緑 in the moon
鐘古こよみ
前編
窓ガラスの向こうにはレタス畑が広がっている。
整然と並ぶ緑の結球を目にした観光客たちからは、嬉しげな歓声が上がった。
毎回そうなのだ。軌道エレベーターで地球を脱出し、静止軌道ステーションで巡航宇宙船に乗り換え、月面観光基地まで約10日間かけてたどり着いた人類は、大抵の場合は植物の緑に飢えている。
ただし、その歓声のボリュームは、地球が夏の
「やっぱり少ないですよね……」
ここまで観光客を導いてきた女性職員が呟く。総勢12名。正直に言って、採算が取れるとは言い難い数字だ。
「あの事故の影響、まだ大きいんですね」
女性職員が去り際に言い残した“あの事故”とは、半年ほど前に起きた、宇宙史上に残る悲劇のことだ。大型宇宙観光船が
運が悪かったとしか言いようのない、予測不能の事故だった。
再び同じことが起こる確率は天文学的に低く、地球で交通事故に遭ったり、病気にかかって死ぬ可能性の方がよほど高いということを、大抵の人はちゃんと理解している。でも人の気持ちは、そんなに合理的に割り切れるものではない。
ルナベジタス社観光部門栽培管理課で広報案内係を任されている僕の目下の仕事は、そうした状況下でも遠い月面へ足を運んでくださった観光客の皆様に、当社ブランド<月レタス>と事業内容のPRをすることだ。
「ここからご案内を担当いたします、カズマ・R・相田です。どうぞよろしく。
さっそくですが皆さん、こちらの<月レタス>、試食してみませんか? 瑞々しくって美味しいですよ。地球のレタスとどこか違う点があれば、教えてください」
丸々と育ったやや緑色の濃いレタスを頭の横に掲げ、葉を1枚むしり取って、むしゃむしゃと食べてみせる。
12名の観光客たち全員が試食を希望し、受け取ったレタスをしげしげと眺めたり明かりに透かしたり、匂いを嗅いだりしてから噛り付く。
さざ波のような咀嚼音が広がる中、僕は毎度お馴染みの説明を開始した。
「宇宙で生野菜を食べたい。月面で野菜を栽培する目的は、その一言に尽きます。どこで生活しようと、人間の心身の健康には生野菜が必要で……」
新米の頃は網膜プロンプターに投影させていた説明文も、今となっては完全に頭の中に入っている。少々お堅いが、まずは一般市民の皆様に広く社是を知っていただきたいというのが、上層部連中の考えなのだ。
「そこで我がルナベジタス社は、月面観光基地の計画段階から参加企業として名乗りを上げ、月面に用地を確保しました。月面における完全独立循環型農業を確立させることが目標の1つであり……」
僕としては正直なところ、こんな単調な説明はAIにやらせてほしいと思っている。
ところが、それでは無機質すぎて味気なく、食品を扱う企業として信頼性の面でマイナスに働くというのが、当のAIの評価だった。
お陰で研究開発部門を希望して入社したはずの僕は、専門知識のある若手ということで、あっさり観光部門へ回される羽目になってしまった。
形式通りの説明を終えて質問を募ると、ぱらぱらと手が挙がった。
「月面は大気がないから、宇宙線や太陽風などがダイレクトに届きますよね。野菜の遺伝子に影響はないんですか?」
「月の重力は低いから植物はあまり育たないと聞きましたが……」
「月の土で野菜が育つんですか?」
どれもこれも想定通りの、今まで何度も答えてきた類の質問で、ほとんど頭を働かせずに答えることができた。
栽培ハウスの壁は他の施設同様、
無重力環境でも今の技術なら植物の生育に問題はないし、当社の栽培ハウスは全て与圧室となっていて、商用野菜に関しては地球上と同じ1気圧を採用している。
月面を覆うレゴリスの主成分は斜長石で、そこに隕石衝突の際に生成されたガラス片が混じっており、大気も有機物も水もないので農産物の土壌としてはかなり不適切だが、だからこそ、企業として工夫のしどころがある。
「土壌についてはこの先で詳しくご説明しますので、前へお進みください」
レタス畑を離れ、見学コースの通路にペイントされた矢印の通りに進むと、やがて左手の壁に巨大なシート型ディスプレイが現れた。
白っぽく乾いた月の大地を、何台ものロボットアーム付き
通路の突き当りには見本として、サイコロ状に圧縮されたレゴリスの塊が積み上げられていた。ローバーたちは、これを作るための材料を集めているのだ。
「こちらの四角い塊は、当社独自の技術で改良した
月面には黒っぽい<海>と白っぽい<高地>の二種類の場所があり、それぞれレゴリスの成分と性質が少し違っている。良い土壌を作るにはどちらもあった方がいいので、双方から集めてきた砂礫に、特殊な技術で超微細な穴を開け、地球由来の微生物を投入して、保管や持ち運びしやすいように圧縮した状態で熟成させているのだ。
何を隠そう、僕の専門は土壌学だから、ここでの説明には少し熱が入る。
