第2話 いけ好かないじじい

 結局激臭の元になったと思われる派手な女性はひとつ前の駅で降りたが、車内は残り香が充満しいつまでたっても、こびりついたように臭いがなくならなかった。終着駅に到着し、漸く地獄の満員電車が終わったと数える程の乗車客と共に降りた。車外の空気がやけに美味しく感じ、何度か大きく深呼吸をしながら改札口に向かう。


 都心から少し離れた終着駅は黴臭さがあるコンクリートの古い駅舎である。天井は低く百八十センチを超える俺の身長では圧迫感を感じる通路を歩く。建物が古くても改札口は今時でIC乗車券ひとつで乗り降りが可能だ。


 改札口を出て左手に昭和から続く商店街のアーケードが見える。俺は迷わずそちらに向かい、いつもの道をいつもの速さでダラダラと歩く。どの店も開店前で人もまばらだ。

 二つ目の信号を渡ってから、更に次の路地を左に曲がる。そして二つ目の更に狭い路地を右に曲がるとアルバイト先であるお好み焼き屋『あきあかね』の裏口へとたどり着く。渡された鍵でドアを開けて入った。


「ざーっす」


 従業員用の裏口から入り、厨房で『おはようございます』を縮めた挨拶にもならない挨拶を気怠く告げると、あきあかねの看板女将こと大橋沙織は、恰幅の良い体で突進するかのようにやってきた。


「ちょっとちょっと!純ちゃん!」

「ざっす」

「挨拶なんてどうでもいい!」


 普段なら『挨拶なしで接客業が出来るか!』と口うるさい。口癖を忘れたかのように沙織は注意することなく早口でまくし立てた。


「あんたに客よ!まだ開店前だっていうのに、あんたの名前を呼んで店を開けろとやかましくて、近所にも迷惑だから入ってもらったけどさ。なんとかしなさい!」

「はぁ?」 


 まさか昨日の今日でやってくるとは!


「さっさと追い返したいけれど、あんな格好じゃそうもいかなくてね。全く、病気だからって好き勝手やってもいいって言うのかい。とにかく!どうにかして頂戴ね」


 沙織は言いたいことを言うとこれ以上関わりたくないと背中を向け、ランチの準備のため、キャベツを小さく刻んでいく。「早く行け」と急かすように大袈裟に音をたてられて俺は渋々、油を吸った茜色の暖簾をくぐって店に顔を出した。


「遅い!」


 当人は厨房側をずっと睨んでいたのか、俺の顔が視界に入るなり青白い顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。鼻には酸素チューブが繋がっている。息苦しそうに咳き込んだ。ヒューヒューと浅い息を繰り返し時間をかけて息を整える。

 遅いと言われても、俺はアルバイトのシフト通りに朝の七時に電車に乗って、すし詰めと悪臭の襲撃に遭いながら予定通り店についた。つまり何も悪くはない。ましてや彼と約束など交わしていないのだから、そのように悪態つかれる筋合いはない。


 この老人は苦手だ。人を見下す言動が原因だ。彼の怒鳴り声は全ての人間を委縮させる気がした。初対面時も胃に鉛が詰まるような重苦しい不快感を覚えた。

 

「なんすか、朝っぱらから。まだ店も開いてないし、女将さんに迷惑かかるから、今後はこういうのはやめてくださいよ」

「煩い!」


 煩い、煩いと小声で繰り返した後に咳き込み、ぜーぜーと荒い息をする。追い討ちで「小僧が偉そうに」と罵られる。

 俺は向かい合って座り老人―――確か名前は佐渡十蔵だったか―——の息が整うのを待つ。傍にいる、見るからに高級そうな品の良いスーツを身に着けた眼鏡をかけた老年男性が背中を黙ってさする。恐らく同じくらいの年頃だろうが、すらっとして背筋を伸ばした姿は年齢を感じさせない。そして持って来たステンレスの水筒の蓋をコップ代わりに水を注ぎ手渡した。佐渡は乱暴にそれを奪い取り震える手で喉に流し込んだ。空になった蓋をテーブルに叩きつけるように置くものだから、丸みのある角で鈍い音をたてて倒れテーブルを転がる。些末なことだとでも言うように転がった蓋を無視して続けざまに怒鳴る。


「こうして病院から抜け出して、わざわざこちらから出向いてやったんだ。労わるとかそういう気持ちがわかないのか」


 労わってやりたいなんて微塵も思わない。哀れだと思うどころか、俺に備わっているはずのあらゆる感情は彼が言葉を発する度に薄くなって無になる。気が済むまで怒鳴らせて黙り込むまで待つしかないのだ。俺は転がった水筒の蓋に目をやってやり過ごしていた。二、三分もすると息切れで怒鳴ることも難しくなりただ息をするだけの哀れな老体と化す。

 先日会った時の方がまだ血色がよかった気がする。


「体調が思わしくないようですね」

「当然だろう。もう愚鈍な医者のせいだ。あやつめ終末医療を勧めて来よる。わしに死ねと言うのだ」


 医者とのやりとりを思い出しているのだろうか。わなわなと身体を震わせた。

 優しいじゃねぇか。こんなどうしようもないじいさんにも医療は平等に与えられる。こいつの担当医に同情すら感じる。


「おい、あれを出せ」

「かしこまりました」


老年の男性———牧瀬博則は投げ出された蓋を水筒に装着し鞄に仕舞ってから、俺の前に茶封筒を差し出した。


「二百万円入っている。これでどうにかしろ」


 貧乏学生の俺にとって正直お金は魅力的だ。以前に見たものより明らかに分厚い。目の前に置かれ思わず喉を鳴らす。直ぐにでも手に取りたい衝動を抑えるように膝の上に置いた手をぐっと握り込んだ。


「本当によろしいんですか?前にも言いましたが代償はありますよ」

「良いと言っているだろう!」

「あなたも…牧瀬さんもそれでいいんですね」


 渋い表情を滲ませていた牧瀬に訊ねるとぐっと言い淀んでいた。車椅子に座っているせいで見えないのだろう。いや、見えていても気付かない、もしくは聞く耳を持たないに違いない。

 ばんっと大きな音でテーブルを叩くと、壁際に置かれた箸置きが振動した。俺は驚いて肩がぴくりと跳ね上がる。


「しつこいぞ!わしはそれで良いと言っている。これ以上わしに不必要に苦しい思いをさせる気か!」

「私もそれで結構です。どうぞお願いします」


 牧瀬は頭を下げた。俺は「わかりました」と深いため息をついてから立ち上がり、佐渡の前に屈んだ。彼が患っている肺の位置に服の上から手を当てた。掌がじんわりと温かくなっていく。


(あーあ。こんなことならあの時助けなきゃ良かった)


 後悔しても無意味だ。さっさと済ませてこの件は忘れよう。

 暫く手を当てていると、繰り返していた浅い呼吸がゆっくりと肺に空気を行き渡すように深い呼吸へと変わる。佐渡の意識が朦朧とし初め、俺が手を離す頃にはくたりと車椅子に体を預けるように眠った。

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