プリンス・オブ・ウォーター

鱗青

プリンス・オブ・ウォーター

 土用どようといえば「ウナギを食べる日」で有名だ。とくに真夏の声を聞く直前、カレンダーでいえば七月の下旬あたりの「土用のうしの日」に、鰻の蒲焼かばやきが予約しないとコンビニでも買えないくらいの人気をはくしている。

 でも実際は、土用とは古代中国から伝わった五行思想から成り立つもので、意味するところは“季節の変わり目”。夏の季節の変わり目に、とぼしくなった精気を補おうというのがそもそもの始まりだ。

 だから本来、とりたてて鰻のみに血眼ちまなこになる必要はない。ネットで注文すれば北海道の牛肉から沖縄の国産コーヒーまで数日で届けられる現代だ。もっと栄養価の高いものを探し、お好みの物をれば良いではないか。

 何が言いたいかというと、俺は鰻が嫌いだ。

 そして、夏が嫌いだ。

 水泳が大嫌いだ。 

 なぜかというと───

「はいトップの奴、位置について。ヨーイ…」

 本日、七月二十三日。中学三年生の一月期、終業式の設定された土曜日。時間割のラストを飾る体育。内容は二クラス合同での体育だった。

 女子は冷房の効いた体育館でバレーボール。男子は水泳。

 プールサイドの両側に出席番号の偶数奇数に分かれ、奇数チームと偶数チームとでタイムを競うリレーが始まった。

 スタートの合図は本格的にピストル。塩素の匂いが漂う屋上に、ぱぁんという爽やかな号砲が響き渡る。偶数チームのトップは野球部、奇数チームのトップは吹奏楽部。先にリードしたのは意外にも奇数チームの方だった。

「やー、筋肉量が多いと水に浮かねえんだよなぁ」

 などと冗談めかしたいいわけをしながら野球部がこちらに戻ってくる。偶数チームの全員でドンマイと声をかけながら手をタッチして鳴らす。最後の俺に来て、手を合わせながら

「あんま気負うなよ、夜戸よると

 とささやく。

「ま、いつも通りやるさぁ。それにどうせ、俺ぁ筋肉より脂肪の方が多いし?」

 と俺は苦笑した。気遣きづかい、いたみいるぜ。

 俺は偶数チーム。トップの奴と同じく野球部でポジションはキャッチャーだ。この中でも体格に恵まれている。自慢だが運動神経もよく、学業の成績も良く、面倒見も良く人望がある。

 才能は自慢すべきだ。それはたたえられるべきものなのだ。俺はいわゆる「努力する才能」もそうだと考えている。だから、一生懸命に苦手な運動に打ち込んだり、なかなか上がらない成績をなんとか少しでも良くしようと勉強机にかじりついたりする奴を馬鹿にする気持ちはこれっぽっちもない。

 だって、俺自身が───

「次でアンカーだぞ!」「奇数に負けんな!」「偶数が勝つ!」

 そんなヤジや声援を背中に受け、飛び込み位置につく。

 激しく揺れるプールの水面。そこに映る自分が無表情に見返してくる。

 よわい十五で身長百八十㎝、体重百七㎏。ツーブロの、見事に土方どかた焼けをした下半身安定タイプの巨体。ニキビ面に四白眼しはくがんだが太い眉毛が優しく垂れ下がっているので、印象的には『気は優しくて力持ち』を地でいく感じ。

 俺、夜戸よると不二郎ふじろうは突き出た腹に苦労しながら立位体前屈のように両指揃えて前傾姿勢になり…

「───頼んだっ」

 前泳者が台にタッチした瞬間、間髪入れずに完璧なタイミングで水面にダイブした。巻き上がる壮大な水飛沫に歓声と悲鳴と笑いが起こる。

 水の中に入ると音が消える。クロール。これ以外はバタフライも平泳ぎも俺はできない。というか…

「───夜戸、沈んでね?」

 プールサイドから心配げな視線が投げかけられる。俺はもう、必死だ。息継ぎするのだが不恰好なフォルムなので塩素混じりの(そして思春期の男子の汗もたっぷり混入した)水が口の中に入り、不快なことこの上ない。

