エピローグ:五年後の春
すっかり桜の時期も過ぎた暖かい日。海太くんの引っ越しが行われた。
軽トラックに冷蔵庫が一台と、大きめのバッグが一つきり。あとは出しそびれたらしいゴミ袋だけだったが。
「こんだけ?」
上が冷凍庫、下が冷蔵庫。いわゆる一人暮らし用のシンプルなもので、彼にはもう必要ないはず。
「捨てても
「くれるん? 置いてもええんかな」
「こんぐらい、ええに決まっとる」
そのまますぐ、プレハブの休憩室へ運んだ。今は僕の私室になった、電気製品というとノートパソコンくらいの何もない部屋。
海太くんが泊まる時は、代わりに僕の与えられていた和室へ。これからは毎日、泊まるでなく住む。
「譲さんも母屋に
彼を迎えに行ったこのみさんは、助手席に乗って戻った。というかまだ乗ったまま、手もとで何やらやっていた。
「夜中に突然閃いて、ゴソゴソしだすことがあるんで。迷惑なですよ」
「気にせんでええのに」
「それこそ完成したら、あっちへ行きますんで」
プレハブを挟み、母屋と反対にある建物を指さした。以前はなかった、丸太小屋風の二階建て。下が木工工房で、上は僕の住居になる。
海太くんが休みの日に畑仕事の合間を見て、輝一さんと三人で造っているけれど。まだ一年ほどもかかるだろう。
「なんか寂しいです」
太い眉を怒らせ、ぷうっと頬が膨らむ。ここ一、二年、僕と話す時によく見る顔。
ついでにこういう時、海太くんが突っかかってくるのも定番だ。
「ほしたら、来月にゃあ引っ越しじゃなあ」
「えっ。そうなん?」
「俺、
「ひどっ」
言い返したものの、間違ってはいない。以前と変わらずに畑仕事を手伝い、輝一さんの経営に無責任な口を出す。
強いて言うならコンサルタントみたいなものだが、実績もなしに自称するほど厚かましくなれない。
「ほうよ、海太ちゃん。二人とも頑張っとるのに、無職とか言わんの」
頑張って、いるだろうか。
あれから五年。ズルズル居座り続けている、というのが自分の印象だ。
お客さんに栗拾いをしてもらうのを始めた。ハーブ栽培を広げ、匂い袋やハーブオイルの作成体験も人気が出てきた。
ただ僕がやるのは運用開始までの準備と、ウェブサイトの管理に留まる。忙しい時には手伝うが、あくまでもお手伝いに過ぎない。
「へえへえ。そりゃええが、まだできんのんか?」
反省の”は”の字もない苦笑で、海太くんは助手席へ首を突っ込む。
「紐の長さがうまいこと——あっ!」
このみさんの小さな悲鳴。作業していた物が、彼の手に奪われた。薄く、四角い何か。
「
たぶん間違いない。賞状を入れるような、立派な木枠の。
「ほうよ。入れて飾っとくいうて、恥ずかしい」
「もう海太ちゃん、返しんさい!」
さっと軽トラックから離れた彼と、腕を振り上げて追う彼女。僕をパイロンに三周して、プレハブの裏へ走り去る。
途中、「パス」と。件の額が僕の手に押し付けられた。
なんだろう。なんてまじまじ見る必要もなく、ひと目で婚姻届と分かる。
夫の欄には海太くん。妻の欄にはこのみさん。それぞれの名前に、きちんと印鑑も押してあった。
こんな大事な物を渡されても。
驚いたが、よく見るとカラーコピーのようだ。どのみち記念の品だろうが、少し気楽になった。
「もう出してきたんかな——」
今日の日付けもあるし、おそらく間違いない。
胸の奥底、深いところへ穴が空いた。鼻がツンとして、じわり視界も滲む。
この気持ち、
目もとを拭い、ふと気づく。
結婚後に名乗る
「なるほど」
何が、どう、なるほどなのか。はっきり思い浮かべることもできたが、考えないでおいた。
このみさんと海太くんと、それぞれの覚悟を僕などが語れない。
顔を洗い、ついでに額も磨く。そのうちやっと、所有者が帰ってきた。
「入籍したんですねえ」
返すのは、もちろんこのみさんに。しかし答えたのは海太くんだった。
「言うとったじゃろ」
「そろそろどうかねえ、みたいな話は聞いたけど。いきなり今日、届けぇしてくるとは思うとらんかったよ。まあ、輝一さんと久嬉代さんには言うとるんじゃろ?」
二人が同時に、「いや」「いえ」と首を振る。
「えっ、えっ。大丈夫なん?」
たしか、この間の日曜日。六日前のこと。夕食の席で、海太くんが輝一さんにビールを注ぎながら。
