第41話:いい看板を作るには

 エレベーターを降り、入院棟から外来棟への通路を進む。

 建物の繋ぎ目で、まるで空気が違う。見える限り、僕以外に人の居ないこちら側。受付や会計待ち、行く先に迷う人の行き交うあちら側。


 人の流れの中から一人、小柄な女の子がこちらへ足を向けた。

 実際の年ごろを考えれば、女性と呼ばなければ失礼だけど。真横に一直線の前髪の下、床に示された案内を辿る目が可愛らしい。


「このみさん」

「あっ、合っとった」


 小走りで駆け寄る彼女を、僕は立ち止まって迎えた。初めて見るウィンドブレーカーから、微かに新品の匂いがする。


「三回目ですよね?」

「来るたんびに廊下の位置が違うけえ、いけんです」


 そんなわけがない。とは、照れ隠しに膨れたほっぺに免じて言わなかった。きっと海太くんが居れば、ツッコむ余裕もなかったんじゃろと言うはず。

 その通りだ。


「あ、ええと。その、海太くん。まだ片付かんけえ、暇潰しがてらに食べる物うてきてくれいうて」

「えっ、まだやっとるんです? もう、だらしないんじゃけえ」

「あはは、そんなことない思いますけど」


 連れ出す口実を考えていなくて、咄嗟に海太くんの評価を下げてしまった。また機会があれば謝ろう。


 ともかく彼女は売店へ足を向けた。通路から見える場所へは、さすがに迷わない。

 おにぎりと漬け物のセットになったやつと、サンドウィッチ。それにお茶を買い、このみさんは元の通路へ戻ろうとした。しかし「すんません」と、反対を指さして引き留める。


「あれ、また間違えてしもうたですね」

「いやうとりますよ。こっちから中庭に出られるっぽいんで、行ってみんかな思うて」

「へえ?」


 いいとも悪いとも言われなかったのを良いことに、さっさと歩く。彼女もどうしたかと問いもせず、着いてきてくれた。


 レンガ敷きに、青銅色のティーテーブルなんかも置かれたなかなかの雰囲気。整然とした植え込みに囲まれ、花のプランターも並ぶ。

 ここで話そうと決めていたでなく、案内板の中に見つけただけだった。幸いに誰も居ないのは、昼どきだからか。


「こんなとこあるんですねえ。さすが譲さん」


 黄色い葉の鮮やかな木に向かい、提げられた説明書きを読むこのみさん。

 とりあえず第一段階はクリア。僕はテーブルに荷物を置くことで、安堵の息を紛れさす。


「あ。それ先に車へ置いてくればかったですね」


 振り返りざまの温かい言葉。当たり前を言っただけかもしれないが、僕には嬉しい。「譲さん?」と首を傾げてやって来るのも、知り合わなければなかったこと。

 海太くんに感謝していると言ったのは、本当に心の底からだ。


「いえ、嵩張るだけで重うはないんで」

「ですか?」


 指先で遠慮がちに、紙袋をつつく。なんだこの愛くるしい生き物は。


「う、海太くん。何ともなかってかったですね」

かったです。ほんまに」


 変な方向へ気持ちが高ぶって、また海太くんをダシに使った。しみじみな彼女の首肯に、なんだか申しわけない。


 今朝、彼からの連絡は輝一さんにだった。

 メッセージでなく電話で、久嬉代さんも僕も、もちろんこのみさんも。ダンボール箱を組み立てながら、固唾を呑んで見守った。

 極太の指が輪っかを作り、大丈夫らしいと分かると、示し合わせたようにみんなでへたり込んだ。


 その後にこのみさんの声を聞いたのは、輝一さんから迎えを頼まれ、出かける準備もすっかり済ませてから。

 病院までのカローラの中でも、僕のナビと彼女の返事しか会話はなかった。


「あの。さっき海太くんと話しとって、僕のプレゼンの件になったんですけど」

「はい」


 きゅっ、と。小さな唇がますます細く引き結ばれた。ただし自分で気づいたらしく、ぎこちなく動いた口角が笑みの形を整える。


 だから。


 ——いや、だからは間違いだ。何も知らない鈍感な僕は、不躾な提案をこのみさんへぶつけることにした。


「なんか色々、小難しぅ考えとるみたいですよ。海太くんのクセに」

「海太ちゃん、あれで真面目じゃけえ」

「ですねえ。でも自分がほんまにやりたいことを無視しとったら、ええ仕事にならん思うんですけどね」


 僕のほんま・・・を教えてくれた人が二人とも、自身のそれを蔑ろにしている。

 看板のできあがったせっかくの落成式で、本当はこうしたかったのにと聞こえた時の脱力と言ったらない。


 いい看板を作るには三つのセオリーがある。だがそれも、クライアントの要望を正しく聞き届けてからだ。


「ほんまにやりたあこと……海太ちゃん、なんか言うてました?」

「いえいえ。あのツンデレが素直に言うわけないです」

「ですねえ。あはは」


 枯れて砕けそうな笑声に、挫けてしまいそうだ。ぎゅっと奥歯を噛みしめ、分厚い腹の底に力を篭める。


「じゃけえ、このみさん。このみさんから言うてみるのはどうです?」

「言う、いうて。何をですか」

「海太くんが工房出すんは活喜ファームにせえ、いうて」


 張りついた笑みさえ凍る。目を伏せた彼女は背中を見せ、熱心に読んでいたはずの説明書きへまた向かう。


「ええと、前に言うたと思うんですけど。海太ちゃんを縛りつけるようなこと、言いとうなあんです」

「聞いたですよ。でも、ええんです?」


 植木どころか、プラスチックのプレートと話すこのみさん。

 そういう反応、そういう返答。まあ想像通りだ。


「ええって、何がですか」

「海太くんのこと好きじゃのに、あと何年かで間違いのう会えんようなるんがです」

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