第40話:自分の中の看板
——三日後の月曜日。
僕は福山市内の総合病院を訪れた。
「なんで俺が入院で、あんたが野放しなんや」
「いや、刑務所へ入れられたみたいに言われても」
およそ退院の支度を整えた海太くんが、ベッドに腰掛ける。顔も腕も肌の見えるところのほとんどに、治療のガーゼが当てられて痛々しい。
いくら当人がなんでもないと言っても、検査入院だと押し切られたのはそのせいだ。
足元に立つ僕は肘を擦りむいたくらいで、傍から見る分には怪我がなかった。胸や足首も骨折などなく、湿布を貼られただけ。
「じっくり健康診断してもろうた思えば」
「会社で毎年やっとるわ」
一人部屋で悠々自適というのに、どうにも不満らしい。
たった三日でベッド周りを占領した花や果物、お菓子の類。そういう物を持ってきた人への気がねなのだろう。
「休みが延長になってしもうたねえ」
「まあ、しゃあないわ。次の土日で取り返す」
明日。間に合えば今日の夕方にも、仕事へ戻るに違いない。
海太くんのそういうところを素直に尊敬できる。見習うかと言えば、ストイックが過ぎて難しいけれど。
「このみは?」
「精算してくれよるよ」
「ほうか。クソ、また借りぃ作ってしもうたわ」
苛立たしく、彼はぼやいた。食べかけのお菓子の袋を取り、口へ放り込む。ゴミを投げ捨てるみたいに。
「貯金ないん? でも輝一さんなら、ちょっとくらい待って——」
「そんな話はしとらん」
「ああ、うん」
お金の心配は不要のようだ。さすが僕とは違う。
すると残るは、どこの馬の骨かという話。別に正体が牛だろうとヘラジカだろうと、誰も拘らないと思うのだが。
「どこへ看板を出すか、決めたん?」
「ああ?」
「白地に極太の毛筆で、木工職人とデカく。じゃったよね? 格好が決まっても、どこへ立てるかで看板の価値は
自分という人間の看板を掲げるなら、どんなものにするか。
山のてっぺんのお宮で、考えること十秒ほど。海太くんはあっさり答えた。しかしそれをどこに、と重ねた問いにはまだ答えがない。
「府中の山奥の農場でも、ええ感じに合う思うけどね」
「なんでや、おかしいじゃろ」
「ほうかねえ。ほいじゃあ商店街のど真ん中へでも立てる? それか大きいスーパー、パチンコ屋さんの隣とか」
いかにもな職人
「いや、じゃけえ。なんでそうあり得んのばっかり——いうか、工房の話じゃなあじゃろ。俺自身の、想像の看板じゃろ」
僕がふざけたことを言うので、彼も鼻で笑った。特保指定のウーロン茶で口をゆすいで飲み込む。
「同んなじよ」
「んん?」
「たしかに極端なことは言うたけど、今あり得ん思うところに実際の工房も出さんじゃろ」
「まあ、そりゃあなあ」
「じゃあ山奥の農場はあり得んのか、いうことよ。活喜ファームかそれ以外かくらい、そろそろ決めといてもええんじゃないん?」
彼の念押しした通り、どこに工房を出すか今すぐ決めろとは言っていない。馬津海太の看板、拠って立つところはどこか、だ。
このみさんを好きな者同士、おそらく伝わった。見上げる視線にまばたきが増え、少しの沈黙が落ちる。
「あんたは」
「僕?」
「同んなじこと聞いたら、『今はうまいこと言葉にできん』いうて逃げたけど。そこまで言うんなら、自分も考えたんじゃろ」
逃げたとは心外だが、あのお宮で言えなかったのは事実。あれから僕も活喜家で軟禁状態にされ、やっと考えがまとまった。
「僕の看板は、真っ白じゃと思う」
「白い? 字も何もなしか」
「うん。僕いう人間が、他の誰かの看板になりたいんよ。じゃけえどんなことでも上書きできるように、白い」
元デザイナーとしてより正解に寄せるなら、下地色のグレーと言いたかった。そんな業界ネタみたいなことを言っても分かりづらいだけなので、やめておいたが。
既に海太くんの首が、傾げすぎてねじ切れそうでもあるし。
「じゃけえね、看板屋になったんは正解じゃった。天職いうやつじゃね」
「自分の損得は関係なしぃ、誰かのやることなすこと手助けする言うんか? そんなもん、商売じゃなあわ」
良かった、伝わった。吐き捨てるようにバカにされるのも、想定したまま。
「ほうよ、じゃけえ続かんかった。僕自身は良うても、会社は儲けにゃいけんけえ」
「ほしたら、あんたのその看板、捨てたほうがええんじゃないんか。周りの人間は置いといても、あんた自身がしんどそうじゃわ」
彼が言うと、彼ならできるのだろうと思える。どうしてそんなに強いのか、不公平をグチりたくなる。
海太くん自身が勝ち取ったと知っているのにだ。
「できりゃあね、そうしたんがええんかもしれん」
「せんのか」
「海太くんに聞いたあとで気づいたんじゃけど。自分の看板いうんは内側で勝手に作られとって、自由には変えられん思うんよ。選べるのは外へ出して、他の人からも見えるようにするかだけ」
これは僕の結論。海太くんやこのみさんや、他の人も同じかは分からない。
ただ、彼は小さく頷いた。
「じゃけえ、僕の看板。このみさんに見せてこよう思う。もし順番を譲ってくれ言うんなら、今なら譲るけど。どうする?」
バカにするなと言われても、僕からの義理立てみたいなものはある。
トンビに油揚げ。いや火事場泥棒のような真似はしたくなかった。
もちろんいつまでもは待たない。今日のそもそもの役目に従い、衣類や御見舞い品入りの紙袋を持ち上げる。まだ棚にあったバナナやリンゴも。
「感謝しとるよ。活喜ファームに連れてってくれたけえ、僕に必要な
ちょっと持ち上げ、持っていくよと示す。感情を消した彼の顔も縦に動いて答えた。
「自分の中の看板を取り出す方法があるいうのも、死ぬまで知らんかったじゃろうね」
塞がった手をどうにか振って、別れを告げた。
海太くんは振り返してくれなかった。代わりに「フッ」と小馬鹿に笑い、いつものからかう風で言う。
「好きにせえ。ほいで、ついでに言うといちゃるわ。あんたらの下地はネズミ色じゃろうが、半端に済ますな」
なるほど、海太くん流に健闘を祈るというらしい。僕も「助かるわ、師匠」と、笑って答えた。
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