おっぱいが好きなのは悪いことですか?

冬寂ましろ

* * * * *


 ぜんぜん頭に入らない数学の授業を終えて、次は英語の退屈なヒアリングというとき、僕は中学生活最大のピンチを迎えていた。


 「なんでチサトの胸をずっと見てたのか聞いてんだよ! 返事しろよ、このキモクズ!」


 怒り狂っているキザキを僕は恐怖で見つめていた。

 喧嘩ばかりしているキザキにからまられるのは、誰でも避けようとしていた。だから、こうして耳をビリビリとさせる怒鳴り声が響いても、みんなは視線をこちらに向けるだけで、動こうとしなかった。


 「授業中、ずっと見てただろ。わかってんだぞ! 無視すんな!」


 怒鳴られて固まっていた僕を、キザキは平手で叩いた。そのまま大きな音をたてて、椅子ごと冷たい床に倒れた。

 キザキが近づいてくる。また殴られるかと思って、とっさに顔を腕で隠す。


 椅子を引く音がした。次は椅子で叩かれるかもしれない。恐る恐る見ると、隣の席にいたチサトさんが立ち上がり、キザキへ困ったように声をあげていた。


 「ちょっと、止めなよ。もういいって……」

 「ダメだろ。チサトは甘すぎだよ」

 「いいからさ……」


 キザキが僕の足を思い切り蹴る。鋭い痛みが僕の体を小さくさせる。


 「なんか言えよ。これじゃ私が悪者かよ」


 言ったらまた蹴られる。言わなくても蹴られる。

 僕はどうしたらいいのかわからなくなって、頭のなかをぐるぐるとさせる。


 「なんか言えって! キモ男!」

 「その……」

 「なんでチサトの胸を見てたかって、こっちは聞いてんだよ。答えろよ」


 僕はどうか聞こえないようにと祈りながらつぶやいた。


 「おっぱいに触りたかったから……」


 キザキから変な叫びが出た。獣がうなるような、気が狂った人の声のような。

 キザキが馬乗りになる。力いっぱい僕の顔を殴る。目に電気が走る。何度も……。


 「もう止めて」


 チサトさんがキザキを抑えようと肩をつかむ。けれど、キザキはそれを振り払って、僕を殴り続けた。


 教室の引き戸を引くガラガラという音が、殴られる合間に聞こえた。


 「おい、何してんだ、お前ら!」


 英語のワタベ先生の低い声がした。

 ふうふうと息を切らせながら、キザキがゆっくりと僕から離れていく。

 それから先生の方に向くと、正しい声で正しく言った。


 「私は間違っていません。チサトを変な目で見るこのクソキモが悪いんです」

 「だからといって暴力はよくないだろ?」

 「殴らないとわかりませんよ、こんな変態。いまのうちに叩き直すのがこいつのためです」


 先生は少し黙ったあと、倒れたままでいた僕へ励ますように声をかける。


 「アヤサキ、お前男だろ。女のキザキに殴られて恥ずかしくないのか?」


 誰かがくすりと笑った。


 僕は、この世界から消えてしまいたくなった。

 早く消えたい。一刻も早く……。


 ふいにチサトさんが手を上げる。


 「先生。アヤサキ君を保健室に連れて行きたいんですが……」


 キザキが「はあ?」と声をあげる。それを無視するように先生は言う。


 「ああ、いいぞ。ぶーぶー言うなキザキ。お前はちゃんと授業受けろ。これでこの件はおしまいだ。ほら、席に着け」


 チサトさんが僕の腕をつかむと、ゆっくりと引き起こしてくれた。


 「いこ」


 椅子を戻しながら、彼女は僕を見ずに短くそう言った。




 少し暑い春の陽射しを浴びながら廊下を歩いていく。光が僕らの影を作る。動くそれを僕は見ていた。

 僕の体とチサトさんの体は似ている。身長もそう変わらない。変わらないのに……。


 前を歩くチサトさんが僕のほうへ振り向いた。


 「ごめん。キザキは悪い奴じゃなくてさ。ええと……。あんまりおおごとにしてもらわないでくれる?」


 チサトさんは僕より友達を助けたいだけだった。急に泥の中を泳いでいるような気分になる。


 僕は「うん……」と言うのが精一杯だった。


 保健室の扉をチサトさんが開ける。ふわりと消毒液の少し甘い匂いが流れてきた。


 「あれ、先生いないや。中に入って待ってなよ」


 チサトさんはもう役目は終えたのだろう。帰ろうとしていた。

 僕はあわててお願いをした。


 「……ごめん。教室からかばんを持ってきてくれる?」

 「いいけど。でもさ、さっきのこと、誰にも言わないでね」

 「うん」


 チサトさんの長い髪がひるがえる。僕はそれをうつむいたまま見送った。


 しばらくしてチサトさんは「はい」とベットに座っていた僕にかばんを渡した。僕は「ありがと」とだけつぶやいてかばんを握り締める。ガラガラと戸が閉まる音がしてもそのままでいた。


