不本意ながら、明日も継続する。

鬼才 黒沢清の監督作を擬人化するというコンセプトを元に執筆された本作は、2000年代前後の同監督の作品が含有する退廃的な世紀末仕草と官能的な筆致により形作られている。そうした意味で特定のモデルから記された物語として完成度は高く、狂気に傾倒した世界の中心でぐるりぐるりと手と手を合わせてインモラルな舞踊を繰り広げる兄と弟のドラマは興味深い。妄想、誇張、虚偽、初めから信用性を欠いた語り部の視点から語られる、世間を賑わせる連鎖的な飛び降り自殺の真相"らしきもの"に対する究明に感じられるスリルは一行に面白いと言える歩みだろう。卑近さに欠ける文章は要所要所で目が滑る──官能的でも耽美的でもない思弁的な言及が雰囲気作りに有効であるかと言われると特別それでなくても良いように思える──のは事実だが、興味関心を放棄させるほどに煩わしさを感じさせず、紙幅を考えると混迷を極める物語の深く深くへと潜り込んでいくような所感は物語としての豊かさとして享受される。愛する妹:恢炉あおいによる習慣的な自慰行為は強迫観念的なものを感じさせるそれであるが、物語の結末に待っている自他境界の撤廃はエロチシズムとして非常に良好で、最低のピロートークならぬピローストーリーは味わい深い余韻である。