好きな絵の前で

七迦寧巴

第1話 バスの中での片思い

 高校生になって利用するようになったスクールバス。JRの駅前から学校まで運行している。

 そこで毎朝同じバスに乗る池端いけはたかいという隣のクラスの男子に月子つきこは恋をした。

 多分六月。雨の日だったことだけは覚えている。

 生徒たちが持っている傘が濡れていて、バスの中もじっとり湿って淀んだ空気だった。隣に立っている生徒の傘が制服になるべく付かないように、自分の傘も相手に当てないように気を遣っているだけで疲れた。


 そんななかで耳に心地良く響いてきた声の持ち主がかいだった。

 友達と会話をしているその声は、ベースの音のように低く落ち着いていて、月子の心にひとときの安らぎを与えてくれた。


 どんな人なんだろう。

 確かめたい気持ちが湧いてくるが、声が聞こえてくるのは背中から。ちょうど月子の後ろに立っているようだ。


 学校に到着してバスを降りるとき、横顔を盗み見た。

 背は月子よりも二十センチくらいは高いだろう。鼻筋の通った涼しげな顔立ちだった。ブレザーに付けている校章は青色だったので、月子と同じ一年生だ。


 校舎に入ったとき隣のクラスの生徒だと分かり、それからしばらくして池端いけはたかいという名前を知った。

 学校内での接点はなく、あるのは登校するバスの中だけ。それでも近くに立てば快の声が聞こえてくる。

 友達との会話はネット動画の話題が殆どで、月子の知らない内容だったが、楽しそうな声を聞くだけで心地良かった。


 夏休みが明けた頃、快に彼女が出来たことを会話から知った。

 ショックがないと言えば嘘になるが、そもそも月子は快とは面識が無い。

 それに月子は目を引くような容姿もしていない。クラスの中でも目立たない存在だ。気軽に会話できるような男子生徒も居らず、月子と同じく目立たない数人の女子とグループを作っていた。


 こんな自分に快が振り返るはずもないと分かってはいるが、彼女がどんな人なのか気になった。

 下校時、隣のクラスをさりげなくチェックしていると、快が女子生徒と一緒に教室から出てきた。


 肩までの栗色の髪は軽くウェーブがかかっていて軽やかだ。メイクもおそらくしているのだろう。睫毛も長く愛らしい。

 体育の時間は隣のクラスと一緒になるので、もちろん顔は知っている。ころころと楽しそうに笑う人という印象だった。月子とはまるで違うタイプの女子。


 たぶんこの人が池端くんの彼女なのだろうと、月子は思った。二人は寄り添うように教室を出て階段を下りていった。

 それからちょくちょく二人が一緒に帰っていくのを見かけた。

 朝のスクールバスに彼女が乗ってくる気配はないので、彼女の家は月子や快とは違う鉄道を使うところにあるのだろう。


 月子が快と近づくことはない。しかし朝のスクールバスの中だけは、背中から聞こえる快の声を楽しむことが出来る。

 それで満足しなくちゃいけない、そう思っていた。


 *


「なんか悲劇のヒロインを気取ってるように見えちゃうけどね」


 そう月子に言ったのは郁美いくみ。母の同僚だ。

 彼女は都内の美術館で学芸員をしている。母の栄子えいこも同じく学芸員で、現在は半年後に開催予定の展覧会のためにイギリスに出張中だ。

 父は北海道に単身赴任中。栄子が家に居ないときは、郁美がちょくちょく月子と夕食を共にしてくれる。


 小学生の頃から月子の遊び相手をしてくれていたので、母には話せないことも郁美には話せた。淡い恋の話も。郁美の口が堅いことを信用してのことだ。


「別に悲劇のヒロインなんて気取ってないよ」

 月子は餃子を口に運びながら反論した。


「そう? なーんにもしないで自分を哀れんでない?」

「だって仕方ないじゃない。クラスは違うし、友達でもないし、あっちには彼女も居るし、私なんてこんな容姿だし、取り柄もこれといってないし」

「すごいね。言い訳だけはポンポン出てくるんだ」

「言い訳じゃないよ。ホントのことじゃん」


「クラスが違うことや、友達じゃないこと、彼女が居ることは今は仕方ないとして、綺麗になる努力もしないで何言ってんの」

「郁美さんみたいな綺麗な人には分からないよ」

「私は綺麗でいようと努力してますから」


 郁美はそう言うと、にこっと少し意地悪な笑みをした。


「月子はまず、その表情を変えないと。私には感情をちゃんと出してまっすぐ目を見てくれるけど、どうせ他の子の前ではうつむき加減で目も合わせないんでしょう」

「だって……」


 月子は目が悪く、眼鏡をかけている。軽いフレームを使っているが、視力が悪いので度の強い眼鏡だ。そのためレンズは厚い。どうしても恥ずかしさを感じてしまう。

 郁美は溜息をついた。


「栄子もねぇ、アートの美は追究するのに自分の娘の美にはちょっと無頓着なのよねぇ」

 そう言いながら郁美は月子の眼鏡をそっと外す。


「高校生なんだから、もうコンタクトをしてもいいでしょ。眼鏡よりも視界が開けるよ」

 コンタクトはしてみたいと思っていた。母にも聞いたことはあるが

「そうね。そのうち眼科に行こっか」と言っただけで、まだ連れて行ってもらえていない。どうしても仕事を優先されてしまうのだった。


 そのことを郁美に話すと、月子の頭をくしゃくしゃと搔き撫でて

「じゃあ私と一緒に行こう。栄子には連絡してあげる」と言ってくれた。


「いつまでも内向きじゃ楽しくないよ。それに取り柄だっていっぱいあるじゃない。月子の芸術知識はそこらへんの高校生のレベルじゃないと思うよ」

「それは郁美さんやお母さんの影響を受けてるだけだよ」

「それもじゅうぶん立派な取り柄だってば。知的な月子は素敵だよ」


 そんな取り柄、全然役に立たないよ。月子は心の中で思う。

 そんな知識を披露できる場所、高校にはないのだから。


 それでも郁美に連れられ、処方してもらったコンタクトレンズを装着したとき、視界が本当に明るくなったことを感じた。


 小さい頃から眼鏡をかけていたので、初めて眼鏡をしていない自分の顔がクッキリ見えたときは戸惑い、恥ずかしさがこみ上げた。

 自分はこんな顔をしていたのか。


 確かに郁美が言うように、表情は乏しく、どちらかというと暗い。これじゃ男の子の友達も出来ないはずだと自分でも思った。


 帰国した母は相変わらず忙しそうにしていたが、今回の展覧会企画担当ではない郁美は、たびたび月子の家に来て肌の手入れ方法や髪型のアドバイスもしてくれた。

 いつも一緒に居る友達に「上原うえはらさん、雰囲気が変わったね」と言われたときは少し嬉しかった。


 朝のスクールバスの中では相変わらずかいの声を聞くだけだったが、それでもちょっとだけ背筋をピンと伸ばして快の声を聞いているのが心地良かった。


 春休みが終わり、高校二年になった。


 一階のエントランスに貼り出されたクラス替えの表を見たとき、心臓が一瞬停まった。


 同じクラスの表に池端いけはたかいという名前を見つけたからだ。

 月子は文系を選択したが、快も文系を選択していたということだ。

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