 それから僕は誰にも言わず、学校を出た。




 ふらふらと街の中を歩く。川沿いの桜並木はすっかり花を散らし、薄い緑の芽を開かせていた。今日は陽射しが厚く、通り過ぎる人も薄着が目立つ。

 女の人とすれ違う。胸にどうしても目が行ってしまう。


 どんな形をしているのだろう。

 どんな触りごごちをしているのだろう。

 どんな……。


 僕はそれを知りたかった。でも、きっと誰も教えてくれない。

 じろじろ見ていた僕を怪訝そうににらみつけて、Tシャツに胸の形がくっきりとわかる女の人が過ぎ去った。





 通販の品物を郵便局留めにして買えることに気がついたのは、ほんの1か月前だった。僕はどきどきしながらそれをした。今日届くとメールが来ていて、どのみち学校を早く抜け出すつもりでいた。

 商店街の中にある小さな郵便局で恐々と荷物を受けると、僕はそれをしっかりと抱きしめて街を駆けていった。

 今日は夜勤で母の帰りは遅い。今日を逃すと次がいつにならないかわからない。

 僕は古いマンションの古い鉄の扉をゆっくりと開ける。誰もいないことに安心する。暗い部屋を歩く。自分の身長ぐらいある姿見を母の部屋から居間の真ん中に置く。


 急がなきゃ……。


 僕は学生服を脱ぎ始めた。震える指先で学ランのボタンを外していく。それを脱ぎ捨てると床から重い音がした。焦る心を抑えながらワイシャツを脱いでいく。中の少し汗ばんだシャツをえいっと脱ぐと、鏡に貧相な僕の体が映し出された。