 早く。

 早く。

 早く、終われ‼︎

 反対側の壁を蹴る時になんとか水面に首を出して酸素を取り入れ、また死に物狂いで水を引っ掻くように進む。

 地獄だ───

 不意に俺の視界に黒く長い、そして太い胴体の魚影がよぎる。ぬらりと光るそれは、俺の体に巻き付いて。俺は足がもつれ…

 違う。思い出すな。あんなイヤな記憶、忘れてしまえ。

「勝者、奇数チームぅ‼︎」

 体育教師の残酷な宣言も、ゴールに戻ってゴボゴボ水を吐き戻す俺には遠く聞こえた。敗残者を讃えるまばらな拍手。

 目から鼻から口から色んなしるを流しながらプールを上がり、デロンと仰向けになる。

「…おい夜戸、生きてるか?」

 チーム仲間に声をかけられながら、俺は頭を左右上下に振って耳に詰まっていた水を落とす。

 ああ。

 やっぱり、カナヅチは治らない。

 体育館でのかったるい(ただでさえ体育、それも水泳の後なので居眠りしてる生徒が何人もいた)終業式があり、ホームルームで夏休みの注意事項を受ける。

 それから俺は帰る方向が同じ野球部の二人とマクドナルドに寄った。受験の話題や好きな女子に告白するとか後輩(男子)から告白されたとかの話をしながら、今日の俺の大失態については冗談めかして盛り上がった。

「夜戸ってほんとにネタになるデブだよなー」

「そうそう。バスケも武道もサッカーも出来るしカラオケも上手い。頭も良いのになんで泳げないわけ?」

「ホントにグサグサ言うねチミ達さぁ」 

「だってよー、面白ぇーんだもんよ」

「そうそう。っていうか、聞いだぜ?三組の茅野かやのに告白されたけど振ったんだろ?」

 俺はバナナチョコシェイクを啜りながら頷いた。

「ゲー!マジで⁉︎勿体ねぇ!」

「なぁ、なんでなんだよ?茅野の何が不満なん?あいつAKBのオーディションに合格してるくらい可愛いのに」

「いやあ、天は二物にぶつを与えずと言うじゃないか。このうえそんな恵まれた学生生活送ったらバチが当たるだろぉ」

「なんだその上から目線。そーいう態度こそバチが当たるぞよ」

「そうだよ〜うっわー勿体ねぇ〜!俺ならすぐOKすんのに〜」

「お前じゃ玉砕して終わりだよ。っつーかモテ要素マイナスじゃん」

「そこはせめてゼロって言おうね⁉︎」

 調子を合わせ、俺は満面の笑みで言い放つ。

「ま、俺も実はそんな器用な奴じゃねえさぁ。今日のプールで分かったろ?それに今はお前らとこうして遊んでる方が楽しいんだよ」

「よくもヌケヌケと…」

「でも、アタシ嬉しいっ!絶対三人一緒の高校受かろうねっ♡」

 二人と俺はゲラゲラ笑う。

 そう。これは本心だ。受験生のいま、好いたの惚れたのやってるほど俺には余裕はない。ましてや芸能界を目指すようなチャラついた女子と付き合うなんて論外だ。

 それに俺は、既に強烈な失恋を経験しているしな…

「そういえばさ、二学期から転校生が来るってホントかな」

「そうだよぉ」

「え?なんで知ってんの夜戸」

「…その転校生、離島育ちの俺の母方のイトコだからさぁ」

 二人は『ほー!』と声を上げた。

「なになにどんな奴?男?女?可愛い?」

「てかなんでこの時期に?」

 俺はちょっと目線を店の外に向けた。あー、街路樹の葉っぱが青々と茂ってるなあ。

「なんかな、来年からは本土こっちの高校に通いたいんだって。だから受験まで俺ん家に居候させてくれって、母方の親戚ぐるみで頼まれてんだ。夏休みにちょうど入るしこっちの水に慣れて、ついでに夏期講習も行けるからって」