同時にやるせない焦燥感も、足元からじわじわ這い上がってくるのが常だった。
何をしているんだろう、という気になるのだ。
僕がやりたいのは研究開発だ。観光部門でも全くできないわけではないけれど、比重はどうしても対外的な広報業務に傾く。こうして素人を相手にしている時間を、本当なら実験や論文執筆に充てたかったのに。
ルナベジタス社の長期目標の1つに、火星での農業経営がある。僕の最終目標は、それに携わることだった。
選ばれるためには、実績を上げなくてはならない。研究内容も大事だけれど、わかりやすいのは経営面での成功だ。宇宙開発を下支えする世間一般の人々に知名度があり、訴求力もあり、期待されている事業内容。そんなものがあればまず負けない。
そこを強化するために、観光部門でのPRは疎かにできない。
わかっているけれど、僕がやりたいのは、そこじゃなかった。
漫然と質問に答えているうち、気づけば結構な時間が経っていた。
「ご質問はまた後で受け付けますので、ひとまず先へ進みましょう。この先は品質管理検査室となっております。収穫野菜の検品をする様子が見られますよ」
専門のスタッフが待っているはずなので、一本道の通路を進むよう客たちを促して、僕は最後尾へ回る。
1人、ディスプレイを見つめたまま動かない客がいた。
単独旅行者と思われる高齢男性だ。白髪で、アジア系の容貌をしている。
「他の皆さん、先へ進まれましたよ。何か気になるものでもありましたか?」
英語で話しかけると、彼はハッとした様子で「すみません」と頭を下げた。日本ルーツだとすぐにわかる仕草だ。先方も僕のネームプレートに目をやり、「日系ですね」と呟く。
妙な親近感を抱かれてはと、つい身構えた。名前が
日本国は、数十年前に起きた海底火山の噴火の余波をもろに食らい、国土の40%を海中に沈めることとなった。現在は人の住めない水没国家となっていて、全国民が国外に脱出し、移住地と日本の二重国籍を許されている。
僕も祖父母の代に北米大陸に移住した家系の3世だ。
母から日本の文化や言語をひと通り教えられてはいたが、正直なところ、自分のルーツであるという以上の感情を抱いたことは一度もない。在りし日の故国の姿を懐かしむような話題を振られても困るのだが、高齢の日系人観光客は、なかなかの確率でその話題を繰り出してくるのだった。
でも、今回の男性の口から出てきた言葉は、想像とは少し違っていた。
「レゴリスでしたっけ、月の土。あれは、焼き物もできるんですか?」
「は?」
思わず、客前では出したことのない声と表情が出た。
ヤキモノ。
しばらくしてから、忘れかけていた日本語が脳裏に浮かぶ。
「ああ、陶磁器類のことですね。レゴリスを利用してガラス質の器を作っている会社は聞いたことがありますが、いわゆる陶磁器ですと……」
記憶に何か引っかかるものを感じ、僕は脳波で生体デバイスにアクセスし、AIを起動した。他の質問ならいざ知らず、土のことはやはり気になる。
利用中は表情が硬くなることもあり、年配客で嫌がる人が多いから、観光客を前にしている時はなるべく使わないよう、上層部から通達が来ているのだが。
瞬く間に検索結果が出た。
「ないことはないですね。レゴリスと同成分の
「宇宙焼き物師……」
その部分を呟いてしまう気持ちはわかると思った。検索をかけたついでにざっと概要を見たが、呆れた連中だ。主な活動場所は全員が地球。軌道エレベーターの利用が普及したこの時代に生きていながら、地球から出もしないでシミュラントを部分的に使用しただけの作品を作り、宇宙を名乗るとは。
てっきり僕と同様の印象を受けたのかと思いきや、白髪の男性は真剣な顔つきをしていた。ごつごつした自分の掌を、じっと見下ろしている。
土に関する仕事をしている人なのかなと、ふと思った。
見覚えのある掌をしていたからだ。普通なら他の部分より肌の色が明るく見えるはずなのに、皮膚の皺や指紋の間に日常的に泥が入り込むと、色味がくすんで薄汚れた印象になる。僕も地球で土壌学を学んでいた学生時代は、そんな掌をしていた。
カズマ、と呼ぶ声がする。品質管理検査室のスタッフだ。
「あ、もう行かないと。次の説明が始まりますよ」
「相田さん、お願いがあるんです。あとでお時間いただけませんか」
さっさと前へ進んでほしかった僕は、反射的に「もちろんです」と答えてから、質問ではなくお願いと言われたことに気付いた。
*
スケジュールが立て込んでいるから、ランチの間なら時間を取れる。そう伝えると中村さん――例の白髪の単独旅行者――は、せっかくの<月野菜ランチセット>をゆっくり味わうことなく、さっさと胃袋に収めてしまったらしい。
僕も社食のきつねうどんを、いつもの半分の時間で食べ終える羽目になった。
飲み物の自販機が並んだ休憩スペースで席を勧め、向かい側に腰を下ろす。
正直、気が進まなかった。昼休憩の時間を観光客に差し出すのは初めてだ。
