第11話 好きな絵の前で

 放課後。月子は一人、スクールバスに乗り込んだ。

 教室を出るときかいとは目が合った。その目は「あとで」と言っているように感じて、月子はほんの少しだけ頷いた。


 それだけでも胸はドキドキと大暴れをしていたのだ。たったそれだけのことでこんな状態なのに、自分の気持ちをもしも快に伝えることになったら、そのとき心臓はどうなってしまうのだろう。


 駅に着いて、トイレに入り鏡を見た。

 頬は少し赤い。緊張しているのが分かる。手を洗って冷えた掌を頬にあて、そっと息を吐いた。


 ブラシで髪を直し、リップクリームを塗った。ほんの少しでも可愛く見えますように。

 月子は鏡に向かって笑顔を作ってみる。ほんの少しでも快に可愛いって思われますように。


 改札前の花屋でアレンジメントしてある花を見ていると「おまたせ」と快の声が背後から聞こえた。振り返るとすぐ傍に快が居たので体が緊張で硬くなる。

「なんか気になる花でもあった?」

「ううん。そういうわけじゃないよ。見てただけ」

「じゃあ、美術館行こうか」

 快はそう言って改札内に入っていったので、月子はその後ろをどぎまぎしながら付いていった。


 金曜日、十七時過ぎの美術館。そこまで人は多くないが、このあとは仕事帰りの人たちが観に来るので少し混雑する。

 受付に行くと、いつものアルバイトの女性が月子を見て「こんにちは」と言い、すぐ傍に居る快に気づいた。

 ぺこりと頭をさげて招待券を見せると、満面の笑みでチケットを切り、半券を月子に渡したので恥ずかしかった。


「そっか、みんな顔見知りだよな。今日のことお母さんは知ってるの?」

「うん。クラスメイトと観に行くって言ってきた」

 どうぞ快を見に来ませんようにと願うばかりだ。


「オレのことは気にしないで、いつも通りの見方でいいよ」

 快はそう言ってくれたけど、快がどんなふうに作品を観るのか知りたくて、少しだけ離れて快の近くで鑑賞していた。


 そのうち快が月子に作品の感想を言い始めたので、月子は快の隣に立つ。館内では小声で喋ることになるので、快の顔が月子の耳元に近づくたび、月子の体は熱くなった。


 十九世紀に活躍した画家、ロセッティの作品の前で快は止まる。

「この青い服がこのまえ観たときも印象的だったんだ。服のひだの流れが綺麗だなって思った。そしてなんでザクロを持ってるのかなって。瞳も惹かれたんだ」


 それは『プロセルピナ』というタイトル。

「この女性はギリシャ神話やローマ神話に出てくる女神なの。冥王プルートに誘拐されて冥界にいっちゃったのね。そこで冥界の食べ物のザクロを六個食べちゃったから一年の半分は冥界に、残りの半分は母親のもとで過ごすことになったっていう神話があるんだ」


「あ、それ聞いたことある」

「この絵のモデルはウィリアム・モリスっていうデザイナーの奥さんなの。ロセッティは彼女に惹かれていたけど、彼女はモリスと結婚しちゃったんだって」

「じゃあ、プルートがモリスって思ったのかな。それとも自分がプルートで彼女を奪いたいって思ったのかな」

「確かにどっちの解釈も出来そうだね。面白い」

「オレだったらどっちかなー。奪いたくて表現するかなー」


 そんな言葉を耳元でささやかれると、どぎまぎしてしまう。

 快は月子の顔を見て、にっと笑うとのんびり歩きながら次の作品に向かう。歩調を合わせながら月子も快と同じ作品を鑑賞していく。


 ターナーの絵の前には人もわりと居たが、土日のようには混雑していなかった。作品に近づくにつれ、沈みゆく太陽の光が眩しく感じる。


 ほぅ、と何度観ても溜息が出る。快を見ると、同じようにうっとりと作品を眺めている。

『解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号』という長いタイトルは、どういう場面なのかを説明してくれているので分かりやすい。


「こういう空を描けるのはすごいな。オレもこんな空や光を撮れるようになりたい」

「その夢に近付けるように、たくさん写真撮っていくんだよね。見ていたいな」

「ん?」

 思わず口にしてしまった台詞に月子は気づいて慌てた。


「あ、ううん。写真これからもたくさん観たいなっていう意味」

 ほんとは写真を撮っている姿も見たい。でもそれは……やっぱりまだ言えない──


「上原さんもこの絵、好き?」

「うん。すごく好き」

「どのへんが好き?」


「水面に映りこむ空や夕日の光、帆船や蒸気船に見入っちゃう。蒸気船だから汽笛が鳴ったりしてるんだろうけど、静かに停泊地に向かってるのかなって、そう思える。船艦だけど帆船のテメレール号が静かにその役目を終えて去っていくんだなって、それを見送っている人たちのひとりになった気分で少し寂しいような、違う時代がくる期待のような、そんな気持ちにさせてくれるところが好き」


