第5話 眠っている人

 病院はある意味毎日盛況で賑やかだ。心身に不調を抱え大人しく、時に苛立ちながら診察を待っている。この地域では一二を争う大きな病院だ。大きさに比例して待つ人数も多い。俺は井口は言ってすぐの受付とだだっ広い待合室を抜けてエレベーターに乗り込んだ。目的の五階までひとつひとつ止まる。患者や看護師、見舞に来た人と入れ替わる。その度に軽い会釈を交わした。四階から五階にあがる時には俺一人だった。ナースステーションでも会釈をすると、顔なじみの看護師が今の時間は部屋にいると教えてくれた。

 廊下の一番奥の部屋に行きスライド式のドアを礼儀としてノックをする。返事はない。つまりは入っても良いという合図だ。ゆっくりとドアノブを引く。他の病室より広い室内は人の気配がない。正確にはそこにいるのだが、寝息すらも聞こえないほど静かだった。一定の音を紡ぐ機械音だけが聞こえる。俺はベッドに近づいた。あらゆる機械に繋がれたやせ細った女性が横たわっている。喉には管が通され、腕には点滴の針が刺されている。本人は苦し気な顔をすることもなく目を閉じ、じっと動かずに横たわっている。


「おはよう」


 昼も近いのに俺はそう話しかけた。朝でも、昼でも、夕方でも、必ず「おはよう」と声をかけることにしている。目を閉じている相手からの返事はない。返事がないことに慣れているが時には返事を期待することもある。期待に応えて貰ったことは一度もない。


「今日もいい天気だよ。少し汗ばむくらい暑いのが難点かな」


 背負っていた鞄を床に降ろし丸椅子に腰をかける。掛け布団の中に仕舞われた腕をそっと布団の上へ持ちあげる。肉付きの少ない骨と皮だけになった腕は案外重い。力なくだらんと開かれた手を両手で包み込むように握る。ひんやりとした手が徐々に俺の熱と交じり合っていく。


「前にさ、電車で見かけた変な奴にまた会ったよ。おせっかい焼いてた子。覚えてるか?前にも話しただろう?此処でボランティアしてるんだって。絵に描いたような良い人間って感じなんだよな。今日も転んだだけの子供にも手を貸そうとしてたし。そういえば変なこと訊いてきたよ。子供が怪我した時のおまじないがどうのって」


 俺はそこまで言って息のような微かな笑い声たてた。同じように笑っているのか確かめたくて顔を覗き込んだ。子供の頃に父の書斎で見た写真を思い出して今の顔と比べる。父と並んで映った顔は朗らかに笑っていた。ずっと若くて肌にも髪にも艶があり今とは比べ物にもならないくらい美しい。父は時々その写真を見てはおまえは母親に似て良かったなと言っていた。いなくなって久しいが。

 どうでも良い話だよねと代わりに自嘲して息を吐いた。

 幾度話しかけても、笑いかけても泣いても怒っても、母は決してその目を開こうとはしないし、乾いた唇は薄く開ける他言葉を語ることはない。名前を呼んで貰うことすら叶わない。だからと言って一方的に話しかけることを辞めることも出来なかった。母の医療という命綱を切ろうとしている父に逆らって、田舎の病院から母の兄伯父が経営するこの病院へと移した。病院で働く看護師だけに世話をさせるわけにはいかず、介護士を一人雇って面倒を見てもらっている。お金も手間をかけてでも俺は唯一残された生きている母との繋がりが途絶えてしまうのを恐れており、また伯父はそんな俺の望みを叶えてくれている。微かな記憶しかない母の笑顔をもう一度見たい。叶う見込みの低い僅かな希望に縋っていると判っていても譲れなかった。



 昼時にバイト先へと向かうと外にも待ち人が並ぶ程に混みあっており、裏口から入って挨拶をした。返事の代わりに注文をとってきてと、生地を拵えている沙織が首で店内に行けと動かした。

 店内は鉄板の上でお好み焼きが焼ける音と、あちこちで喋る声、天井近くにたてかけたテレビの音声が入り交じり煩い。注文する時も返事も声を張らないと聞こえそうにない。

 この辺りで働く背広を着た中高年の客でほぼ占めている中で、近所に住む馴染のじいさんがビールを傾けている。思わず喉を鳴らした。


「純ちゃん、もう来てくれたのねえ。助かるわあ」


 妙子は間延びした喋りをしたと思うと、さっき聞いた注文内容を厨房に向かって放った。普段はのんびりとした口調だが、この時だけは「豚玉一丁!」なんて言って声を張り上げる。年齢を感じさせない透き通るような声が常連の客からも評判が良い。沙織が「はいよー」っと返して来た。

