸が、“ひのとり”に変化したのだ。


     *


 周囲に散らばる焼き物のかけらをいくつか持ち帰り、研究開発部門の同僚に頼み込んで成分分析にかけてもらった僕は、後ろから頭を殴られたような衝撃を受けた。

 分析結果には、作家の意図と工夫が詰め込まれていた。


 最初の球体は単なる信楽焼の陶土。でもその後は違う。

 「狸」と「鳥」は、それぞれ明らかに異なる成分配合の陶土で作られていた。信楽陶土の基本成分である長石、石英、カオリナイト、亜炭。そこに酸化鉄と模擬砂シミュラントが混ぜ込まれている。その分布が部位によって人為的に変えられているのだ。

 僕の脳内で自然と、作家の思惑と手順が再現されていった。


 外側の球体は信楽焼の陶土を使った素焼きだ。これは月面に置かれることで劣化し、ひび割れ、やがて内部の「狸」が露出する。

 「狸」は月面を踏んだ初の信楽焼として、しばし宇宙空間見物を楽しむ。その間に高エネルギー粒子線やレゴリスに洗われ、やはり劣化が進んでいく。

 宇宙にいれば必ずいつかは、太陽フレアに見舞われる。

 強烈な太陽風を受けた「狸」は、さすがにそれまでと同じ構造を保ってはいられない。人間の目に見えない微小な世界で劇的な変異が起こる。

 恐らくは太陽風に含まれる水素が、一定の働きを果たしたのだろう。陶土に多く含まれた酸化鉄が水素と結びついた酸素を放出し、つまり水分を絞り出して収縮する。

 その作用が劣化の進んだ「狸」の表皮を剥離させ、「鳥」の翼を膨らませたのではないか。この辺りは想像でしかない。もっと調べてみなければ。

 あの小さな土の宇宙で一体、何が起こったのか。


 気付けば中村さんに電子メールを送っていた。宇宙焼き物師本人の孫と連絡が取れるか、“ひのとり”に使った陶土の成分を詳細に明かしてはもらえないか、月面で使用する新たな陶器皿やオブジェの作成に携わる気はないか。


 観光部門で芸術アートを取り入れたい、という話は前から出ていた。月面の他の場所や静止軌道ステーションで<月野菜>を提供するレストランを複数出店する予定がある。そこに独自のアートを取り入れることができたら、高価格帯の需要を見込める新規顧客層の開拓に繋がるのではないか。


 僕は毎日“ひのとり”を見にいく。そう、あれは火の鳥だ。「テヅカオサム」作品に出てきた不死鳥、フェニックス。自ら炎に飛び込んで灰となり、そこから再生してまた飛び立つ。その血を飲んだ者は永遠の生命を得る。人々は魅了される。


 宇宙を見つめる“ひのとり”は徐々に翼を広げ、背を湾曲させて嘴の角度を上向けていった。同時に表面の劣化が進み、緋色の体がぼろぼろと崩れていく。

 数日後、月の「夜」がやってきた。夜明けを迎えるまで、人も機械も巣ごもりだ。

 この寒暖差が何をもたらすのか、見ていられないのが悔しい。

 じりじりしながら僕は、月の「夜明け」を待った。


 やがてその日がやってきた。

 僕は同僚の誰よりも早く身支度を整えると、羊の群れを追い立てるようにしてローバーたちを外に出し、<ジャスミン>でその後を追いかけた。

 逸る気持ちを抑えて例の座標へ向かう。

 あの「鳥」は砕け散ってしまっただろうか。


 遠目から見える影はなくなっていた。レゴリスを蹴立てて<ジャスミン>を進ませると、仄かに赤みを帯びた欠片たちが月面に散らばっているのがわかった。

 到達するのももどかしく、カメラをズームする。

 何か光った。

 白い埃が画面を汚す。

 座標の地点に到達した僕は、除去装置でカメラのレンズをクリアにした。

 そして息を呑んだ。

 まさかの色が目に飛び込んできたのだ。

 漆黒の宇宙を越えた人類が求めてやまない、見れば思わず歓声を上げる色彩。


 ――緑だ。


 

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