 二人してウッヒョー!と目を丸くする。野球部は声がデカい。俺は静かにするよう口の前に人差し指を立てた。

「え、じゃあいつ来んだよ?登校すんのは来学期からなんだろ?」

「一緒に住むのか⁉︎エッロ〜」

「バーカ。んなことあるかぁ。イトコったって、男の方だよ」

 これを聞いて二人とも露骨にテンションを下げる。

「なぁんだか。それじゃあ期待できねーな」

「なー。お真面目な夜戸のハレンチな話題が聞けるかと思ってオラ、ワクワクすっぞ!してたのに」

「ご期待に添えなかったことを当社としても心より陳謝致します」

 二人と別れ、俺はちょっと重い足取りで家路に着く。

 俺がカナヅチになった理由。

 鰻が嫌いな理由。

 夏を憎む理由。

 その全ては、たった一回の失恋に起因している。

「だって、しょうがないよなぁ…」

「何がしょうのなかと?フーちゃん」

 甘く高いボーイソプラノ。

 俺はアクセルを跳ぶフィギュアスケーターよろしく、肩下げ鞄が水平回転するほどのスピードで振り向く。

 そこには自分と違う学校の夏服を着た少年が、リュックを背負いトランクを引いて立っている。

 俺は一瞬で小学六年の頃に引き戻された気がした。

 栗色に近い、伸びた癖っ毛。

 イタズラっぽい、でもボーイッシユな女の子でも通用しそうな中性的な顔立ちに、色の薄い大きな瞳。

「ナッチー…」

「久しぶり、フーちゃん。三年ぶりばい」

 ナッチーこと安藤あんどう流千ながち。小六以来三年間、一度も顔を合わせていなかった従兄弟は屈託なく笑って俺に抱きついた。

「わあ、また大きくふとうなっとう!トトロんごたるねえ」

 なんでだよ。なんでそんな風になんでもなく接せられるんだよ。お前、お前のせいで、俺───

 言ってやりたいことは百も千もある。それを全部飲み込んで。

「…その方言さぁ、こっちではやめとけよ?」

 俺も笑ってハグし返した。

 強がりだ。でも俺だって男だ。女々しい恨み言なんか言いたくない。

 こいつこそ俺の、生まれて初めて告白して、手ひどい失恋を味わわせられた相手なのだから。

 

「ちょっとナッちゃん、あんたこの三年間、ちゃんと食べよったとね?そがん痩せほそうして、身長も変わっとらんし。留美子から育児放棄ネグレクトされてたんやなかやろねえ?」