「休憩時間に申し訳ない。どうしても聞いていただきたい話がありまして……」
「いえ、まあ、僕にお手伝いできることなら良いのですが」
中村さんは神妙な顔つきをして、膝の上に抱えたリュックの中から、ぐしゃぐしゃに丸めた紙の球に見えるものを取り出した。
机の上に置くと、ゴトリと重い音がする。
どうやら紙は梱包材で、中には固形物が包まれているらしい。レタスの葉のように紙を剝がしていくと、中から赤っぽい球体が現れた。
見た目は素焼きの土器だ。結構大きくて、サッカーボールくらいのサイズがある。
表面には日本語のひらがなで“ひのとり”と、恐らく筆で書かれていた。
なんだこりゃ。
率直な感想を心の中で漏らすと、答えるように中村さんが口を開いた。
「信楽焼の球体です。これは、素焼きの状態ですが」
「えーと、もう一度お願いします」
「信楽焼。日本の伝統的な焼き物なんですが、知りませんか」
シ、ガ、ラ、キ、ヤ、キ。一音ずつ区切って言われてもわからない。僕は異文化コミュニケーション支援AIを起動させ、シガラキヤキの意味を脳波で問いかけた。いくつかの画像と簡潔な説明が、視覚野と言語野に展開された。
『信楽焼
日本国の滋賀県甲賀市信楽を中心に産出されてきた陶器。
2017年、日本六古窯のひとつとして日本遺産に認定。
一般には狸の置物が有名。』
「あっ」
思わず声が出た。この狸、どこかで見たことがある。
ややあってから、祖母が車のスマートキーにぶら下げていたのだと思い出した。とぼけ顔で平たい帽子を被り、酒瓶を抱えて、鈴と一緒に確かに揺れていた。
『可塑性を持ち、こしが出るので、大物や肉厚の物を造るのに最適。細工しやすい粘性があるため、小物づくりにも適している。』
more.
『分類としては
高温で焼成することで、土中の鉄分が赤く発色し、特徴的な緋色を生じる。』
more.
『時代ごとのニーズに応じた多様な変化を経てきたが、現在、日本国の水没により陶土の入手が困難となり、伝統の断絶が危ぶまれている。
管理伝統工芸士は中村孝雄。後継者未定。』
more.
『管理伝統工芸士は、水没期の日本で成立した制度。1工芸につき1名以上が日本国から委嘱され、伝統の継承と保存及び、他の伝統工芸士を統括する。』
おや、と思った。偶然だろうか。目の前の人も中村さんで、確か名前は。
「もしかして、信楽焼の管理伝統工芸士さんですか?」
半信半疑で尋ねると、中村さんは目をちょっと見開いてから頷いた。
なるほど、土を扱う人の掌をしていたわけだ。
しかし……と、僕は戸惑う。
信楽焼の管理伝統工芸士が月に来てまで、一体何の用だろう。
疑問を察したかのように、中村さんは居住まいを正すと、静かに口を開いた。
「この球体は、宇宙焼き物師を名乗る孫が作ったものです。私の手元にあった信楽焼の、最後の陶土を使いましてね。作品に納得したら、後継者に指名しろと」
「えっ……そうでしたか」
“最後の陶土”という部分が気にかかった。起動したままのAIが敏感にそれを察知し、すぐに情報を送ってくる。
『信楽焼 最後の陶土
日本水没前、滋賀県は海外の姉妹都市に協力を仰いで、信楽焼の陶土を大量に持ち出し保存した。一部は将来的な土壌分析のために永久保存とし、残りは使用分として管理伝統工芸士の管理下に置かれた。数十年で枯渇すると予想され、模擬陶土の作成を視野に入れた技術の継承方法が議論されている。』
つまり、使用分の最後の陶土を孫に使わせたということか。先ほどの検索結果には、後継者は未定と出ていた。そのポジションを狙っている孫が、祖父に認めてもらうために作品を制作したということだろう。よくわからないが、管理伝統工芸士というのは、そんなに儲かる仕事なのだろうか。
「実を言うと私は、後継者を育てるつもりがありませんでした。
日本が水没した当初こそ、伝統を守るのだという使命感に燃えましたがね。
収入としても微々たるものですし、ほとんどの伝統工芸士は副業で生計を立てるのが当たり前です。他国に馴染んだ若者世代にまで背負わせる必要はないのではないか。彼らには他にもっとやるべきことがあるのではないか。そう思ったのです。
それに信楽焼は、土地の土で作るから意味がありました。
孫にもそう言ったのですが……あいつは、信楽焼を復活させるとか、妙なことを口走りましてね。やるだけやったら気が済むだろうと、最後の陶土を渡したのです。
孫によると、この球体は、月面に置いて初めて完成するのだそうです。
どういうことなのか、私にはさっぱりわかりませんが……」
中村さんの視線が“ひのとり”と書かれた球体からこちらに移った。
膝に両手をつき、彼は落ち着いた仕草で、深々と頭を下げた。
「お願いです。こいつを月面に置いて観察し、様子を知らせていただけませんか」
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