第2話 新学期

 同じバスに乗って学校に来たので、快はすぐ近くに居る。

「オレは五組だって。カイは?」と、快の友達の声が聞こえた。

「二組だった」

「まあ、朝は今まで通り一緒に登校しようぜ」


 そう言って教室に向かう二人の後ろを、緊張しながら歩いていた月子の鼓動は速いままだ。

 落ち着け、落ち着け、最初が肝心だ。

 郁美に言われていたことを思い出しながら階段を上っていく。


 クラス替え、第一印象が肝心だ。暗い表情をしないように、ちゃんと顔をあげてクラスメイトの顔を見る。笑顔を心がける。


 大丈夫。郁美から肌の手入れも教わってから、肌の調子も良い。ニキビだってない。

 目にかかるくらいあった前髪も切って、目がちゃんと出るようにしてるし、睫毛だってビューラーで上げてきた。ほんのりピンクのリップだって塗ってる。


 でも──快と同じクラスになることは、まったく想定していなかった。やはりどこか遠い存在に思えていたからだ。


 教室に入り、黒板に貼られた座席表を見る。最初はたいてい五十音順だ。

 あれ? 待って。ってことは……

 快の名字は池端。月子は上原。

 快は前から二番目の席に座った。そしてその後ろが月子の席になっていた。


 胸の高鳴りがうるさい。快の横を通り、静かに席につく。

 次の席替えがあるまで快が前に居るのだと思うと緊張してしまう。

 快が振り返って月子を見たので、まともに目が合ってしまった。

 切れ長の目に通った鼻筋。正面からの顔を見たのは初めてで、その整った顔立ちにうろたえていると、


「もし黒板見づらかったら言って。先生に言って席替えてもらうから」と快が言った。

 落ち着いた低い声を月子に向かって発している。聞き惚れてしまったので、一瞬反応が遅れた。


「あ、大丈夫です」

 蚊の鳴くような声で答えてしまった。きっと月子の身長を見て気を遣ってくれたのだろう。快は肩幅も広そうだ。

 快が前に向き直るとき、「ありがとう」と言うことだけは出来た。


「あ、居た。クラス別になっちゃったねー」

 その声に月子も顔をあげると、そこには快の彼女が居て入口から顔を覗かせていた。

「おまえは何組?」

「四組なのー。知らない子ばっかりでつまんない」

「友達なんてすぐ出来るだろ。もうクラスに戻った方がいいぞ」

「冷たいなあ。じゃ、また帰りにね」


 相変わらず可愛らしい表情だと月子は思った。笑顔が自然で素敵だ。私には出来ないな──自己紹介は頑張ろうと思っても、あんなに自然に出せる笑顔を見てしまうと気分が沈んでしまう。


 担任の先生が教室に入ってきたので、席を離れていた生徒も着席した。

 新しい担任は、髪に白いものが混ざり始めている男性教諭だった。受け持つ授業は古典だと自己紹介していた。そのあと生徒の自己紹介が始まった。


 五十音順だと月子の番はすぐに来てしまう。

 前日、鏡を見ながら練習したことを思い出そうとしたが、快が立ち上がったので意識はそちらに集中した。


「はじめまして。池端快です。みんなにはカイって呼ばれてます。趣味は写真を撮ることで、部活には所属してませんが、地元のコミュニティースクールで写真の勉強をしてます。

