第5話 やっぱり好き
展覧会の企画担当になっている母は、ゴールデンウィークは仕事。
月子は、連休中は単身赴任先の北海道から帰ってきている父と一緒に、箱根にある美術館を訪れていた。
どうしても観たい展覧会だったので、父に無理を言って連れてきてもらったのだ。
その美術館では田中
田中一村は明治から昭和を生きた日本画家。五十歳で奄美大島に移住して奄美の自然、植物や鳥、魚を描いた人物だ。
中央画壇とは一線を画していたので、あまり有名ではないと思う。
孤独な最期を迎えた、ある意味孤高の画家だったかもしれない。
その作品を初めて観たとき、絵に命が宿っているような衝撃を月子は受けた。
南国特有の色鮮やかな魚、濃厚な空気。むせかえるような熟れた果実の匂いまで感じられるような、そんな作品が並んでいた。
それでいて日本画だからなのだろう。どこか光に優しさがある。それ以来、月子の好きな画家のひとりが田中一村だ。
作品をひとつひとつ眺めていく。
日が傾きかけた波間に、キラキラと優しく光が反射している。波の音は穏やかだ。そんな音まで聞こえてきそうな作品。
手前にはアダンという果実が描かれ、見事なまでの遠近感。月子が大好きな作品だ。
こういう作品を
そんなふうに思っている自分に気づき、自嘲した。そんな場面が訪れるわけなどないのに。
父は休憩スペースの椅子に腰掛け、絵を鑑賞する娘を眺めていた。
少し見ない間に眼鏡からコンタクトに変え、表情が大人びていて驚いた。どちらかというと猫背気味だった姿勢も、背筋が伸びている。
学校で良い刺激を受けているのかもしれない。それにしても本当に楽しそうに作品を鑑賞する子だ。栄子の影響をたっぷりと受けているのだろう。
将来どんな道に進むのかはまだ分からないが、希望はなるべく叶えてあげたい。
そのためには頑張って働かないといけないな、と連休明けのびっしり入ったスケジュールを思い出し、苦笑した。
展覧会の図録と数枚のポストカードを買って、月子と父は美術館を出た。
せっかく箱根まで来たのだから、レストランで食事をしたあと温泉に浸かって帰ることにした。
母へのお土産は箱根ビール。仕事あとの一杯が最高というに違いない。
美味しそうにグラスを傾ける母の表情が月子は好きだった。
連休明けの月曜日。
スクールバスに乗り、吊り革につかまると背後から
「上原さん、おはよ」と、快の声が聞こえた。
振り返ると快が笑顔で立っている。その隣にはいつも快と通学する友達が居た。
「……おはようございます」
友達と一緒に居るのに、私に話しかけて良いの? と、戸惑いながら小さい声で返事をした。快は友達に
「同じクラスの上原」と紹介する。月子が慌てて頭を下げると
「ども。オレは五組の
「上原月子です」
「上原さん、連休はどこかの美術館に行ったの?」
快が普通に月子に話しかけてくるので、月子の脳内は軽くパニックだった。友達と一緒に居るのに。彼女にあんなふうに言われたのに──
「えっと、箱根の美術館に……」
「へえ、何かの展覧会?」
「あの……」
月子が透と快の顔を見ながらうろたえていると、透が笑った。
「オレのことは気にしないでいいよ。カイは上原さんと話したいみたいだし」と、意味深な表情で言いながら快の脇を自分の肘で小突いた。
そんなこと言われても──月子は頬が熱くなるのを感じながら、吊り革を強く握りしめる。
ここで透を無視して快と二人で会話をするのもなんだか申し訳なく感じてしまう。
「榎本くんは、海外旅行に行っていたんですか?」
そう話しかけると、透は頷いた。
「そう。ハワイに行っていたんだ」
「海も綺麗でしょうね。日本とは違う海の色をしているんだろうな」
「すごい綺麗だったぜ。あ、写真見る?」
透はそう言うとスマホを取りだして写真を見せてくれた。エメラルドグリーンの海がそこには広がっている。とても開放的で気持ちが良い景色だ。