「母さん、方言出てる方言出てる」

 エプロン姿で出迎えた母さんは、玄関で俺の隣にいる流千を見るなり大袈裟な反応をした。

「今日からご厄介になります、伯母おばさん。これ、ウチで採れたアスパラと、島の雲丹うにです」

「まぁまぁそんな気を遣って…って言うところだけど、素直に嬉しい!こんな新鮮なアスパラ今夜からさっそく使わなきゃね!雲丹も父さんが喜ぶわぁ」

 俺は土産物にホクホクしてる母さんを尻目にさっさと靴を脱いで二階に上がる。階下ではひとしきり甥っ子との再会を喜ぶ母さんと流千の会話が続く。

「…ったく、ひとの気も知らないで…」

 成長に合わせて買い換えたダブルサイズの広いベッドに鞄を投げ、制服を脱ぐ。やがてトントンと階段を上がる音。ノックもせずにドアが開かれる。

「へー、フーちゃんの部屋ってこがん感じになっとうとかぁ。ふふっ。入るの小学生の時以来やなあ」

 懐かしそうに見回す流千。

「…一緒の部屋だからさぁ、あんまモノ増やすなよ」

「分かっとう分かっとう」

 キョロキョロと小学生の頃との間違い探しをしながら入ってくるのがもどかしい。

「まー言ってもホラ、受験してどっかの高校潜りこめよったときには僕、ここから出てくし。そいけん半年くらいの付き合いやね」

「…なんだよそれ」

「僕が一緒におったら迷惑かとやろ?───ごめんね、気まずい思いばさせて」

 狭いなで肩からリュックを下ろす。ドサゴト、と重そうな音。…そういえば俺、こいつのトランク持って上がってやってない。俺なら軽い仕事なのに。

 情けないな、俺。こんなに動転しやすかったのか。

「───そんなの気にすんなよぉ。ウチから通えば良くね」

「んー、それができたらよかやったんやけど…フーちゃんさぁ…」

 細い指先でチョイチョイと俺を呼ぶ。顔にクエスチョンマークをつけて素直に近づく。

「ていっ」

「おわぁ?」

 足を蹴りすくわれた。ベッドにあっけなく倒れ込んだ下着姿の俺の上に、流千が馬乗りになる。

「ナナナナナナナナナ、ナッチー…⁉︎」

「うーん…やっぱりやね…」

 流千の瞳に俺の困惑顔が広がっている。おでことおでこがくっつく距離だ。

「…やっぱりちゃんね。なんでやろ?外れんごとかけなおさんば、でないと一生いっしょうフーちゃんは…」

 流千の吐息が鼻にかかった。うわ、子供の頃のまんまだ。桃みたいな良い香り…

 これ、これ、キ、キスっちまいそう。

 誰が?俺が。

 誰に?そりゃあ…

「わ、悪いナッチー…どいてくれぇ」

「あ、ごめん。重かったと?でも少し待って、いまかけなおすけん」

「か、かけなおす?何を?」

「よかけんよかけん。目ば閉じて、肩の力ば抜いて…重かとやろ?少しの間でよかけん、ガマンして」

 違う。重いどころか、これで同じ中学三年生男子かと思うほど軽い。そして、胸とか腹とか柔らかい。肌もスベスベでクラスのどの女子より透明感に溢れてる。

 だからこうして、俺の下半身の大事なところにモリモリ血液が集まって、トランクスの下には沸騰しそうに硬いオベリスクが建造されていっているのだ。

「いいから、どけよお!」

 最終的に俺は流千を大人が子供にする「飛行機ー!」の体勢で持ち上げ、自分の体の上からどかした。体を起こして馬の蹄のごとくドッドッドと胸の内側を蹴りつける心臓とそそり立つ股間を、シャツとトランクスの上から押さえる。

「…ねえフーちゃん。もしかしてフーちゃんて未だに僕んこと…」

 俺の脳裏にあの日の出来事が蘇った。

 防波堤。夏空。潮騒だけが聞いている、俺と流千二人きりの会話。

 突き飛ばされた衝撃、海水の生ぬるさと深みの冷たさ。そして───

 不気味に霞む水底みなぞこから黒くうねりみるみる近づく、巨大な怪魚の影…

「何言ってんだか分からんなぁ。それよりふざけてないで荷物、片付けようぜ。父さんが帰ってくる前には下に降りてよう」 

「フーちゃん?」

「知らん。おーぼーえーてーなーいー」

 わざとつっけんどんに応えてしまった。けどバレバレだろうな。

 あの時、小六の夏休み。流千にキスしようとしたのは俺の方。そして、拒否され突き飛ばされて海に落ち、恐ろしい何かに襲われた。海岸で目が覚めた時には一人で、濡れずくめで流千の家に帰ったら捜索隊を出すかどうかという大騒ぎに発展していたのだ。

 一緒にいた流千は?

 ボーッと見渡すと、大人の中に混じって立っていた。ジッと、俺を睨んで。

 だから俺は…

「今晩はナッチーの好きなカレーにするってさ。母さんの手伝いしてやんなきゃあなぁ」

 まだ問いたげな流千の雰囲気をガン無視で俺はうそぶく。チラッと目だけ動かして姿見ごしに流千を見やる。

 泣きそうな、でもホッとしたような。そんな顔だった。

(なんで、そんな切ない表情するんだよぉ…)

 あの時、死ぬほど切なかったのは俺の方。

 流千に海に突き落とされ、逃げ去られ、一人で溺れた。死にかけた。

 それくらい嫌われたのがショックで、俺はこの三年間、あの島を訪れることはなかったのだ。

 だから俺は、つとめて忘れたをする。もう二度と、流千に嫌われるのはごめんだから…

「えーっ!留美子、また妊娠したのぉ⁉︎」

 俺専用の大皿にカレーをよそいながら、母さんは我がことのように嬉しそうに叫んだ。

 夕食は父さんも帰宅していつも通りの午後七時だった。四角いテーブルの四つの席が埋まるのは、以前他の親戚が来て以来。流千が腰掛けるのは…小四の時に花火大会を見に来て以来か。

