病をうつす人

桝克人

第1話 みっちり詰まった通勤電車

 朝七時二十分、通勤快速は寿司詰めで身動きひとつとれない。山に囲まれた頭に『ド』がつく程の田舎から出て二年が経つけれど、未だにこれは人間らしい暮らしとは思えなかった。俺の場合、周りより頭ひとつ抜きんでているから上部の空気を吸えるのでまだマシなんだろう。高身長に生んでくれた親に感謝した。

 寒い冬を超え風邪予防につけていたマスクは花粉症の季節になっても大活躍していた。外に出ると抑えられないくしゃみと鼻水を隠すためにマスクをしている。ぐしょぐしょになる顔を隠せるだけで安心感がある。同じ様に悩む人が多いのだろう。同じように顔を覆う人があちこちに見える。


 今朝は人の多さ———つまり社内に漂う体臭などの臭いが交じり合っており不快だったので顔を隠す以上の役割をしてくれていた。しかし運が悪いのか鼻腔を突き刺すような強烈な匂いに顔を歪ませた。本来ならいい香りであるべき香水だ。加減を知らないでつけているのか、ペラペラのマスクくらいでは意味をなさず、不織布を掻い潜ってくるやっかい臭いである。近くの人も同じように眉を顰めたり、顔を背けたりしていた。

 これだけ人が多いと悪臭の元が誰なのか判らない。苛立っていた俺はどうにか犯人を探し出してやろうと思った。目線だけきょろきょろ動かしてみると、一人だけこの混みあった電車でもまるで気にしていないと、片手で器用にスマホを操作する女性が目に入った。もう片方の手は吊り下げ輪に掴まっている。画面に滑らせている指には嫌でも目に入るショッキングピンクのヒョウ柄の着け爪が施されていた。彼女が犯人かはっきりはしないが、周りにそれらしい人がおらず勝手にそいつだと俺は決めつけた。


(悪いけど想像の中で責めさせてくれ)


 苦痛に揉まれているストレスを想像の中の犯人に文句を垂れてみたりする。心なしかすっきりした気がしたが、だからと言って悪臭が消えるわけではない。寧ろ気にしだすと臭いがより形どって攻めて来た。


(くそ…ついてないな)


 香水地獄にあっているだけの俺なんかに比べ、満員電車では体の小さい人はもっと大変だろうなと、今まさにどこにも掴まれず押しあう体に挟まれていることで体勢をとっているボブカットの女性を見て哀れに思う。ぱっと見百五十センチあるのかないのか判らないくらい小さい。黒色や紺色、濃い灰色といった深い海を思わせるスーツに溺れている。彼女の場合悪臭がどうのこうのなんて些細な問題なのかもしれない。降車するまでにぺっちゃんこになるのではないかと、他人事ながら心配になる位小さく見える。かかとのあるブーツを履いた足元が心もとなく電車が揺れる度にふら付いていた。


 ゲホゲホゲホゲホ!


 丁度犯人に仕立て上げた女性の前の男性が激しくえずくような咳をする。俺が乘って来た時にはすでに座っていた、スーツを身に纏い鞄を膝の上で抱えている男性だ。何度か咳をしていたが、どうにか出ないように必死に我慢して抑えていた。しかしどうしても出てしまう咳もある。手や腕で押さえ周りに迷惑がかからないようにしていても人が増える度に舞う埃のせいか、激しくなる一方だった。その度に周りに頭を下げ、肩をすぼめ屈むように俯いていた。


「ちょっと、おっさん、マスク位しなよ」


 例の派手な女性がスマホから目を離したと思えば、目の前の男性に語気を強めて吐き捨てた。男性は蚊がなくようなかすれた声で「すみません」と呟き、ばつが悪そうにさらに体を縮こませた。


(おまえの香水の匂いの方がやばいんだよ)と心の中で悪態をついてみる。


 男性の咳は意識的に我慢しているのは見て取れたが、なかなか止まない。その度に女性はあからさまに舌打ちをする。周囲の人も少しでも男性から離れようと体を反らしていた。体調が悪いのに精神的にも追い詰められないか心配にはなったけれど、だからと言って女性の悪態を止める勇気は俺にはない。せめて早く目的地につくことを願うばかりだ。


 さっきの小柄な女性がまだぺしゃんこになっていないか確認がてら目をやると、抱えていた背中をすっぽり隠すほどの大きな背負い鞄に手を突っ込んでいる。ただでさえ動けないだろうに、必死に鞄の中を漁っていた。もぞもぞと動くものだから、彼女をサンドイッチのように挟んでいるパン…でなく学生や通勤男性たちは背中に違和感を覚え、これまた不快な顔を帯び始めていた。


