第10話 何もしない人

 母の見舞いと、ついでに自分の症状を伯父に伝えに行こうと思い昼のバイトが終わって賄いを平らげてから病院へと向かった。昨日の今日なので、もしかしたらひょんなことから彼らの曾孫の容態を耳にしてしまうのではないかと思うと気持ちが塞いだ。気にしないと決めているのに、感じるべきでない罪悪感が多少なりとも蝕んでいるのだろうか。昼の電車は空いており、車窓を眺めながら近づいてくる病院が目に入ると胸が痛くなった。


 電車を降りて気怠い足取りで病院に向かった。今日は天気も良く暖かい日差しがよりだらけさせている気がした。病院の前も春の陽気に心なしかいつもより顔色の良い人が多い気がする。


「また会ったね」


 同じ駅で降りることが多ければ会う確率も高くなるのだろうか。いや、俺は時間も疎らで必ず毎日来ているわけでもない。偶然に違いないのだろう。振り向くと例の彼女がいる。俺は「ども」と呟いて軽く会釈をしてからまた病院の方へと歩き出す。彼女は短い脚を一生懸命に動かして俺の歩幅に着いて来た。


「どうしたんですか、そのほっぺ」


—――まあ、当然の指摘だ。


「ちょっとぶつけただけです」

「ちょっとって、結構腫れてますけど、病院は行きました?」

「これから、診てもらう、ところで…」


 返事、いや息を詰まらせる。そして歩みも止まる。目の前には牧瀬が塞ぐように突っ立っていた。血の気が引き背筋が凍ったが、頬に熱を感じる。多少なりともマシになったはずの痛みがぶり返してくる。

 恐ろしいと感じたのは昨日の今日で性懲りもなく姿を現したからではない。昨日は憤慨していた牧瀬は、生気がまるでないのに目が血走っている。異常事態だと頭の中で警報音が鳴り響いた。逃げなくちゃいけない、解っているのに足が竦んだ。冷静になれと思うほどに足は震えるし息が詰まる。

 牧瀬は乾いた声でぶつぶつと何かを呟いている。殆ど聞き取ることが出来ない中、唯一聞こえたのは「おまえのせいだ」と昨日と同じ言葉だった。


「具合でも悪いんですか」


 隣にいた彼女が異様な雰囲気がわからないのか、わかっていて訊ねているのか一歩前に出る。俺は慌てて彼女の腕を掴み後ろへ下がらせようと引っ張った。きつく掴んだせいで彼女は痛みを発した。


「馬鹿!なにをしているんだ」

「なにって、あの人の顔色みてくださいよ。放っておくわけには…」

「いいから下がって」


 のんびり説明する時間もない。全く関係のない彼女が巻き込むわけにはいかない。手で自分の後ろにいるようにジェスチャーで知らせる。彼女は戸惑いながらもそれに従って一歩後ろへと引き下がった。

 とにかく彼を宥めて落ち着かせるか、助けを呼ぶか、一目散に逃げるか、頭をフル回転させて考える。焦れば焦るほど思考はこんがらがり適切な判断を選ぶことも出来ず、体も動かない。

 考えている間に牧瀬は「おまえのせいだ」と一歩一歩ふらふらしながら近づいてくる。


「俺のせいって、なんのことですか」


 牧瀬は足を止めた。答えが明白な質問は青白い顔色を一気に赤く染め上げる。同時に戻って来た生気は声にも比例した。


「なんのことだと?ふざけるな!おまえがあんなことしなければ、あの子は何事もなく普通に生まれて今も苦しまずにいたはずなんだ!」


 生まれたばかりの眼に入れても痛くないほど可愛い曾孫が苦しんでいる姿を見て心を痛めない人はいないだろう。俺だって罪悪感がないわけではない。しかしその選択をしたのは俺ではく佐渡であり、牧瀬だ。


「だからなんだっていうんですか」

「なんだと?」


 僅かに眉間が動く。それを見逃さずすかさず次の言葉を紡ぐ。


「あの時俺は言いました。その病気が誰に移るかは俺の判断でどうにもできないと。いずれ誰かがその重荷を背負うことになることを示唆したはずです。でもあなたは止めなかった。それなのに今になって俺のせいですか?随分都合の良いことを仰る」


 牧瀬の顔が更に険しくなる。今にも飛び掛かってきそうな勢いだ。そんなリスクが頭をよぎる。それなのに俺は饒舌になっている。淡々と話すつもりが、こちらもヒートアップしているのは頬の痛みがずきずきと苛立ちを刺激するからだ。


