第8話 予測はしていたけれど

 トラブルとは突如起こるものである。そう理解をしていても、いざ目の前にすると怯むものだ。まず目の前で起きている物事を冷静に分析し、頭をフル回転させ考え事に当たる。シンプルかつふわっとした対処法は全くと言っていいほど役には立たなかった。


「なんてことしてくれたんだ!」


 夜のバイトに入ってる際に、一人の男が店にずかずかと乗り込んできた。もし彼を知っている人ならば、そうした行動に出たことを不思議に思うほど周囲に気を遣わず我を忘れた様子に驚愕することだろう。少なくともおれはそうだった。

 彼は俺の姿を視界に止めるや否や一発の鉄拳を食らわしてきた。年齢のわりに力が強い。突然の事だったので受け身を取ることも出来ず、まともに拳を頬に食らって殴られた勢いで地面に叩きつけられた。一瞬何が起こったのか理解できずにいた。驚いたお客さんの悲鳴で我に返った。頬を擦りながら相手を見上げるとそこには老年の男———牧瀬が息をあげて立っている。髪を振り乱しあまりの形相に一瞬彼だと気付かなかった。


「おまえのせいで!おまえのせいで!」


 牧瀬は怒声を浴びせた。感情任せに怒鳴っており要領を得ない客たちはおろおろと戸惑うばかりである。


「なんの騒ぎ?」


 奥から沙織が体を揺らしながら駆けて来た。殴られて倒れている俺を見て異常事態が起きていることを瞬時に理解したのか険しい顔つきになる。沙織はぎろりと牧瀬を睨みつけた。


「ちょっと、あんた、どういうつもり?外に出て頂戴!警察を呼ぶよ」

「煩い煩い!こいつのせいで!こいつがあんな…!」


 女性の沙織にも襲い掛かろうとして俺を含め様子を伺っている客たちが「まずい」と思いどうにか守ろうと手を出そうとしたところ、沙織はさらりと躱し牧瀬の腕をとって後ろ手に回した。


「純ちゃん、警察に連絡して」

「え、でも…」

「でもじゃない!立派な傷害罪よ」


 そうは言っても、牧瀬が襲い掛かった理由は俺の力のことだと確信があるので躊躇った。まごついていると、一人の女性客がすでに手持ちのスマホで警察に連絡し始めていた。警察が到着するまで沙織は牧瀬の後ろ手を掴みながら、来客たちにすみません、すみませんと何度も頭を下げていた。


 十分をしないうちに警察が到着し、牧瀬はパトカーに押し込められた。その間もずっと俺に「許さない」とか「呪ってやる」とか怒鳴り散らしていた。

 駆け付けた警察官が、俺にも話を聞きたいと同行をお願いされたので渋々言う通りにパトカーに乗り込む。


「こっちのことは気にしないで。さっさと終わらせて家に帰りなさい」


 沙織はパトカーの開いた窓越しにそう言い店に戻って行った。同車した警察官が「行きますよ」と言い、俺がこくりと頷くと窓を閉められ出発した。

 夜の町を走るパトカーの中で面倒くさいことになったなと背もたれに体重をかけた。未成年ではないけれど家族に連絡がいくのかな、伯父さんにまた迷惑をかけてしまうな、と嘆息した。


 パトカーから降りて、とある一室に通される。取調室のようなところを想像していたが、至って普通の応接室のような部屋だった。とはいえ初めて警察に同行する機会を得てしまった俺は酷く緊張していた。こちらに落ち度がない―――世間的には———とはいえ始終体を強張らせていた。

 殴られた箇所を女性警察官から渡されたタオルに包んだ氷嚢で冷やしながら、尋ねられたことをひとつずつ端的に答えて事なきを得た。「知り合いか」という質問にも「会ったことがある」と答えたし、「何故君に手をあげたかわかるか」と問われても「わからない」と返した。嘘をつくときだけは手汗が滲んだ気がする。

 一概に嘘とは言えない。あれ程怒り狂うだけあって俺自身恐れていたことが起こったのだろうと想像できるが確証があるわけでもない。いや、そうでないと今でも信じたいだけなのである。


「お迎えにいらしたよ」


 氷嚢を持ってきてくれた警官がやってきて外に出るように促した。廊下を歩いているだけでもぴりぴりした空気に息をするのも忘れそうだった。ロビーには伯父が待っておりこちらに気付くと「純」と声をかけ、俺が思ったよりぴんぴんしているせいか、あからさまに肩を降ろした。


「大変ご迷惑をおかけしまして…」伯父が頭を下げると警官が慌てて頭をあげるように諭す。

「いえいえ、甥っ子さんは被害者ですから…それよりも」警官は俺をちらりと横目で見てからひとつ咳払いをした。

「被害届を出さないと仰られているんです。一方的な暴力は充分罪に問えますよ。ご家族の方にも念のためご意見を伺いたいのですが」


 今度は伯父が俺に視線をやった。俺は伯父と視線を合わせたまま何も言わず小さく首を横に振る。


「今すぐ結論を出した方がよろしいでしょうか」

「いえ、調書はすでにとっておりますので後日でも結構です。大変な目にあわれたところですし、今夜はゆっくり休ませてあげてください」


 伯父は「お世話になりました」ともう一度深々とお辞儀をした。俺もそれに倣って伯父程ではないがあいさつ程度に「あざっす」と頭をさげた。


 警察署を出ると伯父は駐車場に停めた車に乗るまで何も言わなかった。俺が助手席に乗りシートベルトをするのを確認して走り出した。暫くはどちらも言葉を発しなかった。赤信号で引っかかった時にブレーキを踏んでから俺を横目で見て口を開いた。


「怪我、痛むか」

「結構。避ける間もなくもろに食らったからね」

「病院に寄るか、治療ついでにCTでもレントゲンでも撮ってやるぞ。その後診断書と共に料金請求してやれるんだからな」


 俺はふっと噴き出した。


「出来ないと判って言ってるんだろう」

「まあ、ね」伯父は笑いを堪えるように引きつった声で言った。「でもきちんと治療はしておこうな」


 青信号になり、かちっかちっと音を鳴らし、誰もいない後方と対向車線に右折すると知らせながら慎重に曲がる。そして病院への道を走り続けた。

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