「そうなんです。しかも双子ですよ。はい、フーちゃん」

 流千は俺の皿を回しながら、こいつこんなに食うのかと目を丸くしている。ふふん、驚いたか。これが運動部系男子の本気ってもんよ。

「あの子私より一回り若いもんねえ。ナッちゃんがウチの子と同い年だから忘れかけてたわぁ。そうよねぇ、私もがんばれば、今からだって不二郎に弟か妹を作ってやれるわよね」

「いや母さん、生々しいギャグをナッチーに聞かせんなよぉ」

「アラ?私は本気よ。ねぇお父さん?」

 俺にそっくり、でも身長は半分の小太りで頭の薄い(これは由々しき課題である。おもに俺にとって)父さんが、眼鏡をなおしながら照れて頷く。

「まったくこのラブラブ夫婦は…おかわり」

「でもじゃあ、これで安藤神社も安泰ねえ。一人っ子じゃなくなって、少し気易く将来を考えられるんじゃない?」

「おかわりするとフーちゃん⁉︎…えと、そ、そがん感じです。そいけん本土での受験も許された感があって」

 安藤家は島にある複数の神社を長きに渡り束ねてきた宮司の家系だ。分家もいくつかあるけれど、本家に子供がいる場合、有無を言わさず次の宮司に指名される。

 お祭りも多く、なかには珍しい秘祭があって、民俗学でも注目されている。そうやって島を訪れた母さんの妹の留美子叔母さんが、当時の宮司であった叔父さんと出会い、結婚して生まれたのが長男の流千というわけだ。

「写メないの写メ」

「ありますよ。ハイ」

「あらー、良い一枚!ほら不二郎、あんたも」

 何年も使い古された型の古いスマフォ。SNSの家族アカウントに、大きくなったお腹をした叔母さんと、厳しい顔つきでそのお腹を支えるようにしている叔父さんが大写しになっている。よく見れば叔父さん、ピースサインしてるじゃん。

「ウチのデクノボウが女の子だったらお嫁に行かせたんだけどねぇ」

 という母さん。キモいこと言うなよ。俺が女になったってデラックスなマツコみたくなるだろ。

 それくらいならいっそ…

「いや。流千ちゃんならお嫁にもらっても良いだろうさ」

 と父さん。俺はブッ!と飲んでた牛乳を吹き出した。食卓は阿鼻叫喚。きったない!と俺をしばきまくる母さん。気にしないさと笑う父さん、そして俺のためにティッシュを取りに走る流千。

 風呂は別々に入り(当たり前なようでちょっと残念だが)、俺と流千は就寝。

 俺はベッド、流千は母さんが用意しておいた新品の布団を敷いて潜り込む。

「消すぞ、明かり」

「…んー」

「ナッチー、お前島の方に連絡したか?」

「あー…そういえばしてなかねぇ…」

「薄情な奴だなぁ。向こうの友達とか、忘れられてんのかと心配になんぞ」

「…フーちゃんはさ」

「なんだ?」

 少し間があった。暗闇に目が慣れる。

「言いかけてやめんなよぉ」

 ベッドから頭を出す。と、流千がちょうど蛇のように上体をもたげていて心底びっくりした。

「フーちゃんは、なんして僕んこと忘れよらんかったと?」

 そんな。それをお前が聞くなよ。

 でも。

「それはお前が好きだからさぁ」

 などと言おうものなら、気持ちが悪いと離れていってしまうだろう。友情はあくまで恋愛には発展しないものなのだ。少なくとも、この従兄弟にとってはそうなのだ。親しくされても抱きつかれても、それで舞い上がってしまってはあの夏の日の二の舞になるのだろう。