「あなたは自分に害が及ばなければいいんですよ。今もそうだ。恨みつらみをぶつけるばかりで曾孫の代わりになりたいとは言わない。俺に縋ってあの子の病気を自分…誰かに移してくれと懇願もしない。あの人の方が覚悟はできていたんだ。誰を犠牲にしても自分の意思を通すいけ好かないじじいの方がまだマシだな。口ばっかりのあんたよりね」


 怒りはピークに達した。ズボンに挟んで隠していた、俺に向けられている視線と同じようなナイフを取り出して慟哭と共に駆けだした。鈍く光る刃先がまっすぐ向かってくる。死がすぐ傍にあると脳が全身に、産毛一本まで逃さず指令を送る。生存本能が人並みの運動神経を底上げしてくれているのか、視界はゆっくりと景色を映した。後ろに下がらせていた彼女の体を庇いながら刃先を避けると、勢いづいていた牧瀬は前のめりで転んだ。幸いにナイフを離したおかげで、前方に飛びからんからんと音をたてて滑り落ちた。俺はすかさず彼の身体を抑え込んで―――昨日沙織がしていたのを見よう見まねで―――彼女に警察を呼ぶように伝えた。彼女は返事の代わりにこくこくと首を縦に振り急いで電話をする。


 間もなく先に警備員がやってきて、事情を伝えると俺の代わりに牧瀬の身柄を拘束した。俺と彼女は警察が到着するのを近くのベンチに座って待った。

 待っている間、緊張していた糸が切れたのか放心していた。彼女もそうだったのかはわからないが、隣同士で座っているのにお互いに何も口を開かず、警備員に取り押さえられていながらも喚いている牧瀬をぼんやりと眺めていた。


「聞いても良いですか」


 警察に連絡して何分経ったのだろうとスマホで時間を確認しようとした時に彼女はかすれた声で言った。


「なんですか?」

「あの人が言ってた『あんなこと』って…どういう意味なんでしょうか」

「さあ…ね」

「産婦人科から噂を聞いたんです。生まれたばかりの赤ちゃんに肺の疾患があったって」


 今にも泣きそうな声だ。眉を寄せて必死に涙を零すまいと堪えている。俺には理解が出来なかった。気の毒だとは思うし、出来ることなら助かって欲しいとも思う。でも彼女のように心を痛める程ではない。所詮他人だ。家族や命を投げうってもいいと思える相手ならまだしも、見ず知らず———いや、彼女の場合は見知った相手か。なんにせよ少し関わっただけの間柄でそこまで心を砕いてやれるものだと冷めた気持ちでいた。


「そうだ、あの人あなたが病気を移したって言ってました。その子の病気にあなたが関わってること?でも健康そうだし…空気感染とか飛沫感染とか、そういうこと?でも…」


 到底信じられない話を自分なりに噛み砕いて理解しようとしているのだろうか。言葉にしながら必死に納得のいく答えを探している。当然だが答えが出るわけがない。俺の手ひとつで病気を他人に移すなど魔法を、たとえ目の前にしても普通は信じない。当人以外は。


「もし、そうならどう思うの?」俺は試すように訊ねる。彼女は俺の意思をくみ取ったのか不可解と憂色を滲ませる。

「そうならって…解らないですよ。どうしたら生まれて間もない赤ちゃんが病気になったことが、あなたが関わっていることになるんですか?」

「もしもだよ。俺が誰かから誰かに———そう例えば赤子に病気を移せるとしたら、君は俺を責める?なんて酷い人間なんだ。生まれたばかりの赤ちゃんが可哀そうじゃないのかって…」


 言葉を詰まらせる。大きな目を更に見開いて俺をじっと見ていたからだ。黒目がちな瞳がきらりと光る。


「もし…そうだとしたら?」


 近づいてくるサイレンの音と重なった。俺の耳に確かに聞こえた言葉は「幻滅」だった。例え話にもそこまで肩入れするのかと苦笑した。それ以上に俺の何を知って何に幻滅しているのだと馬鹿馬鹿しくなった。

 サイレンの音が止まる。次第に数人の警察官が駆け付けて来る姿が見えた。俺は立ち上がり警察官を迎えようと、牧瀬を取り押さえている警備員の方へ歩いていく。

胸の奥で微かに感じた痛みに気付かないふりをする。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る