(これ以上場の空気を悪くしないでくれよ)


 一気にスピードをあげてさっさと次の駅に到着してくれと、無謀な願いを運転士か車掌か適当な神に願いを投げる。出着の時刻に正しい安全第一の日本の電車が初めて恨めしく思った。


 そうこう考えている間にビジネス街の最寄駅に着いた。押しあっていた人々はドアが開くと同時に外へと流れだした。俺はまだ降りないが、流れに身を任せドア近くまで押された。咳をしていた男性も立ち上がり最後尾につき同じ方向へとやってくる。


「ちょっと待って!」


 小柄な女性は、男性が降りようとしたところを見計らって手を取り何かを押し付けるように渡した。


「なかなか渡せなくてごめんなさい!良かったら使って!お大事にね!」


 早口で伝えると同時に乗客が乗りこみ始め、男性は降り遅れないよう慌てて外に出た。その様子は明らかに動揺と驚きに満ちており、目をぱちくりさせていた。ドアは閉まり電車は走り出す。窓の外にいる男性は、はっとして頭をさげて電車を見送っていた。


 さっきまで押しあっていた車内はまばらになった。スマホを操作していた派手な女性は空いた席に座り足を組んで何事もなかったかのように画面と向き合っている。俺は呆れてその女性から目を離した。

 小柄な女性はというと、ドアの傍にある手すりに掴み外の景色を眺めていた。俺は同じ景色を見ながら向かい側にある手すりを掴んだ。時折彼女をちらちらと横目でみる。背負い鞄の口は大きく開かれたままだったが、それに気づかないでいるようだった。大判の本か教科書かわからないが、鞄の口から何冊か覗いている。そして先程渡した透明の包装紙が見えた。


「鞄、開いたまま」


 全く閉める様子もなくずっと景色をみているものだから、このままでは気付かずに背負って中身をぶちまけるのではないかと悲惨な想像した。想像上の慌てる彼女が可哀そうになり指摘することにした。


「え?あ、ほんと!すみません、ありがとうございます」


 慌てて両開きのジッパーを丁度真上でくっつくように閉めた。彼女は鞄を抱え直し、こちらを見ながら恥ずかしそうに笑い頭をさげた。


「いつもそんなにマスク持ってるの?」


 鞄の中身が見えた時に気になった疑問を素直に投げかけた。そう、あのサラリーマンに個包装のマスクを渡していたのだ。ちらりと見ただけでも三センチ以上の厚みがあったと思う。恐らく七、八枚くらいは入っていたのではないだろうか。


「えっと、まあ、はい。沢山あっても困らないかなって…」


 彼女はうつむいたまま顔を赤くした。「過剰ですよね」と語尾にかけて小声になりながら笑って続けた。


「まぁ、いいんじゃない?あのサラリーマンも困っていたみたいだし。助かったと思うよ」


 ホームを離れる窓からはすぐさまマスクをつけている男性を思い出す。その後はこれも想像だけど、きっと背筋を伸ばして会社にむかったのだろう。周りを気にしすぎず済んだはずだ。


「それなら良いんですけど、おせっかいかなと迷って、でも困ってるみたいだったし…」

「おせっかいでもいいじゃん?誰にも迷惑かけてないんだし。彼がどういった病気を抱えているにしろ、咳をしていることは気にしていたみたいだったんだ。マスクひとつで心が軽くなったんじゃない?まぁ俺の勝手な想像だけど」


 彼女は俺の顔をみて安心したようにはにかんだ。


「ありがとうございます。そう言って貰えると『良い事した!』って胸が張れます」


 背負い鞄を前に突き出すようにして実際に胸を張ってみせた。鞄で隠れているから何とも言い難いけれど、まな板のような胸だなと下品な考えが頭をよぎる。同時にちょっと可愛いとも思った。


 彼女は次の駅で降りた。降車の際に「ありがとうございます」と律儀にお礼を言って俺が乘ったままの電車を見送ってくれた。

 彼女が降りた駅は馴染みがある。でかい総合病院がある。


(見舞いか…ああ見えて看護師?いや若いっていうより幼い顔をしていたから看護学生かな。確か近くに看護学校もあった気がするし…)


 毎日通っているならもう一度会えるかもしれない。だからと言って会いたいわけじゃないけれど。

ともかく世の中にはおせっかいないいやつは存在するのだと実感し、世の中捨てたものじゃない———なんて感傷に浸って電車に揺られた。

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