「一日居ても飽きなそうですね」
月子が画面を見ながら言うと、透は
「そうなんだよ。マジ、ずっと浜辺に居たり泳いだりしてさ。中間試験やばいかもな」と言って笑った。
あれ……なんか私、榎本くんとも普通に会話してるっぽい? と、月子ははたと気づく。快の顔を見ると、楽しそうに微笑んで月子を見ていた。
教室に入り席に着くと、快は鞄から小さな紙袋を出して月子の机に置いた。
「ソール・ライター展の招待券のお礼」
「え、ありがとう。そんな気を遣わなくていいのに」
そう言いながらも、嬉しさがこみ上げる。
「開けてみていい?」
「もちろん」
紙袋の中にはゴッホの『ひまわり』がデザインされたブックマーカーと、モネの『睡蓮』のボールペンが入っていた。
「嬉しい。ありがとう。どっちも好きな絵」
「良かった。美術館のショップで買ったんだ」
「写真展どうだった?」
「すっげー良かった! まじで二回観に行ったよ。写真集でしか見たことなかったから、実際に目の前で観てぞくぞくしたよ」
「印刷物で見るのと実際に見るのでは全然違うよね。臨場感もまるで違うもん」
「だよな。写真教室でも、すげー熱く語ったよ」
快はそう言って笑った。
「上原さんは、どんな展覧会に行ってきたの?」
「田中
「知らない人だな」
「日本画家なの」
一瞬迷ったが、月子は下敷きに挟んでいたポストカードを抜き出して快に渡した。
「あげる。この作品好きなんだ」
快は手に取って、まじまじとポストカードを眺めた。
「水平線に反射してる光が優しいな。手前の浜辺、石なんて写真みたいにリアル」
「でしょ。実際の作品はもっと凄いよ」
「好きな絵なんだろ? もらっちゃっていいのか?」
「うん。何枚か買ってきたから大丈夫」
「ありがとう」
担任が入ってきたので話はそこで終わった。
前に向き直った快の背中を見ていた。
ダメだ。やっぱり快が好きだ。こんなふうに話が出来るのはすごく嬉しい。心地良い声と笑顔に胸が高鳴る。
彼女が居るけど、快のことを思い続けていたい。もっともっといろいろな話がしたい。
その日は郁美と会う約束をしていたので、月子は学校帰り美術館に行った。遠足に着る服の買い物に付き合ってもらうためだ。
母は取材のあと館長たちと会食があると言っていた。
一人ではなかなか決められない服選び。郁美が居ると安心して試着することも出来るし、月子に似合う服を見立ててくれる。
しわにならないゆったりしたデニムのボトム、肌触りの良い短めのトップスを買い、そのあと一緒に食事をして帰ることにした。
郁美の夫は現在アトリエで作品を制作しているし、ひとり息子は留学中。
こうやって月子と一緒に出掛けてくれる郁美は有り難い存在だ。そんな郁美も一年後の企画展は担当になるので、作品を借りる美術館や所有者との交渉もあって忙しくなってきたようだ。
月子は食事をしながら快とのことを郁美に話した。
「すっかり恋する乙女の顔だものねえ」
「もう、からかわないでよ」
「からかってるんじゃなくて、可愛くなったって言ってんの」
郁美はそう言って笑った。
「池端くんは、月子ともっといろいろ芸術の話がしたいみたいだね」
「私だってそうだよ。でも彼女が怖いな」
「そうだねぇ。でも気にしないで話すればいいじゃん。同じクラスなんだからさ。教室で話をしてるぶんには良いでしょう」
「うん……」
「私なんて、って言わなくなったね。良いことだよ。大丈夫。月子はじゅうぶん魅力的だよ」
そう言われると嬉しいけれど、やはり自信はない。でも快があんなふうに話しかけてくれる。
それを思うと彼女を恐れず、もっと自分の好きなものを気兼ねなく話してもいいのかなとも感じる。
思考はぐるぐる堂々巡りだ。
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