 妙子は昼間のバイト仲間である。沙織の小学校時代からの旧友だそうだ。随分仲が良く、時々閉店後の店で二人で飲んでいるところを見かける。


「全テーブルの注文が取れたところよ。五番さんと三番さんの生地が出来たら焼いてあげて頂戴ね」

「うす」


 ビールを煽っていた客が「妙ちゃん」と呼びつけた。妙子はその声に応えて冷蔵庫からビール瓶を取り出す。必ず二本のビールとミックス焼きを注文すると決まっている。

 同じくして厨房の沙織から五番テーブルと声がかかり俺は生地が入ったボールを取りに行った。此処でバイトを初めて一年少し、つまり大学にいる期間とほぼ同じだ。最初は混ぜるのも焼くのも下手だったが、今ではこ慣れたもので、ちょっとした特技と自称してもいいだろう。


 同期で集まった「お好み焼きパーティ」となるものに参加した時も、もたもた焼く手付きが見てられなくて代わりに焼いた。ホットプレートの上でお好み焼きをひっくり返す腕を披露すればちょっとした歓声が起きたものだ。実家が関西の奴も「やるなやん」と褒めてくれた。それ以来お好み焼き奉行と暫く呼ばれた。少々気恥ずかしい。たまに同じ集まりをする際には呼ばれる。俺の数少ない交流の一つだ。


 店でも常連の客からはうまくなったねと褒められることがある。そこから前のバイトの子もうまかったねとか、将来結婚したらお嫁さんに作ってやりななんておせっかいを言う人もいるもんだ。お好み焼き一つとはいえ褒められるのは悪い気はしない。何故ならそれ以上に褒められた経験が殆どないからである。それほど特技も成績も芳しくはない。評判すら『悪くはないけれどよくわからない奴』と言ったところだ。


「そういえば、例の社長のことなんだけどよ」


 二枚目を焼くためにボールで混ぜていると一人の客が話し出す。勿論俺に対してではなく共に来た向いの客にだ。


「体調持ち直したらしいな。おかげでダメ息子の采配の下にならずに済んだって話だぜ」

「聞いた聞いた。体を患ったから代替わりするところだったんだろう。あの息子の評判悪いもんなあ。経済も良く知らず、席は置いてても真面目に働いていないとかなんとか。もしあのまま道楽息子が継いでたら碌な結果にならなかっただろうな。読んで字のごとく死に体とはまさにあの会社のことだと言ってるよ」

「しかしあのワンマン社長、鼻に管を通してベッドから起き上がれないほどの瀕死状態だと聞いたのに、今ではぴんぴんしているらしいぜ。噂は眉唾だったのか?噂が本当だとしたら一体どんな魔法を使ったのか」

「まあなんにせよ、あの会社と従業員は救われたってことかね。これから息子の教育がどれほど出来るかは知らんけどな」


 二人はがははと笑う。俺は至って冷静にその話を聞かないふりを通し、二枚目のお好み焼きをひっくり返した後に下がった。

 ———多分、いや間違いなくあの糞じじいのことじゃないか。

 見た感じ年齢も七十を超えているだろう。もしかするともう少し年を食っているかもしれない。そんな年寄りがあのように強引になそうとしていた理由は、会社のことだったのかと納得した。もっと自分勝手な理由だと思い込んでいたので驚いている。それ以上に驚いたのが他社の評判もそう悪くないイメージを抱いたことである。だからと言って俺の評価があがるわけではない。あんな乱暴者が良い人間なわけがない。


 俺からするとすでに終わったことで、会社の行く末など自分には全く関係のない話だ。気にするところはなにひとつない。気にしてはいけない。

 あの乱暴者の病気が誰にうつるのか。そばにいる誰かかもしれない。何世代先の末裔にかもしれない。会社の役員ともなれば顔も広いから、顔見知り程度の誰かかもしれない。誰かがあの社長の十字架を背負うことになる。考えないようにしなくてもその誰かを憂う思いをないことには出来なかった。


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