第9話 傲慢
翌朝、いつもより早く目覚めたのは痛みがぶり返して来たからだ。伯父から渡された痛み止めが切れたようだ。枕元に置いていた充電器が刺さったスマホの電源を付けると五時前を示している。
昨夜は病院に着くなり伯父は本当にCTを撮ってくれた。結果骨折もなければ歯牙の損傷もなく胸を撫でおろした。思いっきりだったけれど所詮老人の力で、また殴り慣れていないことが幸いしたのだろうと伯父は言う。だからと言って油断することなく暫くは安静にするように言いつけられた。
殴られたからといって休むのは性にあわず予定通り朝のバイトに向かった。頬に貼られた大きなガーゼに行き交う人々の視線を浴びながら、何事もなく裏口のドアを開けた。
「ざーっす」
いつもと変わらないおざなりな挨拶をすると、沙織はぎょっとして裏口にかけより通路を塞ぐように立ち小声で話しかけた。
「ちょっと大丈夫なの?」
「昨日はすみませんでした。とんでもないことになって…」
「それは、まあ…あんたのせいじゃないしね。そんなことより今日は家で休んだ方がいい。それに」沙織は後ろの店内に続く暖簾に目をやる。
「例のじじい…社長さんがいらしてるのよ。一応謝罪って言ってこれ渡して来たのよ」沙織はエプロンのポケットから茶封筒を見せた。騒がせたことの謝罪と、昨日の売り上げ分の賠償金のつもりらしい。断るのも勿体ないと受け取ったと言う。
「用事が済んだなら帰って欲しいんだけれど、あんたがこの曜日に朝に来ることを知ってるのね、待つと言ってきかないの。全く自分の部下がどんなことしたか判ってないのかってのよ。とにかく帰んな。今日は来ないって言っておくからさ」
追い出そうと俺ごしにドアノブを捻ろうとする。
「来てるなら丁度いいです。俺も用事があったので」
沙織はどういうつもりかと顔を歪ませた。一方的に敵意むき出しで殴られたのは納得がいかないが、無関係を装うわけにはいかない。俺は店にあがり荷物を持ったまま暖簾をくぐった。
「お待たせしたようで」
佐渡は背筋を伸ばした状態で座っていた。この間まで車椅子から動けないほどに衰弱していた老人だったとは誰も信じないだろう。
皮肉を込めて挨拶をすると鼻を鳴らし「座れ」と目で向かい側に座るように言った。
「それで今日はなんのご用事で。依頼後の接触はしないとの約束のはずですが」
高圧的な口調のつもりはないが、口を開けばつい皮肉を言いたくなる。怪我を負わされたのだから、多少は不遜な態度も許されてもいいはずだ。
想像だにしていなかった。佐渡はテーブルに打ち付けんばかりに頭をさげた。
「この度のことは本当にすまなかった。全くあのような小物がこんな馬鹿なことをするとは思わなかった。儂の監督不行き届きと言われても仕方がない」
普通の顔をしていても縦線がくっきりと刻まれる眉間がぎゅっと寄せられた。信じがたいと苦虫を噛み潰したように歯を食いしばっていた。そして鞄から茶封筒を取り出し差し出した。
「お詫びのしようもないが、儂に出来ることといえば金で解決するしかない。治療代として使ってくれ。無論これで終わりにするつもりはない。そちらの気の済むように被害届け出も出してくれて結構だ」
怒りが消えたわけではないが、あの怒鳴り散らかすような老人があまりにもしおらしくしている姿に面を食らった。
佐渡によれば牧瀬はすでに釈放されたそうだ。今は自宅で謹慎させているという。
「許すつもりがあるかと言われれば、暫くは無理です。でもこれは受け取れません」
「何故だね」
「必要ないから、では納得してもらえませんか。それとも俺の内心をさらけ出さなくければ、茶封筒を引っ込めては貰えませんか」
何も言い返してこなかった。代わりの返事は眉間の皺は増えたことだろうか。茶封筒はそのままテーブルに置いたまま沈黙が続く。
「あれを庇うわけではないが、慮ってやって欲しいとも思う」
―――不思議な力を使ってもらってから自分の体がみるみるうちに元気になっていった。体を壊して急に現場を離れてしまったので経営者が交代すると噂されたさなかで落ちていく株価を戻すために現場に戻った。おかげで経営は立ち直ったしそれどころか更にあがった。社員が感じていた不安は取り除かれたといっても良いだろう。その手ごたえがあった。
「恥ずかしい話、仕事以外のことはてんで駄目で、愚息の教育に目が届いていなかった。あのまま死んでいたら、会社が倒産していてもおかしくなかった。おかげで社員を露頭に迷わせずに済んだ」
だからと言って寿命がなくなったわけではない。年齢を考えても十年と持たない身体だ。その間にきちんと跡継ぎの事を考えて行かなくてはいけないと苦笑する。
「感謝してこそ貴殿に刃を向けるのは恩を仇で返すどころの騒ぎではない」
「そうする理由があったんですね」
何も言わず黙り込んだ。心を落ち着けようとしているのか何度か長い深呼吸を繰り返す。
「先日生まれた曾孫が生まれてすぐに病にかかった」
想像の範疇である。だからと言って涼しい顔で居られない。生まれたばかりも赤子にうつってしまったことに胸が苦しくなる。
「今はまだ辛うじて息をしている状態だ。長くはもたないだろうと言われている」
「何故、あなたは俺を責めないんですか」
佐渡は含み笑いをした。
「人否人かと思うか?赤子の命が風前の灯火で苦しんでいる。それも自分の命を伸ばすために、だ。それでも儂が決めたことだ。それに対してとやかく言うつもりはない」
例え曾孫でも孫でも子供でも、ずっと先の子孫でも決意は変わらなかった。だから頼んだのだと力強く答えた。
傲慢なじじいだ。そう思ったのが顔に出ていたのだろうか、佐渡は「餓鬼にわかるまいよ」と顔を歪ませて片笑んだ。
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