「自分が迷惑かけた相手だからさぁ。普通に親戚なんだし」

 迷惑、普通、親戚。

 そう、俺達の関係はそうあるべきなんだ。胸の中に疼く、深く刺さった棘のようなものを感じながら俺は眠りにつく。

 俺は知らなかったのだが、流千は俺の寝息が立ちはじめるとゆっくり布団を抜け出し、俺の寝顔を覗き込む。そして顔を下ろしかけて、またやめて布団に戻っていった。

 次の日もよく晴れて、俺は流千にこの辺の地理を説明しがてら二人でお使い散歩に出た。

 特大の麦わら帽子にプリントシャツ、ハーパンの俺はまるで裸の大将。ちなみに家を出て数分でもう汗だく。

 シンプルな野球帽にゆったりしたTシャツ、デニムのショートパンツから理想的な曲線の脚を出している流千。いやいやいや、なんでそんな贅肉も余計な筋肉もないんだよ。サンダル履いてるだけで色っぽいとか、お前ってやつは…

「何ねフーちゃん、そがんジロジロ見て。やっぱアレ?田舎もんぽかったかな?」

「いや、別に。むしろ違和感なさすぎてすげぇよぉ」

 買物はショッピングモールで済ませられた。パッションフルーツ、台湾パイン、セロリに大葉にトマト。肉、トイレットペーパー…

 両手にどっちゃりの買物を引っ提げ、フードコートで一休み。俺はタコ焼きにアメリカンドッグにシェイクを、流千はフローズンヨーグルトを注文した。

「あ゛〜、生き返るよなぁ〜」

「ふふっ、ちょっとフーちゃんオッサンくさかよ」

「いーさぁ俺は、オッサンでも。取り繕ってカッコつけんの苦手だしよぉ」

「そうやね、そのまんまで充分カッコよかもんねぇフーちゃんは」

 性懲りも無く頭がポワポワする。ふと思った。この光景、誰かが見たら付き合ってるように見えないかな。

 …見えないか。こんなにレジ袋積み上げてれば。どっちかというと…

「ねぇフーちゃん、あっち見てみて」

「んー?何だぁ?」

「あっち、あっち。エスカレーター前のガラスのところ」

 少し離れたエスカレーターの目隠しに、ガラスの壁が立ててある。そこにはテーブルに対面してダベる俺と流千の姿が全身映っている。肘をつき、だらしなく頭を寄せ合っている様子が。

「まるで夫婦者んごたるね、僕ら。あっははははははは」

 ぼむ。俺の頭が爆発した。

「ちょっ、フーちゃん⁉︎鼻血出とうよ鼻血‼︎」

「かかかかか構うな俺に!か、帰るぞぉ」

「え、待ってよ、まだ少し食べ残してるよ」

 食い残しを全部口に突っ込み、モグモグやりながら自分の担当分のレジ袋を持ち、俺は席を蹴った。

「ねー。機嫌直して欲しかっちゃんけどー?」

「別に、機嫌、悪くは、ない」

「えぇー?ウッソやぁ〜。顔ばあこうさせて口数少のうなっとるしさ」

「だから!…本当に怒ってないさぁ」

 川沿いの道を急ぎ足で歩いていたら、すぐに家に続く大橋が見えてきた。

「俺が怒ってるとしたら、それは…」

「それは?」

 ん?んん?煙…?

 俺は目をすがめた。すぐ近くにバチバチと炭を爆ぜさせながら、河原バーベキューに勤しむ一団が見える。年齢的に社会人一年───いや大学生だろう。この辺のアパートには確か近所の大学に通う学生も多く住んでると聞いている。

「…あれ、肉焼いとうよね。この辺でそういうことするのってOKと?」

「なわけないさぁ。ほっとこうぜ…」

 風に乗って広がっていた笑い声が、急に悲鳴に変わる。俺は連中の方にもう一度サッと顔を向けた。

 一人の男子学生が河に入ってアップアップしていた。他のメンバーはオロオロして見ているばかり。酒を引っかけて気が大きくなったのか、あるいは笑いを取ろうとノリで入ったか───

 いずれにしろ、あそこから深いところにハマってしまったらマジでヤバい。雨の後じゃないから大人しく見える河だけど、何年か前にも高校生がふざけて泳いで流されて死亡した事件があったはず…