 このクラスは三年になっても同じなんで、卒業アルバム用のスナップ写真もそのうち撮れるようになれたらいいなって思ってます。宜しくお願いします」


 すらすらとよどみなく話す快の声に聞き入ってしまった。

 そうか、もうクラス替えはないから三年も快と同じクラスなんだ。

 これから二年間も一緒のクラスで居られる──そう思いながら快を見ていると席に着いたので、慌てて月子は立ち上がった。


「えっと、上原月子と申します。趣味は美術鑑賞で、展覧会にはよく出掛けます。美術に関する本を読むのも好きです。宜しくお願いします」


 もっといろいろ考えていたはずなのに、すっかり頭から抜け落ちてしまった。

 緊張していて、笑顔で話せていたのかも分からない。失敗だったろうか……うつむきながら着席すると、


「だからゴッホなんだ」と、快が声を掛けてきた。人差し指で月子の机に置いてあるペンケースを指している。

「あ、うん。この絵好きなの」

「いいよね」


 それだけ言うと快は他の人の自己紹介を聞き始めた。

 快と会話をしてしまった。

 脳みそがぐつぐつと沸騰しているように感じた。頬が火照っている。


 月子のペンケースはゴッホの『ローヌ川の星月夜』のデザインだ。以前展覧会があったときにショップで買ったものだった。


 ゴッホがアルルに滞在していた頃に描いた作品で、満天の星、そして町の灯りがローヌ川に映りこむ幻想的な作品だ。

 精神を病む前のわりと安定していた時期にゴッホが描いたものだと思う。いつまでもこの景色を見ていたくなる、そんな作品だ。


 でもこのペンケースを見てすぐにゴッホだと分かる人は少ないと思う。

 もしかしたら快は絵も好きなのだろうか。写真が趣味と言っていたから、絵もちょっと通じるものがあるだろうか。

 写真展なんかには出掛けるのかな……いろいろ知りたい欲求が出てきてしまう。でも、休み時間にももちろん話しかける勇気はなかった。


 *


 学校帰りに母と郁美が勤めている美術館に顔を出した。

 この週末から母の担当している特別展が始まる。今回はイギリス絵画の歴史を辿る展覧会で、十六世紀から現代までの主な画家の作品を楽しむことが出来る。


 館長とも面識があるので、月子はオープン前でまだライトの調整をしている人たちが居るなか、展示品を観ることができた。これはかなりの特権だ。


 今回の目玉はターナーの作品だ。のちの印象派に影響を与えたターナーは十九世紀に活躍した風景画家。

 大気や光の表現が見事で、雲の切れ間から射す太陽の光は本当に眩しくて思わず目を細めてしまう。その光をぼんやり眺めていると


「今日の自己紹介はうまくいったの?」という声が聞こえて、振り返ると郁美が居た。


「うーん、半分くらい。池端くんが同じクラスになって席も前だから緊張しちゃった」

「おお! やったじゃん。これで親しくなれるじゃない」

「えー、無理だよ」

「またすぐそういうこと言う。どうせ私なんてって、いろいろ言い訳して逃げるの?」

「そうじゃないけど──あ、でもね。ゴッホのペンケースに気づいたの。写真の勉強もしてるって言ってた」

「へぇ。ちょっと共通点もありそうじゃない」

「だと良いけど」

「まずは話しかけてみればいいじゃない。どんな写真を撮ってるの? って聞いたり。ゴッホ好きなの? とか、きっかけはいろいろあるじゃん」

「──無理」


 郁美は月子の顔をまじまじと見た。


「たとえばさ、誰かに告白されるとするじゃん。そのとき相手のことなにも知らなかったら告白されても戸惑うだけでしょう」

「私、告白なんてされたことないし、自分からもしないよ」

「たとえばの話でしょ。全然知らない相手に告白されても困るじゃない。でも相手の好きなものや興味があるものを知っていたら、もっとハードルは低くなると思うのよね」

「──」

「この展覧会の招待券でも持って行けば? 興味があったらどうぞって」

「そんなの無理だよ」

「あははは。今の月子じゃまだ無理ね。でも招待券は持って行っていいよ」

「ありがとう。前のクラスの子に渡す。お姉さんが観に行きたいって言ってたんだって」


 そう言いながら想像する。


 もしも快に話しかけたらどんな顔をするだろう。美術にも興味があるとしたら、どんな会話が出来るだろう。もしも一緒に展覧会を観たら──そこまで思ったとき、それ以上の想像は打ち消した。


 快にはあんなに可愛い笑顔を見せる彼女が居るんだから。

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