第42話:最後の仕事

 ちょっと屈めた腰を伸ばし、俯きぎみの視線を正面に戻す。厳かな儀式めいて、このみさんはゆっくりと振り向いた。


「そんなん、あたし言ったことなあですよ」


 眉根を寄せた、低く流れる声。

 退きかけた僕の足を、強引に前へ運ぶ。彼女の目の前まで。


「ええ、聞いたこたぁないです。じゃけえこれは、僕の想像です。この前の続きいうことですね、プレゼンの」

「なんでそんなこと」


 困惑、あるいは怒り。どちらにしても強い口調で、ありありと拒絶が伝わる。


「活喜ファームを賑やかにしょう、いうのに。このみさんのやる気がないなったら、どうもならんでしょ?」


 視線を合わせたまま、このみさんは唇を噛む。

 ひどく悪辣なことをしているような。いや事実としてそうか、と自身の厚顔無恥に苦笑した。


「失礼なこと言うとると思います。じゃけどこんな言いわけでもくっつけて聞かにゃあ、このみさんがほんまにしたいこと分からんのです」

「ほんまに、したあこと?」

「ですよ。あなたが幸せに、いっつも笑っとれるなら。僕はどんなことでもしょう思うとります」


 細めた目、左右に振れる首。

 もう聞きたくない、黙れと言われた気分だ。それでも気づかぬふりで、笑みを作る。

 しばらく。じっくりと昼食を楽しめるくらいの間、彼女は何か言いかけ、噤むのを繰り返す。


「なんでそんなこと、言うてくれるんですか」


 やがて、肯定に聞こえる言葉が搾り出された。

 このみさんの本心を量りかねてはないはず。しかし、だからと言って滅多やたらに実行すればいいものでもない。

 しょせんは押し売り。ため息と深呼吸を混ぜ、答える。


「そりゃあ僕を、お兄ちゃんみたい言うてくれたけえ。このみさんの、輝一さんや久嬉代さんの、大切な家族みたい言うてくれたけえ。そんな大役勤まるわけなあ・・ですけど、逆にほんまの兄貴ならできんことをやれるんかもですね」


 眼を見開き、「譲さん」と。僕の名がこぼれた。

 返事をするより先、彼女は深く俯く。それとも頷いたのか? 分からなくて、頭に浮かんだことをただ並べる。


「まあまあ、なんやかんや言いましたけど。結局は染みついた悪癖みたいなもんです。このみさんいう大看板をどうするか、いうね。もう二度とない思うたんですが、これが看板屋としてほんまに最後の仕事でしょう」


 どうでもいい僕の言葉に、このみさんの首がいちいち動く。

 こりゃあ間違いなく頷いてくれとるよな? 自分からの問いかけに、僕も頷いた。


「……海太ちゃんにってほしいです。畑とか、あたしも、何も構わんでええけえ。いっつも見えるとこにってほしいです」


 啜る鼻へ拳を押し当て、彼女は無理に笑顔を作った。結んだ唇を弧に、寄せた太い眉を緩ませ。

 これまでで一番にぎこちなく、一番に嬉しい感情の見える気がした。


かった。なら、あんまり難しいこたぁないです。僕は荷物置いてくるんで、このみさんは海太くんとこ行ってください。今、言うたまんまを伝えたらええです」

「えっ、突然すぎんですか」


 ああ、そうか。ほっとするあまり、手順がいくつか飛んでいた。


「大丈夫です。ちょっと僕と話してから来た、いうて先に言うてもらえたら」

「ええ?」

「ほ、ほんまに大丈夫ですけえ。信じてください」


 なぜ大丈夫なのか、説明するには僕と海太くんとの会話も話さなければ。だが言えるはずもなく、ゴリ押しで通す。

 いつもながら詰めが甘い。


「うーん、分かりました。分かりましたけど——」


 曖昧に声が萎み、潤んだ瞳が見上げる。

 そこまで言うなら着いてこいとでも言うらしい。僕自身、そうしたいのはやまやまだが。


「繰り返しですんません、でも大丈夫です。このみさんがきちんと言うたら、あのツンデレが断るこたあないです」


 盗み聞きなどしたら、本気で殺されかねない。僕は僕でやることもあるし。


「じゃあ、観念して一人で行きます」


 拗ねたふりで頬を膨らませた彼女に、海太くんの荷物からタオルを手渡した。化粧けのない人だから、顔を洗うのが手っ取り早い。

 ただ、このみさんの反応は「ん?」と。最初は首をひねった。


「ああ。顔、洗え言うことですね」

「要らんかったですか」

「いえ。譲さんはまっすぐで、ええ人いうて思うただけです」


 何のことやら、僕も首をひねる。しかし解説はなく、紅潮の抜け始めた首にタオルを引っ掛け、彼女は元の通路へ歩き始めた。


 正しくエレベーターのほうへ行くまで、ここで見送ろう。

 それからどうするか、何も考えていない。なにせ活喜ファームでのお小遣いも貰ってなく、先立つ物がほとんどなかった。


 しかしどこかへ、僕も歩きださなければ。そう決めた僕のほうを、二十歩ほども進んだこのみさんが振り向く。


「譲さん、ちょっと経ってから、迎えに来てくださあね! 海太ちゃんとじゃ、間が持たんですから!」


 ここは病院だ。忘れたのかと慌てて、唇に人さし指を当てて見せる。彼女も両手で口を覆い、しまったという顔でおどけた。

 そして今度は、ちょうど届くだけの抑えた声で続ける。


「看板のメンテナンスも、やってくれんと困りますよ」


 じゃあ。と手を上げ、このみさんは行った。エレベーターの方向も、一分ほど悩んで正解を引き当てた。

 僕も悩む。しかしまずは、荷物を車へ運ばなければ。掛け声代わりに、ボソッと独りごちながら。


「また難しい発注じゃ」

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