 俺はレジ袋を放り捨てて走り出す。後ろから流千が何か叫んだが意識にもかすらない。

 助けなきゃ。

 それだけを思っていた。

 スニーカーのまま河にジャンプし、男子学生の近くに着水。よかった、なんとか足がつく。

 そのまま相手の服を掴んで水の中を引きずって、岸辺に押し上げた。学生グループの連中は呑気に拍手して喜ぶ。ほんとに勘弁してくれ。

(さて、俺も出なきゃなぁ)

 ふうと息をつき脚を踏み出した。

 ずるっ。

 スニーカーの裏が川底のぬめった石にとられ、俺は深みに滑り込む。たちまち流れに巻き込まれ、冗談みたいに体が加速した。

(え、これ、死ぬやつ?)

 ガボガボ、グボゴボ。耳から鼻から口から冷たい水が侵入してくる。

 水を必死にかくが、俺の手は役に立たない。足もバタバタさせるが水を捕まえ蹴ることができない───

 これ、みたいだ。小六の夏、海に落ちたあいつを助けようと飛び込んで、足がって、あべこべに溺れて…

(え?誰が誰を助けようとしたってぇ?)

 頭の中で記憶を整理する前に、俺は見た。

 真昼間の太陽がオーロラのように降りそそぐ水中を、太い体をうねらせてこちらへ泳いでくる魚影。

 黒くてぬらぬら光を反射する胴体。昆虫のはねのような繊細にとがエラ。そして前部には二本の腕を生やしている。

 頭は…

 頭は───

(ナ…ッチー⁉︎)

 水中で思い切り叫んだ。一気に咽喉に水が入り、俺は苦痛にまぶたを閉じ顔を顰める。

 不意に口の中に空気がやってきた。呼吸が、できる。

 ゆっくり目を開く。

 そこには、耳のあるべき位置に鰓を生やしたナッチーの顔がある。

 胸から下はだんだん黒くツヤツヤした鰻のそれだが、胸から上はほぼ完全な人間そのままで。

 俺にくちづけで空気を与えて、ナッチーは柔和に微笑んだ。

 

 大橋の下にずぶ濡れ状態で上がり、俺は咳き込みまくった。

「もう落ち着いた?フーちゃん」

 流千はこっそり拾ってきた衣服を身につけながら背中を向けて問いかけてくる。

 俺はそのショートパンツから伸びた形のいい脚をまじまじと眺めた。どう見ても普通の人間のもの。水から上がって水滴を振るい落としたらあっという間に元に戻ってしまったのだ。

「なぁナッチー…お前…」

「キモかよね?僕、この通り人間じゃなかやっちゃん。人魚なんや」

 人魚。マーメイド…男だからマーマンか?どっちでも良い。

 水をたっぷり含んだ髪を絞りながら流千は早口で説明する。

「僕達人魚は、只人ふつうかひとに正体ば見られたらダメつまらんっちゃん。選ぶのは二通り。相手ば殺すか、それとも催眠術まどわしばかけて記憶を消すか。…ばってんそれをしてしまうと…」

 あ。

 ああ!そういうことか!

 俺はポンと掌を打つ。

「じゃああの時、俺を突き落として笑って見てたのも、見捨てて逃げたのも、全部記憶間違いなんだなぁ⁉︎」

「───正解」

 じゃあ、あの日本当にあった出来事は…

「防波堤の上で、夕方だったかな?フーちゃん、僕のこと好いとうと、そいけん結婚しよ言うてくれたっちゃんね」

 ああ、そうだった。記憶のピースが組み変わる。

 ──冗談もほどほどにしとかんね、フーちゃん!