 少し屈んで、そばに置いといた包みを開ける。

 中にあったピンク色の袋も開ける。

 入っていったものを取り出す。


 小さなブラ。

 それは薄い水色で、レースでできた花が覆っている。かわいいなって僕は思った。


 肩紐のアジャスターを少し伸ばして、腕に通す。

 無い胸を寄せるようにして、カップをかぶせる。

 後ろに手を回して、少し苦労しながらフックをかける。


 できた……。


 下を見る。ブラと胸の間がすかすかしていた。

 僕はなんだか馬鹿らしくなって思わず笑ってしまった。

 かばんにあったハンカチを詰めて、少しでも膨らませる。


 それから脱ぎ捨てたワイシャツをもう一度着た。


 姿見に自分の姿を映し出す。

 胸のラインがしっかりと出ていた。

 ボタンをはめていないから、ちらちらと白い布地の間からブラが見える。女の人もこうなるのかな……。


 ブラをワイシャツ越しに両手で抱える。

 じんわりとした安心感がある。なんだか泣きそうになる。

 本来あったものがあるように思う。失くしたものがここにある感じがする。


 なんでそう思うのだろう……。

 自分でも良くわからない。

 よくわからなすぎて死にそうになる。


 顔を上げた。


 殴られて腫れた顔が鏡に映る。

 男の顔。

 男の肩。

 男の指先。


 気持ち悪い……。


 その想いは日々重なるように募っていた。


 いまこの場にピストルがあれば、僕は躊躇なく引き金を引くだろう。

 いまこの場に縄があれば、僕は躊躇なく首を吊るだろう。


 こんな変態……。


 「早く消えてなくなりたい……」


 僕は鏡に映る自分をにらみつけながら、そう静かにつぶやいた。





 次の日、学校に行くとキザキがいなかった。

 一限目の授業を終えても来なかったので、思わずチサトさんの顔を見ると、少しだるそうに教えてくれた。


 「自分で親に言っちゃったぽくてさ。ほとぼり冷めるまで休むって。ほら、キザキの家って、なんとかの議員やってて。だから厳しくて」


 何かが抜けるようにチサトさんがため息をつく。


 「正義マンにも困るね。いい奴なんだけどな」


 そう言うと何か面白いものを見つけたように僕へたずねた。


 「ねえ、昼にちょっと屋上行かない? アヤサキ君とちょっと話したいんだ」

 「……鍵は? だって先生が……」


 ブレザーのポケットに手をつっこむと、そこから銀色に輝く鍵を取り出した。チサトさんはそれをつまんで僕へと見せつける。


 「たまにキザキと行ってるから」


 いたずらっ子のように、僕へ笑った。




 屋上にはおだやかな風が吹いていた。陽射しは熱く感じるけれど、風がそれを追い出していた。

 少し熱を帯びたコンクリの床をチサトさんが歩いていく。


 「あんまりフェンスのほうに行かないでね。下から見つかるから」


 僕はそれにうなづいて、後を追いかけるように歩いていく。


 真ん中ぐらいにたどりつくと、チサトさんは髪を押さえながら僕へ振り向いた。


 「でさ。アヤサキ君は女の子なの?」


 え……。


 「昨日は、あのまま教室にいられなくてさ。みんななんか言いたそうだったし。そのままお腹痛いって嘘ついて帰ったら、アヤサキ君が郵便局から出てくるの見ちゃった」


 僕は答えに困った。


 「持ってたあの袋、下着通販とこのだよね。私も買ってるんだ。だから中身が何かはわかって……」


 答えないといけなかった。でも、僕は言葉をうまく選べないまま叫んだ。


 「僕は! 僕は……。ただの変態だから……」


 もうだめなのだろう。

 横を振り向いてフェンスを見る。登れるだろうか。それとも駅から……。


 「待って」


 チサトさんはあわてて僕に駆け寄り、避けようとした腕をつかんだ。


 「変態じゃないよ。あんなに大事そうに抱えていたし」

 「でも……」

 「下着を悪いことに使う人がいるのもわかってる。でも、アヤサキ君は違うと思う」


 チサトさんが僕にやさしく触れる。片方の手で握り、片方の手で撫でる。僕を安心させるように、何度も……。


 「おっぱいってさ。大きいのとか、小さいのとか。いろんな形があるよ。アヤサキ君は見たことある?」

 「あまり……」

 「私のも最近大きくなってきちゃって。お母さんも大きいほうだから、遺伝したのかな」

 「その……」

 「いつも胸を見られているよ。視線が下がるの、まるわかり。でもさ。それにふふんって思うんだ。なんていうの。ちょっと誇らしげ? 優越感? ほら、私もきっと変態なんだよ」

 「えっと……」


 チサトさんが僕の手を両手で包むように握りしめる。


 「おっぱい、好き?」


 僕はうつむく。


 「ねえ、触ってどうしたいの?」


 チサトさんが僕をのぞき込むように言う。


 「正直に言いなよ」


 僕は言えなかった。

 でも、言わないと、この手を離してもらえそうになかった。だから、言うしかなかった。


 「……どんな感触なのか、本物に触りたかった。僕にはないものだから……」


 チサトさんは、それを聞くとにんまりと笑った。

 その顔はとても女の子だった。


 「触りたい?」

 「……うん」


 どうにか出せた言葉にチサトさんは、くすくすと笑う。


 「もう。男のくせに、はにかむのって、なんかかわいいな」


 右手をつかまれる。


 「ほら」


 彼女の胸に当てられる。


 「どう?」


 手を引っ込めようとしたけれど、なぜだかできなかった。

 指先をかすかに押し下げる。

 それはすこしごわっとしていた。何か厚いものがある感触がした。


 「……固い」

 「ブラ越しだもん。そんなものだよ」


 チサトさんは、上から自分の手を重ねて、僕の手にぐにぐにと胸を揉ませる。


 「こんなのは、ただの脂肪の塊だよ。詰まっているのは夢じゃない。おっぱいに幻想見るな。そういうこと」


 彼女はやさしく笑いかけた。

 それはなんだかとても僕を安心させた。


 「アヤサキ君は学校に来てね。そうじゃないと寂しいし」


 彼女はそう言うと、僕の手を引いて歩き出す。

 とても楽しそうだった。すごく嬉しそうだった。

 ふたりだけの秘密を共有したのだから、きっとそのことがチサトさんの心を楽しくさせたのだろう。

 それはさっき言ってた優越感かもしれない。もしかしたら好意とも言えるかもしれない。


 僕はそれにとまどった。僕は女の子になりたかったから。




 次の日から学校に行けなくなった。

 学生服の詰襟、馴染めない人の輪、理解されない想い。そしてチサトさんに思う罪悪感……。


 もういろいろ無理だった。


 母は先生たちと話したり、カウンセラーに会ったり、あれこれ手を尽くしたけれど、結局さじを投げた。


 助けてくれたのは僕よりずっと大人の人達だった。

 僕と同じ胸がないことにとまどっていた人、それでも生きていくことを選択した人。そのことをそっと見守っている人たち。


 僕はそうして、いろいろなものから離れていった。




 いま、僕の胸にはおっぱいがある。少し乳房が離れていて、乳首の形も違うけど、一応Eカップはある。

 たゆんたゆんと揺れないし、何かを挟むこともできない。

 それでも胸に感じる重さに、僕は普通を感じる。いつまで経ってもそれが自然にしか思えない。

 気が狂ってると人が思っても、僕はこれが好きだ。僕のたいせつな一部分だ。


 ブラ越しに胸を触る。固いしっかりとした感触がした。あの日と同じように手先が感じる。


 思い出すことを、チサトさんは許してくれるだろうか。

 あの少し暑かった日を。

 あの感触を。

 あのどうにもならない想いを。


 僕は自分の胸を抱きながら、ずっとあの日に謝り続けている。

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