第3話 話は昨日のこと
佐渡十蔵と牧瀬博則との出会いはつい昨日のことだ。事務室に至急来るよう大学の敷地中にアナウンスが鳴り響いたことから始まる。俺は二限目の必須科目の授業を受けている最中だった。暫く無視を決め込んでいたが、五分おきにアナウンスがかかるものだから、三回目の呼び出しで教鞭をとっている教授がため息交じりにさっさと行くように指示され追い出された。
一体誰だと苛立ちながら事務所に向かうと、待っていたと涙目の四十代(多分)女性事務員が駆け寄って、急かしながら奥の部屋に案内された。
何事かと恐々とドアを開けると、見たこともない老人が俺を睨みつける。
「遅い!何分わしを待たせるんだ!」
顔を合わせた瞬間に老人は唾を無遠慮にまき散らし喚く。俺はあからさまに嫌な顔をしたと思う。そう思ったのは老人が俺以上に嫌悪の眼を向けたからだ。
「いや、誰っすか」
「え?お知り合いじゃないの?」
そして誰よりも驚いたのは女性事務員だった。
「いや、知らないっすね」
女性はやらかしたと呟いた。知らない人を通して生徒に何かしら問題が起きたら、職を失う恐れがあると思ったのか目に見えてみるみる青ざめた。慌てて俺を部屋から追い出そうとしていると、傍にいた老年の男性がしずしずと俺に頭を下げて、両手で名刺を差し出した。
「お待ちください。わたくしこういう者です」
俺は名刺を受け取ってそれを見る。会社名と秘書という肩書、そして牧瀬博則と記されている。ぎょっとしたのはこの辺りでは誰でも一度は聞いたことがある会社の名前が書かれていたのだ。
「有名企業じゃないっすか」
もしやスカウト?大学二年目にしてもう内定が貰えるのかと心の中では狂喜乱舞だった。しかしすぐに冷静さを取り戻した。通っている学校は二流だし、何よりも俺自身に大企業で働けるようなスペックは持ち合わせていない。同期が就職活動の為にと名目でやっているサークル、ボランティアもやっていない。せいぜいアルバイト位だ。そいつらより活動範囲が狭い俺にスカウトなんて夢のまた夢である。
「こちらは社長の…」
「ええい!御託は良い!本題に…!」
老人はがなると苦しい咳をした。畳みかけるように出る咳は止まらず、牧瀬は老人に近づき背中を擦った。
「ご病気…なんですか?」
「見ればわかるだろう!いちいちしょうもない事を訊ねるな!」
理不尽である。俺はむっとして言い返そうとしたが、甲斐甲斐しく介護する牧瀬を見て口を閉ざす。代わりに唇を少しだけ突き出した。
「突然の訪問をお許しください。どうしても貴方にお願いしたいことがあり参りました。えっと…そちらの方、申し訳ございませんが…」
老人の咳が治まったのを見計らって男性は背中を擦るのを止め女性事務員に目をやった。事務員は暫くドアの前で立っていたが示唆されて「はい!」と裏返った声で返事をしすぐに退室した。空気を読んだと言うより、困った老人からすぐにでも喜んで離れたいという感じだ。取り残された俺は一人でこの老人と対峙するのかと思うと絶望である。
「ふん…どいつもこいつも気の利かん奴ばかりだ」
温くなったお茶をぐいっと飲み干して息をつく。恐らく待っている間、あの事務員が気を利かせて用意したお茶だろう。
「それで、俺に何か用ですか」
「
「一体何の話です?」
「とぼけるでない!」
空になった茶碗を俺に向かって投げつけた。突然のことながら、力なく投げられた茶碗をなんとか受け止める。おかげで割らずに済んだ。俺は立て続く理不尽さに怒りを通り越して呆れるばかりだ。
「わしの病気を治すことができるんだろう!」
老人は浅い息を繰り返しながらぶちまける。それを哀れに思ったのか牧瀬が「私から言いましょう」と老人を宥めた。乾いた指をぺろりと舐めて分厚い手帳を捲り話し出した。
「幽谷さんは先日、事故現場に居合わせバイオリンのコンクールに向かう途中だった男性を助けましたよね」
優し気だった声が「ね」と問いかけたところで急に魂がこもったように強くなり、俺に向けられた目がぎらりと研がれた刃のように鋭さをみせる。喚いている老人とは違う恐ろしさがあった。暑くもないのに頭のてっぺんからじわっと汗が吹き出して一筋額を流れた。俺がここから逃れるためにしらばっくれて立ち去る道を塞ごうとしているのだと直感する。
「た、確かに居合わせたけど…救急車が来るまで傍についてただけっす」