返事は「二人ぃ任しとるけえ」で終わり、その話題も続かなかった。
そんな会話、来年には結婚しとるんかなあとしか思わない。
「いちいち大げさにするまあ、言うたんよ。先ぃ言うたら面倒じゃろ、どこぞのオッサンとか譲さんとか『お祝いです』いうて言い出すけえ」
「それ、どっちも僕じゃねえ」
僕が彼女を好きだったと知っているのは、海太くんだけ。たぶん彼も、誰にも言っていない。
だから祝われるのが面倒とは本心と思う。みんなの誕生日や記念日には、プレゼントとパーティーを企画してきた実績がある。
「このみさんは、ええんです?」
「うーん、隠しごとみたあにされたら嫌ですけど。この額、海太ちゃんが作ってきてくれたんで」
ふわっと笑って、額の裏を見せてくれた。安い圧縮材でなく、無垢の板だ。自慢げなのはたぶん、彫りこまれた今日の日付けだろう。
「バカ、このみ。言うないうて言うたじゃろ」
「バカじゃなあもん。譲さんには隠しごとせんのじゃもん」
ね、と。今度は楽しそうに、頬を膨らませて見せる。僕にだ。
「なんや、俺には隠しごとするいうことか」
「するわいね。何でも言いよったら、海太ちゃんにからかわれるけえ」
「なっ。そんなんするわけなあじゃろ」
なあ、と。鋭い眼が同意を求める。
ごめん海太くん、それには頷けない。聞こえなかったふりで目を逸らした先、輝一さんと久嬉代さんが畑から戻ってくるのが見えた。
他に四人の男女を引き連れて。
「ああ、そうじゃ。今日は結婚記念のお祝いしょう。茂部さんも一緒に」
「せん、言うとるじゃろ」
四人のうち二人は、農業体験を申し込んだお客さんだ。残る二人が、毎日来てもらっている茂部さん夫婦。
事業を広げる話の中、茂部ストアのおばあちゃんが孫夫婦を売り込んできた。街から移り住んでくれれば、寂しくないと。
講師役になるため、今はお客さんと一緒に体験にも参加の身。
「なぁにを騒ぎよるんな」
お客さんを見送った輝一さんの渋い顔。聞こえていたらしい。
しかし構わず、このみさんが額を手渡した。
筋肉隆々。プロレスラーと言われれば疑わない父親は、飾り気のない書類のコピーを見下ろす。
誰も黙ったまま二、三分。渋い顔の輝一さんは、眉間のシワをより深くした。
丁寧な手つきで額の上下を回転させると、そっと娘の手に返す。それから土で汚れた大きな手が、同じく娘の頭をゴシゴシ撫でる。
「まあ、あれよ。なんちゅうか……」
海太くんには、胸へ拳を当てて押した。最後の言葉がなかなか出てこなくて、終いに背を向ける。
母屋の玄関へ向かうのを、不安そうに追う海太くんの視線が新鮮だった。「頼むわ」と聞こえて、二つに折れるくらいのお辞儀も。
「なんか寂しいねえ」
久嬉代さんが言ったのは、輝一さんが見えなくなってから。汗拭きのタオルで両目を拭き、大きなため息を吐く。
「なんで泣くん、ずっと一緒じゃのに。変なお母さんじゃね」
夫に倣ってお辞儀をしたこのみさんが、久嬉代さんに抱きついた。変だと笑う声に嗚咽が混じる。
「違うんよ。なんかね、寂しいけど嬉しいんよ」
「うん、あたしも同んなじかもしれん」
母娘が互いに、強く抱きしめ合う。事情の分からない茂部さん夫婦も、もらい泣きだ。
「あ、あの、このみさんが海太くんと入籍して。今晩はお祝いしょう思うんですけど、お二人もどうですか」
「えっ、ええんですか」
「当たり前です。めでたいことも、祝ってくれる人が
かく言う僕も、声の震えるのを抑えられない。
寂しいけど嬉しい。久嬉代さんの言葉に、ああそうじゃと頷いた。悲しい気持ちなど、どう捜しても見つからない。
「おめでとうございます!」
茂部さん夫婦に交じって、祝いの言葉を張り上げた。山の上の、さらに高い空を突き抜く勢いで。
超現実体験型の農場を実現するには、まだまだ時間がかかる。でも一つずつ、僕達は確実に進む。僕が頑張っているのかは、やることが何もなくなってから考えよう。
そうだ、新しい看板を作ろう。どんなに遠くから訪れた人も、絶対に迷わない大きな看板を。
—— 僕の中から看板を取り出す方法 完結 ——
僕の中から看板を取り出す方法 須能 雪羽 @yuki_t
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