第3話 展覧会

 授業も始まり、その合間に身体測定や連休明けの遠足の組み分けなどもあって、慌ただしく日々は過ぎていった。

 月子は後ろの席になった子と親しくなり、一緒に居ることが増えたが、彼女はどちらかというとアウトドア派で、絵には興味はなさそうだ。

 財布の中には郁美からもらった展覧会の招待券が数枚眠ったままだった。


 朝のバスの中では、今まで通り快の声を背中で聞く。

 同じクラスになってもプリントが配られたときに快が後ろを振り返るくらいで、特に接点は増えなかった。


 二学期になれば席替えがある。そしたら快とは離れて、きっとそれきり会話をしないクラスメイトになるんだろう。そんなふうに思っていた。


 美術館で展覧会が始まると、母の帰りはいつも以上に遅くなっていた。

 月子は母の分の夕食も作り、レンジに入れておく。

 宿題をしていると帰ってきて、慌ただしく食事をすると部屋で作業をしているようだ。


 企画展の担当者は、講演をしたりテレビや新聞雑誌の取材を受けたりと、ある意味雑用が増える。

 それでいて次の展覧会のテーマも考えなければならないし、自分の研究論文も進めなくてはいけないから大変だと、いつも傍で見ていて思う。


 連休に入った初日、部屋の掃除を済ませ、図書館に行こうとした月子のスマホに電話が掛かってきた。母からだ。


「ごめん! 忘れ物しちゃったの。パソコンにUSBが刺さってると思うんだけど、持ってきてくれる?」

 母の部屋のデスクを見ると、確かにパソコンに刺さったままだった。


「グレーのUSBだね? じゃあ今から持って行くよ。お昼は食べに出られそうなの?」

「うーん、厳しそう」

「そしたらお弁当も適当に買って持ってく」

「サンキュー、助かる。ごめんね」


 近所の図書館に行くつもりだったのでラフな格好だったけれど、電車に乗って美術館に行くのなら違う服を着るか……月子は明るいグリーンのワンピースに着替えて家を出た。

 オシャレにも関心を持ちなさいと、郁美に見立ててもらって買ったものだ。


 美術館は多くの人で賑わっていた。

 連休ともなると混雑するのは当然だが、これだと小さな作品は鑑賞者も満足に観ることが出来ないかもしれないと思いながら、受付に声を掛ける。

 事務所にどうぞと言われたので、スタッフ専用の入口から事務所に向かった。


「お母さん、持ってきたよ」

 事務所に入ってすぐの席でパソコンに向かっていた母の栄子は、月子に気づくとホッとした表情を見せた。


「ありがとうー! ほんっと助かった。鞄に入ってなくて焦ったよ」

「こっちはお弁当」

「サンキュー。やっぱり食べに出られなそうだから有り難いわ」

「月子ちゃん、いつもご苦労さん」

 館長に声を掛けられ、頭を下げる。郁美も月子に気づき、

「お。やっぱりそのワンピース似合ってるじゃん」と言ってきた。


「まだ着慣れないけど」

「そんなことないよ。ちゃんと着こなせてるって」

 そう言われると少し自信がつき、笑顔になることが出来た。


 帰りは展示室を通ってみた。オープン前に観るのとは、やっぱり雰囲気が全然違う。ターナーの絵の前には多くの人が居て、それぞれ自分の感覚で作品を楽しんでいるようだ。


 美術館を出て駅に向かおうとしたとき、向こうから快が歩いてくるのが見えた。隣には彼女が居る。快も月子に気づいた。


「もう観てきたの?」と、声を掛けられて月子は思わず頷いた。

「誰?」

 彼女が月子を見てから快に聞く。


「同じクラスの上原。趣味が美術鑑賞なんだよ」

「ふぅん」


 彼女の品定めするような視線がちょっと怖かった。快に見せる可愛い笑顔はそこにはない。

 ぺこりと頭を下げ、そのまま立ち去ろうとしたとき思い出した。

 どうしよう。でも──月子は勇気を出して快に声を掛けた。


「チケットはもう買ってあります?」

「いや、これから」

「そしたら招待券持ってるので……」

 そう言いながら月子は鞄から財布を出すと、招待券を二枚快に渡した。


「すげー。いいの? なんで持ってんの?」

「お母さんが此処で働いてて」

「まじか。サンキュー」

 快は受け取った一枚を彼女に渡した。


「ありがとう」

 彼女も月子にお礼を言うと、快の腕に自分の腕を絡めた。


「じゃあ。楽しんできてください」

 月子はそれだけ言うと、足早に駅に向かった。


 心臓がまだバクバク言っている。快と会えた驚きと、招待券を渡せた嬉しさと、彼女と一緒だった寂しさがごちゃ混ぜになっている。


 でも、休日の快に会えた。

 制服とは違う姿。透かし編みのざっくりとしたカーディガン姿がとても垢抜けていた。