「ええ。そのように伺っています。ただし、傍にいただけではないはず。事故を起こした運転手はぶつけた男性が弧を描いてふっとんだところを今でも思い出すと仰っておりました。その時は目に見えて大けがを負わせたと直感し時間も息も止まったような感じがしたと。運転手は慌てて降り男性に近寄ったそうです。すでに男性の傍にいたのは彼の母親らしき人が何度も男性の名前を呼んでいました。そして運転手が近づいた時に罵声を浴びせました。男性は人生を変える程の大事なコンクールの前だった。間違いなく世界に通じる腕なんだと何度も怒鳴りつけました。母親か、被害に遭われた男性か、運転手だったか、わかりませんが誰かが『助けて』と呟いたところで、あなたが現れた。そして事故にあった男性に何か話しかけていたそうですね。そこからが不思議なんですが、あなたが倒れた男性に触れていると、青白い顔をしたはずが血の気がみるみる戻ったそうです。そしてついに男性自ら立ち上がった。まるで時間が巻き戻ったような感覚だったと仰っていました。そこで事故が起こった形跡は殆どなく、ただ車体の一部がへこんでいることだけが事故が確かにあったことを物語ってたと」
とはいえ被害者がいない現場に事故があった証明はできない。
「男性と母親は感謝を言う前にあなたはそこを去っていたそうですね。そのままコンクール会場へと赴き無事にコンクールを終えたそうですよ」
「そうですか」
俺はそっぽを向いて適当に返事をしながらも、男性の夢が潰えることがなかったことを聞いて心に火が点るような熱を感じる。
「その人はあなたに感謝していましたよ。奇跡が起きたと。もう一度お礼を言いたくて探偵まで雇って探したそうですが、見つからなかったそうです。何人か目撃者はいたのにです。あなたは事故を目撃した一人に過ぎなかった。ドライブレコードにも顔がはっきり映っていなかったと探すのに随分苦労したそうです。結局見つからなかったと報告を受けたと話されておりました」
男性は瞬きも少なく双眸を俺に向けたまま淡々と話す。
「一体どのようにして行方を晦ましたのですか」
「俺はずっとこの学校に通って、バイトしてる普通の学生ですよ。行方を晦ますだなんて」
実際は大したからくりではない。探偵を雇っていたことは知っていた。あえてこちらから接触して雇い主を聞き出しそれ相応の金を払っただけである。向こうとの違約金を差し引いても損はしない程度の金だ。おかげで暫くの生活は危うかったことを思い出し胃が重くなる。丁度進級の時期で学費が足りるか足りないかの瀬戸際だった。最悪実家に連絡をするしかなくなり、金を借りるか、退学を言い渡されるところだったのだ。
「…まあ良いでしょう。あなたの努力は空しかったと言うしかありませんしね」
無遠慮に放たれる言葉にカチンときた。言われた通り見つかっているのだからバイト漬けでなんとか費用をねん出した苦労は水の泡だ。
「こちらもそちらの努力を汲む準備はしております。手始めにこちらを」
鞄から茶封筒を取り出し俺の前に差し出した。何が入っているか中身を確認しなくてもわかる。生唾を飲み下しそれを凝視する。
「隠れ蓑にお使いになった分を取り戻したとお考え下さい。勿論依頼を受けていただけると仰るなら、そちらの望む依頼金を更にお支払いします」
「何度来ても簡単に頷くつもりはないっすよ」
「どうしてですか。これでは足りませんか?」
「俺の問題ではなく、そちらの問題です。よく聞きません?特殊な力には代償が付きまとう。それは俺ではなくあなた方が背負うんです」
「…具体的には」
「誰かに同じ症状、苦しみがうつります」
「誰かとは…誰にですか」
「わかりません。肌感覚ですが血縁者に移る可能性が高いっすね。親かもしれない、子供かもしれない、ずっと未来の子孫かもしれない。それを選ぶことはできません」
これまでもどこからか嗅ぎつけて力を使ってくれと懇願、もしくは命令されることがあった。代償の話を伝えると大抵の人はそれまでの勢いを失って躊躇い考え込む。牧瀬もそうだった。
「それでも構わん!さっさとやってくれ」
牧瀬とは違って男性は迷わずが鳴り声で命令し咳き込んだ。背中を擦ってもらいながら呼吸を整える。
「すぐに必要やってもらわんと困るんだ。このまま惨めに死ぬわけにはいかんのだ」
誰かを犠牲にすることを厭わない傲慢さが鼻についた。きっと会社でも嫌われてるに違いない。俺なら嫌だ。
「しかし、社長」
「煩い!おまえが口を挟むな!」
「結論を急ぐこともないでしょう。一度考えてから、それでもと言うならまた来てくださいよ」
「そう言って時間を稼いで逃げるつもりか」
「冗談でしょう?この間学費を払ったのに。お金をどぶに捨てるような真似なんてしたくないっスよ。ただね、今結論を急いで後悔されても困るんです。せめてお二人で話し合ってからいらしてください。それなら依頼として引き受けます」
まだ何か言いたげにしていた二人を置いてそのまま逃げるように部屋を後にした。日にちを置いて頭を冷やせば結論が変わるかもしれない。
見事外れて、バイト先に押し掛けたのが今日である。
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