回路ちゃん
再生
本編――恢炉あおいの悪習 Ⅰ
僕の部屋に黒い染みがいくつかある。
隣の部屋――妹のあおいの部屋との境の壁で、勉強用の机が中央に据わり、小さな本棚が両脇に並び、その上の壁には何も遮るものがなく、そこに点々と黒い染みがある。
いつからあっただろう。わからない。
ただ、最近になって染みが大きくなっている気がする。そんなふうに見えるのは、単にここ最近の自分が憂鬱な気分に沈んでいるからであるかもしれない。
飛び降り自殺者が多い。
この一週間で七人死んだ。七日で七人死ぬならひとつきで三十人死ぬのか。
僕の通う高校でもひとりが屋上から飛び降りて死んだ。何人もが彼の飛び降りの瞬間を見ていた。遺書は無かったそうだ。しかしどう見ても自殺だった。施錠されていない屋上にはその時刻彼以外に誰もおらず、殺されたのではないらしいことだけが、救いというか、不幸中の幸いだった。南武線沿いに同じような飛び降り自殺がもう六件あった。
駅ふたつぶんと離れていない地域で、一日にひとりのペースで人が死んだ。本当はそのくらいかもっと速いペースで人は死んでいるのだけれど、不思議と目撃者が多い自殺ばかり相次いだのだった。クラスメイトも、道行く人も、みな少しだけ高いところを見上げているようだった。自殺者を目にするのではないかとこわごわしながら、自分の頭の上に人が落ちてくることがないように。
染みが死者に見えるのかもしれない。
憂鬱なことがもうひとつある。本当に恥ずかしいほど小さなことなのだけれど、先週の土曜日、部屋のゴミ箱からティッシュが消えた。
母さんもいいかげん干渉しなくなってきたし、ゴミを持ち出すなら袋ごと持って行くはずだ。誰も見向きもしないやと、後片付けをしたティッシュをゴミ箱のてっぺんにのせていたのが間違いだった。
その日からあおいの声がいっそう激しくなっている。
集合住宅の壁は薄い――少しでも大きな声を出すと、壁一枚隔てて向こうに聴こえるものだ。
あおい、僕、両親の順で並んでいるおかげで、多分母さんも父さんも娘の醜態を知らない。知らなくていいと思う。
壁の向こうで妹がどんなことをした結果こんな声を出しているのか僕は知らない。
妹と僕の部屋を隔てる壁には人の顔の形の染みがある。
* *
存在の低い底に溜まっているものが、深みから臭ってきて私の鼻腔を犯す。
十の三分の一億の兄の命の片割れが、乾いた紙の上に揮発して死んでいく。
私は濡れる。
張り詰めた陰核亀頭は存在から虚空へ伸びる鋭い針。
覆いの下の前庭膣孔は胎内から虚無へ繋がる暗い口。
ディープ・マゼンタのディルド。
練り込まれたラメの光る222mmのディルドがローションに光る。
跨る。
紛い物の陰茎亀頭が孔状の内蔵へ穿入する。筋肉管を圧し潰しながら進むディープ・マゼンタのディルド。穿たれる、潰れる、喉が
螺鈿の如く輝くディープ・マゼンタのディルドは、吸盤で床に張り付けられている。私のGeschlechtsorganが擬茎を喰う。兄の命の片割れの
両脚に力を籠めてディープ・マゼンタのディルドを引き抜く。筋肉管が陰茎亀頭をしゃぶる。息を吐きながらディルドを喰う。入るだけ入れて脚に力を籠めて私はディルドを撫でる。偽物の睾丸は粘液にぬめり命を生産しない。護謨の海綿体はひとしずくの漿液もかよわせてはいない。敏感だという裏筋には一本たりとも神経は通っていない。膨張して造形された陰茎亀頭は血潮に満ちた本物のように赤くはない。粘液にまみれた指が私の赤熱した針を撫でる。持ち上げていた腰を一挙に落とす。
眼球が燃える。Acmeが弾ける。
改めて死ぬ。暗い場所を脳が見せる。
天の光は白く、それ以外はすべて黑く、私は落ちる。
私は落ちる――暗い部屋のフローリングの床に。
* *
高校に入ってから柔らかいティッシュを持ち歩くようになった。
臭いも味も甘い。
甘い高校生活を夢見ていた。地元の友人も多いとはいえ、新しい環境(そう、十年一緒だったあおいともおさらばしたのだ。幼稚園と小中学校は同じ方角にあった)で新しい何かがあると。
成果はないではなかった。
文芸部に知己を見出したと言えば格好がつく。
「埴谷雄高は」と伊藤が言う。「ヘーゲル的存在即同一性の自同律に対する不快という実存的な感情を表明したわけだけど」――伊藤愛梨という。部長が伊藤なので口頭では愛梨と呼ばれている。でも伊藤と書けばここでは伊藤愛梨だけだ。
『死霊』は読み進めているが僕はこれならドストエフスキーの方が読みやすくて好きだ。夜遅くまで帰ってこない両親のような大人に比べればいくらでも時間がある僕たちは、授業が終わると部室に集まって黙々と本を読んだり話したりした。
「ドストエフスキーの登場人物はいささか演劇的に過ぎるんだよね」と伊藤が言う。
「翻訳の問題もあるのかもしれないけれど。『死霊』のや、あるいはそれこそ推理小説の登場人物みたいな、人間味のない方が私は好きかな」
「人間じゃないみたいな感じ?」
「身体が無いみたいな」
身体が無くても生きていけるなら、それって最高じゃない?
言葉が砕けて彼女は笑った。にっこりと。
楽しい話題ばかりならいいのだけれど、ティッシュのように甘い見通しだったということにも気付きつつある。
世界は普段僕が思っているよりも不安定で、いつ何が起こるかわからない。
今日も昼休みに生徒が飛び降りて死に、明日はきっと別の誰かが武蔵小杉のあたりで飛び降りて死ぬだろう。連続飛び降り自殺は終わらないのではないかと僕は感じている。
テレビを点ければウクライナの戦争は続いていて、中台海峡はいつも通りキナ臭く、コロナ騒ぎは収まっているのかいないのかもよくわからない(しかし学校ではマスクと黙食の徹底がまだ布かれている)。
不安定さが不安定さのままでいつの間にか安定している。
それは――少し、怖い。怖い?
いや怖くはない。怖いなと言えばそれっぽいなと思ってはいる。けれどそれはそれっぽいだけで、怖さではない。何かを明確に怖がっているわけじゃない。今の僕の気持ちは、むしろ、不安じゃないだろうか。それもかなり薄まった不安。しかし不安とは対象を持たないのであるから、もとより曖昧としたものであるのかもしれない。
今日も妹は楽しんでいる。――午後六時。
ステレオタイプな声ではない。呻いているとか、唸っているとか言う方が近い。
本当にどういうことをしてああいう声を出しているのだろう。
流石に自重しているのか、高まったときにいっそう声を上げるということもない。そもそもがファンタジーなのか。どのみちぼくにはわからない。
ゴミ箱の袋を取り換えて台所のゴミ袋に放り込み、新しくティッシュを入れてやった。六時半。妹は僕より下校が早い。明日の夕方にはティッシュは無くなっているだろう。
壁の染みは昨日よりも大きくなっている気がする。多分、明日も人が死ぬ。
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