 彼女もニットのミニスカートを着こなしていて大人っぽくてお洒落だった。お似合いの二人だなと改めて感じて現実を知る。


 このあとは図書館に行こうと思っていたが、なんとなく足は駅ビルに向かう。

 ファッションフロアをうろうろして、そこにいる人たちの服装を見ていた。月子が普段着ている服とは何が違うのだろう。

 本屋にも立ち寄って、初めてファッション雑誌を買って帰った。


 一週間の着回しコーデなるページをめくり、自分のクローゼットにある服と比べてみると、持っているものはいわゆる定番アイテムばかりだった。

 もうちょっとちがうデザインの服も買ってみようか──彼女の服を思い出して、そんなことを思った。


 *


 学校の休みはカレンダー通りだったので、五月一日は授業があった。

 いつものようにスクールバスに乗り、吊り革につかまると、隣に男子生徒が立った。


「おはよ」

 と、いつもバスの中で聞いている心地良い声。見上げると快が月子を見ていた。


「お……おはようございます。あれ。いつも友達と一緒じゃ……」

「ああ。あいつは休み。家族旅行だってさ。上原さんもいつもこのバスだよね」

「はい」

 気づいていたのだと思うと胸がきゅっと鳴る。


「展覧会のチケットありがとな。お母さん、美術館に勤めてるんだ」

「はい。今回の展覧会の担当なんです」

「え、そうなの。すごいじゃん。そっか、だから展覧会も良く行くんだ」

 快の問いかけに月子は頷く。


「小さい頃からいろいろ連れて行ってもらってました。あの、どうでした? 展覧会」

「面白かったよ。オレ、写真撮ってるから構図なんかも勉強になる。ターナーの絵も綺麗だったな。あんな光の写真が撮れたら楽しいだろうな」


「今は旅雑誌なんかに、その土地の風景写真が載りますよね。ターナーの生きた十九世紀にカメラって発明されたけど、まだそんな使い方はされてなかったから、絵画が写真のような役割を果たしてて。

 ターナーはそんな風景画を描く仕事をデビュー当時はしてたって聞きました。なのでターナーの初期の作品って純粋な風景画が多くて、そののち──」


 快が楽しそうに月子を見ているのに気づいて口を閉じた。

「すごいね。さすが詳しい」


 快が楽しそうに展覧会の感想を言ってくれたので、こちらも嬉しくてつい饒舌になってしまった。


「ごめんなさい」

「なんで謝るの。それになんで敬語なわけ?」

「え……なんでだろう」

 月子の返答に快は笑った。優しい笑顔だと思った。


「でもそうやって話を聞きながら作品観たら、もっと楽しかっただろうな」

「彼女さんも絵や写真が好きなんですか?」

「あ、あいつ? いや全然。あの日はオレが無理矢理付き合わせたんだ。ほんとは映画観たかったのにって言われてたんだけどね」

「そうですか」

「上原さん、そんなに美術が好きなのに選択科目は美術じゃないんだな」

「音楽にしました。絵は好きなんだけど、小さい頃から描く方のセンスは無くて。授業だと描かされるでしょう。池端くんは美術ですか?」

「そう。写真の勉強になるかなって思ってさ。油絵もどんな感じか試してみたかったし」

「構図とか、光の当たり方とか、参考になりそうですもんね」

「だから、敬語、可笑しいって」

 また笑われて頬が赤くなる。


 バスが学校の停留所に入った。降りたあとも快は月子の隣を歩いている。心臓の鼓動が速くて苦しい。


「お母さんが美術館に居ると、他の美術館の招待券が手に入ったりするの?」

「え? ああ。送ってくれるところと、そうじゃないところはあるみたい……」

「です」を付けようとして、無理矢理止めて答えた。


「今、ソール・ライターの展覧会やってるんだけど、もし招待券がもらえたら有り難いな」


 そっか。こんなに話してくれたのは、それが目的だったのか。


「渋谷でやってるよね。あそこなら多分送ってくれてると思う。聞いてみるね」

「一枚でいいんだ。ごめんな」

「ううん」


 教室までの階段を上る。月子は快の少し後ろに下がった。一緒に登校してきたと思われると快に申し訳ない。

 席に着いたとき、快が小さい声で言った。


「あの日の上原さん、学校に居るときの雰囲気とは違ったじゃん。あいつにちょっと嫉妬されたんだよね」

「え?」

「親しい間柄に見えたみたい」

「そんなわけないのに。ちゃんと否定しました?」

「うん、まあね」


 快はそう言うと席に鞄を置き、既に登校している男子生徒のグループに入っていった。

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