第9話 快の水彩画
バスはJRの駅前に到着した。ここから乗る路線が違うのは遠足で知っている。
駅の改札に向かいながら
「上原さんはこの時間に帰って、習い事か塾に行ってるの?」と快が聞いてきた。
確かに部活もしていなくて、早い便で帰っていればそういう疑問もあるかなと月子は思った。
「ううん。習い事はしてないよ。塾は今は夏休みだけ。たいていは家に帰って夕飯作りだけど、お母さんの居る美術館に寄って展示を観たあと、お母さんの同僚とゴハン食べたりしてるんだ。金曜は美術館って夜間開館が多いから、展覧会を観に行ったりもするよ」
「へえ。そうか、夜間開館ってのがあるんだ」
「うん。夜八時や九時まで開いてる美術館も多いから楽しめるよ」
「で、今日は?」
「今日はお母さんが家に居る日。休館日だから」
「なるほどね。じゃあ早く帰らないとな」
快はそう言って微笑んだ。
「明日、展覧会のチケット渡すね」
月子が言うと、快は頷いた。
「それ、一緒に行けるのかな」
「あ……うん。いいよ」
そう言った月子の耳が赤くなっているのを快は見ていた。ホントにこんなに赤くなるんだ。どれだけ温かいのかつまんでみたくなる色だ。
最初はあまり思わなかったけれど、話している表情や仕草が可愛らしいと感じる。
あの絵を観せたら、どんな表情をするだろう──と、快は想像した。
美術の授業で描いた小さな水彩画。
明日の授業が終わったあとは持ち帰って良いはずだ。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日ね」
そう言って駅構内で別れた。
その夜、月子はパソコンを立ち上げて遠足の共有アルバムを覗いてみた。他のメンバーも写真をいくつかアップしていて、そこには快も写っていた。
笑顔で男子たちとポーズを取っているその姿を眺める。
月子のなかで快の存在が日増しに大きくなっていくのを感じていた。
最初は声を聞くだけの存在だったのに。
こんなにカッコイイのに、今、快には彼女が居ない。そして月子と一緒に美術館に行こうとしている。それが不思議で仕方ない。
こんな私と出掛けて大丈夫? 恥ずかしくないのかな。彼女はあんなに見た目も良かったのに。
鏡を覗き込んで自分の顔を見た。
以前よりは表情も柔らかくなっている気はする。コスメボックスを開けて、郁美と一緒に買いに行った保湿液を手に取り、頬にあてた。手の温かさも伝わり、じんわりと気持ちが良い。
郁美が前に言っていたっけ。私は綺麗でいようと努力してますからって。
私は快の彼女じゃないけど、快の隣を歩けるのならもっと綺麗になりたい。ならなくちゃ。
*
翌日、快に展覧会の招待券を一枚渡した。快は「ありがとう」と言ってから月子を見た。
「上原さんのぶんはあるの?」
「うん。財布に入ってる」
「その夜間開館ってやつ、この展覧会でもやってる?」
「やってるよ。金曜日」
「じゃあ、今度の金曜。行こうよ」
今度の金曜日、急な誘いに月子は戸惑う。ホントにホントに良いのかなという迷い。でも一緒に行くと言ってしまったのだから──
「うん。分かった」
緊張して声が少し上擦ってしまった気がする。快は月子のそんな様子は気にしていないようで、今度はじっくり観られるなと言って笑っていた。
昼休みが終わり、次の授業は選択科目だった。
月子は音楽、快は美術。音楽の授業は現在ギター演奏だ。初めのうちは弦を押さえる指がぎこちなく、音も途切れがちだったが、少しずつスムーズに弾けるようになってきた。
和音の音が心地良くて、まるで絵画を鑑賞し終わったときのような爽快感がある。
授業が終わり教室に戻ると、しばらくして美術を取っていた生徒たちが帰ってきた。皆、紙袋を持っている。
快も同様に紙袋を持っていたので、
「それ、作品?」と月子が聞くと、快はにんまりと笑って袋から一枚の絵を出した。
「そ。完成した透明水彩画」
「パネル張りしてるんだね」
透明水彩画は、水彩画故に水に濡れると紙が柔らかくなり、伸びたりうねったりしてしまう。それを防ぐために平張りやパネル張りという方法で、板に紙を貼り付けてから描くのだ。
パネル張りをすれば、作品はそのまま飾ったり油絵のような額に嵌め込むことが出来る。
「見せてもらっても良い?」
月子が聞くと、快は頷いて作品を渡してくれた。
F4サイズだろうか。手にして作品を観て驚いた。
「これ、田中
思わず言葉が出てしまった。よく見れば、このあいだ渡したポストカードと構図は似ているが、手前に描かれた植物は椰子の木だった。その背景に穏やかな海が広がっている。
「構図とモチーフは参考にさせてもらった」
「綺麗。とても穏やかな気持ちになれる──」
海の色が淡い透明感のあるオレンジ色に塗られていて、穏やかだった一日がもうすぐ終わる、そんな温かい幸福感に包まれるような作品だ。
「気に入った?」
快が嬉しそうに聞いてくる。
「すごく。池端くん、すごいよ。こんな気持ちの良い絵を描けるなんて。次の授業中もずっと観ていたい気分」
「ははは。それはさすがに先生に叱られるな。次回からはいよいよ油絵らしいよ」
「楽しみだね。見せてくれてありがとう」
月子は丁寧に作品を返した。写真からも絵画からも、快の人柄が出てきている。
快はとても優しい人だ。だから月子にもこんなふうに話をしてくれるんだな、と思った。
先生が入ってきて、次の授業が始まった。
快はノートを取りながら、さっきの月子の表情を思い出していた。あんなに楽しそうに作品を観るんだな。
作品を見入っている目は本当に輝いていて、その絵の中の世界に心が奪われていることが手に取るように分かった。
オレが送った写真も、きっとあんな顔をして観てくれていたのだろう。
放課後、月子は掃除当番だったので、いつもより二本遅いバスに乗った。
駅に着いて改札を通ると「あ、来た来た」と快の声が聞こえた。驚いて顔を上げた先に快が居るではないか。
「え? どうしたの?」
月子が聞くと笑顔で快が近づいてくる。
「今日は透、用事があって部活に出なかったから一緒に帰ってきたんだけどさ、オレは上原さんを待ってた」
「?」
事態が飲み込めず首を傾げると、
「この絵、上原さんにあげようと思って描いたから」
そう言って紙袋を月子に渡してきた。
「え、私に?」
「そう。田中一村のあの絵が好きだって言っていたから、こういうのなら受け取ってくれるかと思って」
「ありがとう──でもどうして──」
「ホントのこと言うとさ、家に置く場所がないっていうのもあるんだけど、あんなに楽しそうにオレの描いた絵観てる顔見たら、絶対もらってほしくなった」
月子は自分の頬が熱くなるのが分かった。ドキドキと激しく動き出した心臓が口から飛び出てしまいそうだ。
「ありがとう。嬉しい──」
「招待券のお礼も兼ねてね」
「そんなの良いのに……でも、ほんとにもらっちゃっていいの?」
「是非もらって」
「大事に飾るね」
「そう言ってくれると思った。次の油絵も期待して。じゃあ金曜は美術館よろしくな」
快はそれだけ言うと、山戸線方面に歩き出した。
紙袋を握りしめ、月子は現実を噛みしめる。快が描いた作品を手にしている自分。
どうしよう!
月子は家とは逆方向の電車に乗った。郁美に聞いて貰いたい! どうしたらいいの!
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