 ──俺は本気さぁ。大きくなったら、絶対結婚しよう。男同士でもいい。俺、お前が一番好きなんだ。

 恥ずかしがって走り出す、幼い流千。追いかける幼い俺。

 防波堤の端で脚を滑らして、ざんぶと音を立てて海面に落ちた流千。助けようと飛び込んだ俺は、あべこべに足が攣ってしまい溺れたのだ。

「あの時も、こんな風やったと。そいけん僕のファーストキスは…フーちゃんたい」

 俺は座り込んでいる流千の肩を後ろから鷲掴みにした。

「お前のその、それのせいで俺はお前に酷いことされたと思って、フラれたと思って、おかげで鰻が食えなくなってカナヅチになったんだぞぉ!」

「あー…最後のはちょっと違うばってん…まぁ、正解」

「早く解けよ!それ、そのノロイだかサイミンジュツだか知らんけどさぁ!」

「そ、そうやね。そしたらフーちゃんはもう自由や。…好きなひともできるけん」

 俺はカッとなった。自分でも嘘だろうと思ったけれど。

 気がついたら、流千の頬を引っ叩いていた。パァンという小気味良い音が大橋の下に響く。

「俺は…俺は今でも…なぁ…‼︎」

 キョトンと目を見開く流千。全く分かっていないその表情が憎たらしくて、俺は肺に全力で息を吸い込んで…

「いいか!そのエラかっぽじってよく聞きやがれ!俺は、お前が昔から今までずっと好きだ!だから───」

 そこまで言っても、まだ息が残っていた。俺はゆっくり膝をつき、面食らっている流千を両腕で包み込んだ。小さい頭。薄い柔らかな胴体。こんなにか細いのにお前、なんて苦しみを今まで抱えてたんだよ。

「返せよ。返してくれよぉ───お前との、思い出を。全部よぉ…」

 流千はずぅっと無言だった。

 やがてその目から、二筋の涙が流れ落ちた。

「僕…怖かっちゃん…こがんみにくか姿ば見せて、フーちゃんに嫌われたらどがんしよ思うて…でも…」

 細い腕が、俺の脇の下を通り過ぎ、そっと抱きしめ返してくる。俺が太っているせいで腕が回りきらないでいるのがくすぐったい。俺は少し身じろぎした。

「でもそんなの、僕のいいわけやった…そいけんもう、正直になるね…」

 分かる。分かるよ。

 恋って、怖いよな。人を好きになるって、すげぇ臆病になるよな。

 流千、だからお前、隠して騙して蓋をして。俺にも自分にもこれが良い、こうしたほうがお互いのためだって言い聞かせたんだろ。だって、自分が人間…普通じゃないから。

「マジで。ナッチー、お前よくも…秘密にしてたよな」

 でも。もうそんな必要はない。全然、ないんだよ。

 俺は腕をやんわり緩める。お互いに泣いている。見つめ合い、そして。

「僕、君ば好いとうよ」

「俺、お前が好きさぁ」

 二人して笑った。静かだった蝉時雨が、また聞こえ始めた。

 

 新学期。校門の前で、流千は自分の制服におかしなところはないか、髪型は、顔は、態度はと急にあたふた聞いてきた。

 俺は、全部気にするな、文句つける奴は俺が黙らせると豪語した。

「そ、そう、じゃあ大丈夫かっちゃんね」

「そうそう。気楽に。肩の力抜いていけば大丈夫さぁ」

 臆面もなく男同士で繋いだ手を引く。と、流千がまだ動かない。

「あ、待ってフーちゃん。そういえば大事な秘密、まだ隠しよった」

「なんだよまだあんのかよぉ」

「あの、これ余計なことかも知れんばってん…僕達人魚はオスでも…」

「んん?なんだなんだぁ?」

 大きく上体を倒す俺に流千は背伸びをし、ゴニョゴニョ。耳打ちしばし。

「えっ‼︎マジにぃ⁉︎」

 こくん、と頬を染めて頷く流千。

「じゃあ…それってさぁ…ヤッてもいいってことだよな…?」

 俺が低い声で問うと、今度こそ本当に、鼻血でも噴くかという勢いで流千は紅潮した。

「まあまあ安心しろ。元気な卵、産ませてやるさぁ」 

「フーちゃんのバカ!エッチ!エロ野球小僧‼︎」

 俺はでへへ、と笑いながら流千の手を握る。もう逃さないぞ。お前は俺の…

「俺だけの、人魚なんだからなぁ」

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