 快は頷きながら作品を観て、

「上原さんは情景や作品の背景を想像するのが得意なんだね。そこに物語を感じさせる作品が好きなんだ」

「うん。そうだね」

「そういう作品を撮れるようにならないとな。ただ綺麗なだけじゃ駄目だ」

 そう言うと月子を見つめる。

「これからオレの写真見て、どんどん感想聞かせてほしいな」

「うん。もちろん」


 これから、もっともっと近づいていいってことなのかな。快の作品に、心に、入っていっていいってことなのかな。


 休憩スペースは人が居なかった。大きな窓ガラスの外には敷地内の芝生が広がり、その向こうにはビルがそびえている。日は傾きかけて休憩スペースを優しい光で照らしていた。


 月子の心は穏やかだ。こんなふうに誰かと美術館で作品を観る心地よさは知らなかった。でもそれは相手が快だからに違いない。


池端いけはたくん、あのね」

 月子は言葉に出す。快が月子を見た。

「今日はすごく楽しい。これからも一緒に展覧会に出掛けたりしてもいいかな」

「それはこっちの台詞。こうやってじっくり作品観ながら話せるの、上原さんだけだよ」

 その言葉と笑顔に勇気をもらう。


「それとね、あの、池端くんの写真も観たいんだけど、撮ってる姿も見たいの」

 快が月子を見つめている。その目を見ているうちに心臓がドキドキと大きな鼓動を始めた。頬が火照ってくる。でももうここまで言葉に出してしまったから──

「だから……」

 一度息を吸う。快の目は優しい。大丈夫。


「お休みの日も一緒に出掛けたいから……友達になってくれますか」

 快が大きく目を開いた。え、私、変なこと言ってしまった?

「──友達?」

 快が少し驚いた顔で聞いてきた。


「友達なら、また池端くんに彼女が出来ても、展覧会に行ったり写真撮ってるのを見たりしても大丈夫なのかな……って思ったんだけど……駄目かな」

 快がくすっと笑ったので、月子はますます頬が熱くなった。


「オレ、上原さんと連絡先交換した時点で友達だと思ってるけど」

「え、あ、そうなの?」

「他の女子の連絡先は聞いてないだろ?」

「そういえば……」

 共有アルバムのURLも月子からグループの女子に知らせたことを月子は思い出した。


「そっか、もう友達だったんだね。クラスメイトじゃなくて、友達」

 月子が恥ずかしそうに笑うと、快も笑った。

「なーんだ。オレてっきり告られると思ったのに。残念」

「告……そんな、滅相もないっ」

「出た。上原さんの滅相もない」

 快が可笑しそうに笑うので、ますます月子は赤くなりうつむく。


 快はそんな月子を見ていた。耳はもう湯気が出そうなくらいに真っ赤だ。手を伸ばして月子の右の耳たぶをギュッとつまんだ。月子が驚いて顔を上げた。


「すごい温かいな」

「???」

 月子はさらに赤くなって固まっている。


 まあ、これが彼女の限界か、と快は妙に納得する。初々しいなぁ。

 でも月子がここまで言ってくれたことは嬉しい。この赤さからすると、かなり勇気を出してくれたのだろう。この先はオレが積極的に動かないと駄目そうだな。


「それにしても、なんでオレが他に彼女を作る前提で言うかなぁ」

「え???」

 月子は明らかに混乱しているようだ。


 これ以上言うと、月子は茹で蛸になって倒れそうな勢いだから、今日はここまでにした方がいいだろうか。快は立ち上がり、

「展示室に戻ろうか」と声を掛けた。


「うん」

 月子も立ち上がりながら、今までの会話を反芻していた。


 ──なーんだ。オレてっきり告られると思ったのに。残念


 その台詞を思い出して、月子の動きが止まった。快が振り返る。

 あれ? 残念? 残念に思ったの?


 月子は口を手で押さえる。もしかして、好きですって告白していたら……付き合って下さいって言っていたら、OKをもらえていたってこと? 快と目が合う。


「さらに耳が真っ赤。もしかしてオレの言ってること、意味分かった?」

「え……あの──」

 快は月子に近づくと、手を繋いできた。

「もう一回、ターナーの絵を観ようよ」

「うん──」


 快に手を引かれ、月子は歩き出す。快の手は大きくて温かい。

 勇気を出していいかな。ターナーの絵の前に行ったら、もう一回、勇気を出して伝えてもいいかな。好きな絵の前でなら言える気がする。


 そして、もしも快が応えてくれたら……夏休みは箱根に行きたい。

 快に田中一村いっそんの──私が大好きな作品を観てもらいたい。


 ターナーの絵が近づいてくる。眩しいくらいの光。そして去りゆく帆船と、それを牽引けんいんする蒸気船。これは時代の変化がテーマの作品。

 私も変化するんだ──きっと快は受け入れてくれる。


 月子はぎゅっと強く快の手を握った。それに反応して快が振り返る。

 開きかけた月子の唇を見て、その言葉を聞き取ろうと顔が近づいてきた。勇気を出して月子はささやく。快の耳元で。


 その声は蒸気船の汽笛に吸い込まれていくくらい小さいけれど、確かに快の耳に、心に届いたと思う。快は微笑んで月子の赤くなった耳元で囁く。


 二人は見つめ合うと、寄り添うように作品の前に立ち、蒸気船に曳かれていく帆船を眺めていた。新しい時代の幕開け──繋いだ手は新しい始まり──


 <了>



*****

読んで下さってありがとうございました。

KAC2023の最後のお題『いいわけ』で閃いて書き始めたので、本当は数回で終わらせるつもりが、月子が思った以上にもじもじしていて長くなりました。

最初にラストシーンは決めていたものの、ストーリーをじっくり練る時間がなかったのですが、案外楽しく書けました。読んで下さった皆さまに感謝です。

G.W. には日帰りで箱根に行き、岡田美術館で田中一村の作品を楽しんでこようと思います^^

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好きな絵の前で 七迦寧巴 @yasuha

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