第10話 金曜日

 美術館の受付に行くと、顔なじみのアルバイトが「こんにちは」と声を掛けてきた。


「こんにちは、西脇にしわき郁美いくみさん、今日は居ますか?」

「事務所に居ますよ。ちょっと待って下さいね」

「あの、もしお手すきだったら受付まで来て貰いたいんです」


 アルバイトの女性は「オッケー」という合図を指でしながら、事務所に内線を掛けた。


「降りてくるそうです。ちょっと待っててくださいね」

 そう言われ、胸をなで下ろす。やっぱりまだ母には聞かれたくない。


 少ししてエレベーターから郁美が出てきた。月子の顔を見て様子がいつもと違うと思ったのか、怪訝な顔をした。


「どうしたの。何かあった?」

「うん、あのね──」


 何処から話せばいいんだろう。言葉が出ない。ぎゅっと紙袋を握りしめ郁美の顔を見つめるしか出来ない。


「三十分くらい出てくるね」

 郁美は受付の女性に声を掛けると、月子を促して美術館を出た。


 近くの喫茶店に入って、やっと息をすることを思い出したような月子の顔を郁美は眺めていた。


「池端くんと何かあったの?」

 コーヒーを飲みながら郁美が聞くと、月子はこくんと頷いた。

「あのね、絵をもらったの。池端くんが描いた絵」

 そう言って月子は紙袋からパネル張りした絵を出した。


「私が田中一村いっそんが好きだって言ったら、この絵描いてくれた。こういうのなら受け取ってくれるだろって。それから彼女とは別れて、あと、今度の金曜日に一緒に今の展覧会を観ることになって」

「え、なに。そんなに進展したの? やったじゃん」

「進展? 違うよ。あれ、違うのかな? どうなんだろう」

「彼女と別れて、月子のことを選んだってこと?」

「あ、違う、そうじゃないよ。彼女とはあまり合わなかったって。彼女が居ると私が一緒に展覧会に行ってくれないからって……あれ? どういうこと?」


 月子も話をしているうちに混乱してきた。

「絵、よく見せて」

 郁美が手を伸ばしてきたので、月子は快の絵を郁美に渡した。


「あら可愛い。なかなかいい作品じゃない。椰子の木をしっかり描いて、そのうしろにある海との遠近感がよく出ているね。波間のきらめきを再現しようと頑張っているのが分かるよ。彼の頭の中にはどんな景色を描きたいのかしっかり出来ている感じだね」

「綺麗な優しい絵だよね」

「そうだね。すごく。ここにサイン書いてもらいなよ。池端くんの作品だって分かるように」

「えー、お願いするの恥ずかしいよ」

 そう言うと郁美は笑った。


「でもいいね。たとえば池端くんが写真家になったとするじゃん。展覧会やることになったらさ、初期の作品ってことでこの絵も展示するの。そうね。会場の最初の章かな。展覧会の構成が浮かんでくるわー。なんなら将来月子がプロデュースしてあげたら良いじゃない。この作品、大事にとっておきなよ」

「部屋に飾ろうと思った」

「ふふふ。可愛いねえ」

「次の授業は油絵になるんだって。それも期待してって言ってたよ」


 郁美は楽しそうに月子を見た。


「もっと池端くんと仲良くなりたいでしょ」

「うん」

「彼もきっとそうだと思うな。絵までもらったんだから、月子も勇気を出しなさい」

「──」

「金曜日の展覧会で頑張ってみたら? 自分の気持ち、言ってみたら?」

「自分の気持ち……」

「池端くんと、どんなふうになりたい?」

「……一緒に展覧会に出掛けたり、写真を撮ってる姿も見たい」

「そう言ってみなよ」


 実際にそんな場面を想像すると胸が苦しくなる。言える気がしない。でも、もし言えたら──快が真剣にカメラを構えている姿を想像すると胸がときめく。


「言えそうな雰囲気だったら……頑張ってみる」

「前向きでよろしい」

 照れながらも、しっかりと目を見て答えた月子は以前より逞しくなったな、と郁美は感じた。



「戻りましたー」

 郁美が事務所に戻ると、給湯室からマグカップを持って出てきた栄子が尋ねた。


「うちの娘は恋の相談かしら」

「栄子にはまだ秘密」

「寂しいなあ。まだ話してもらえないなんて」

「今日帰ったら月子の部屋覗いてみなよ。素敵なものがあるから。でもまだ追求しない方がいいかなー。金曜日まで」

 郁美はそう言って微笑んだ。


 *


 帰宅した月子は快の絵を机の上に置いた。眺めるだけで笑顔になれる絵だ。

 何処に飾ろうか、部屋を見渡す。ピクチャーレールに飾るには、金具を付けるか額に入れなくてはいけない。


 ベッドサイドに置いてあるチェスト。その上にあったドライフラワ―とポストカードの入ったフォトフレームを片付けて快の絵を置くと、モデルルームの写真を見ているような小洒落た雰囲気になった。


 この海の色に合わせたベッドカバーに替えたらもっと素敵かな。次の油絵も、もしかしたらもらえるのかもしれない。そしたらミニギャラリーみたいで楽しい。


 将来、学芸員になって快の作品展を企画出来たら素敵だな。絵を観ながらそんなことを思い微笑む。

 スマホのカメラでベッドの一角の写真を撮ってみた。快の絵が引き立って見えた。


『こんばんは。今日は水彩画をありがとう。本当に素敵な絵で気に入ってます。部屋に飾りました』

 そうメッセージを書いて、図々しいかとも思ったけれど写真も添付して送った。


 宿題をしているとピンとメッセージの着信音がした。快からだ。

『写真ありがとう。飾ってもらってすげー嬉しい。上原さんに渡して良かった』


 しみじみとそのメッセージを眺める。嬉しいのは私の方だよ、こんなふうに交流してくれてありがとう──



 月子が入浴中、栄子は部屋を覗いてみた。

 チェストの上にある絵に気づき、郁美が言っていたのはこれだと分かった。


 大らかで優しい子なのだろうと感じる筆遣い。意志は強そうだ。前に聞いたとき彼は居ないと言っていたけど、どうなっているのか。


 とりあえず今は見なかったことにして栄子はドアを閉めた。



 金曜日。朝から月子は落ち着かなかった。快はいつもと変わらない様子で教室にいるので羨ましく感じる。


「今日の帰り、お母さんとこの美術館で展覧会を観るね」と、朝食時には伝えておいた。

「ひとりで?」

「ううん。クラスメイトと一緒」

「夕御飯は? どこかで食べてくるの?」

「え? あ、それはないと思うけど。あれ、どうなんだろう。でもそれはないよ、きっと」


 月子がしどろもどろで答えると、母はにんまりと笑った。


「ま、もし美術館のあとどこかに行くなら、連絡入れておいてよね」

「うん。分かった」

 そんなやりとりを思い出す。


 美術館は二十時までだけれど、そこまで居るとは思わないし、快だって絵を観終われば帰るだろう。


 昼休みに月子のスマホに快からメッセージが入った。


『掃除当番なので、先にバスに乗って駅で待ってて。終わったら向かいます』


 そんなメッセージをもらうと、本当に快と出掛けるのだとさらに意識してしまう。

 了解しましたと返事を書いたあとは、そわそわと心が落ち着かず、午後の授業はあまり記憶にない。



*****

次回、最終回にしたいと思います。

いつも読んで下さってありがとうございます。

七迦 寧巴

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