第7話 妊婦

 依頼を受けてから一か月以上経っても、幸いなことに佐渡からの接触はなかった。俺は変らずいつもの日常をこなし真面目に過ごしていた。寝坊もせず、ずる休みもせずに履修している授業を受け、級友とそれなりな会話をし、母のお見舞いに病院へ立ち寄り、バイトへ向かう。

 伯父は佐渡や牧瀬がまた俺に接触をするのではないかと恐れていた。完治することのなかった病気が本当に治ったことを感謝するにせよ、もしすでに誰かに移った病気が発症したことを逆恨みするにせよ、俺に負担になるのではないかと危惧してくれている。暫くバイトだけでも行くのを止めた方が良いと提案した。もし向こうから接触するとしたら学校を知られているのだから、学校をやめない限り意味をなさない。普段の生活をするつもりだと伝えた。

 今日まで二人と会うことはなかった。そう、今日までは。


 バイトのない日、学校の授業が昼過ぎに終わってから母の見舞いに病院に行って暫く病室で過ごした。気付けば十八時、腹の減り具合で帰ろうと病院を出ようとしたところにロビーで彼らに出くわした。車椅子にもたれて息も絶え絶えだった老体は、そこそこ元気な老人へと変貌していた。杖を突いているが、見違えるほどに血色も良く背筋を伸ばして立っている。じっと見つめていたせいか、佐渡はこちらに気付いていて一瞬目があった後すぐに目をそらした。俺もそうするべきだったのに出来なかった。彼らの傍に一組の若い夫婦がいた。夫婦に老人は目尻を下げ親し気に話していた。興味が引かれたわけではなく、ただ気になっただけだ。


「身体はどうだい」

「順調です。おじいさまもお元気になられて何よりです」

「奇跡の復活を遂げたって会社でも持ち切りなんだって?」

「まあな」


 皆が良かったねと笑う中、佐渡の一際大きい笑い声が響いた。


「いつ生まれる予定なんだ」

「もう一か月もしないうちにだよ。な」


 妻と思われる女性はこくりと頷き臨月の腹を愛おしそうに撫でていた。


「生まれたらお顔を見てやってください」

「ははは、勿論だとも。分厚い祝儀袋を期待しておけ」

「連絡待っているぞ」


 牧瀬が妊婦の肩をぽんと叩くと「はい」と応える。どうやら、夫は佐渡の孫で妻は牧瀬の孫らしい。牧瀬が佐渡からの仕打ちに文句ひとつ言わない理由が若夫婦にあるとわかる。二人の孫が結婚するに至る経緯がどういうものかは定かではないが、恐らく会社のための政略結婚なのかもしれない。だとしたら今時珍しいものだ。


 俺は首がもげそうなほど思いっきりかぶりを振った。気にしてどうする。俺にはもう関係ない話だ。見なかったことにしなければ。さっき見た様子は忘れてしまおう。


「こんにちは」


 背中をぽんと叩かれて鼓動が跳ねる。心臓が止まるかと思うとはこのことだ。振り返ると例の彼女が目に飛び込む。


「ああ、この間の…」


俺の言葉を遮るように「あ」と彼女は声を漏らした。彼女の眼はキラキラと輝いている。なんだろうと視線の先を追うと、若夫婦が病院を出ようとしているところだった。


「あの夫婦と知り合い?」

「いいえ。でも奥さんは知り合いに入るのかな。時々小児科を覗きにいらしてて」


 そういえばボランティアしてるって言ってたっけ。


「絵本や紙芝居の読み聞かせを手伝ってくださっていたんですよ。そっか、もうすぐ生まれるんだ」


 俺は「へえ…」と知らない素振りでから返事をする。


「元気な赤ちゃんが生まれると良いですね」


 屈託のない笑顔をこちらに向ける。顔見知り程度の知り合いにそんな願いを掛けられるような純粋無垢さが、聖人気取りのように思えて顔には出さずとも苦笑する。悪意が存在することを知らないんだろうな。


「今日もお見舞いにいらしてたんですか?」


 夫婦の姿が見えなくなるころに彼女は訊ねた。俺は素直に「そうですね」と答えると眉をさげて「そうですか…」とあからさまな憐憫を示した。暫し沈黙の後、おずおずと言葉を紡いだ。


「一日でも早く元気になると良いですね」


 母親が入院している———大抵の人はそれを聞けば同じように労りの言葉をくれる。本気の言葉か、社交辞令か計りかねることがある。大変だね、しんどいよね、とかける言葉の裏に「自分ではなくてよかった」と言われていると勘繰ってしまう。


「貴方…も、お疲れがでませんように」


 聞いたこともない言葉に面食らった。聞いたことがないと言うのは語弊がある。実際は「無理するなよ」と言われることはある。ただ年若い、同じ年のまだ大人とは言えない未熟そうな彼女の口から出た大人びた言い回しが妙に心に沁みた。


「あ、ありがとう…」


 なんと返事をすれば良い正しいのか答えが解らず礼だけを述べる。彼女は少し安心したように口角をわずかに上げた。


 彼女は手首の内側に文字盤を付けた薄紅色の女性らしく繊細な造りの腕時計を見て「そろそろ行きます」と言いぺこりと頭を下げる。俺は「うん」と声になったのか、ならなかったのか分からないほど小さな声で返事をした。もう一度頭を下げて彼女は速足で病院の奥へと歩いて行った。体が小さいせいで足も長くは見えない。ちょこちょこと動く足が小動物を思わせてなんだか可笑しい。そうだ、ハムスターだ。

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