嗤う女

嗤う女

 春。それは、僕にとって、一番好きな季節と言えるだろう。


 川に沿ってできた桜並木。桜咲き乱れ、その花が通り抜ける風によって舞い散る様が、僕の心を掴んで離さないのだ。散った花びらは川を流れ、薄い桜色で川を染めていく。

 夜も肌寒さから抜け出して、夜の散歩にはちょうど良い。


 今は春祭りの時期とあって、桜の名所としてライトアップされた桜が昼とは違う姿を見せている。


 その様を、僕は橋の中央で桜に酔いしれる。朱色に塗りたくられた高欄に体重をかけながら、薄紅に染まった枝が揺蕩う様を、花弁のうつろう水面を、スマホのカメラに収め続けた。


 スマホの画像フォルダが桜色一色に染まった頃、時刻を見れば既に十二時を超えていた。

 流石に、お祭りといえど人通りは減ってくる。というより、気がつけば僕の他に花見客は一人しか見当たらなかった。


 一番大きな桜の木の下、髪の長い黒服の女性が上を見上げたまま土手に座っているだけ。彼女も桜に集中しているのだろうか。

 声をかけると、こちらが不審者に思われてしまいそうで、こんな時間に一人だと危ないですよと心の中で呟く。


 屋台も全て閉店し、ライトアップされた道と言えど、人がいないと言うだけで寒々とした景色に見えてくる。


 ――まあ、満足したし。

 

 僕は何となく足早に歩き始めた。近くにある公園の駐車場へと向かう道にも、桜並木が出来上がっている。この時期は何処もかしこも桜で埋め尽くされ、春を身近に感じる事が出来る良い季節だ。


 

 桜に意識を向ける中、ふと、背後に足音が鳴った。

 カツン、コツン、とハイヒール特有の音だ。さっきの女性だろうか。

 まあ、誰もいなくなったらやはり帰るだろうと、僕は気にも留めなかった。


 背後の足音と一緒に駐車場へと辿り着くと、やはりハイヒールの彼女も車だったのか、僕の後ろから何処かへと消えていた。


 さて、と僕は車に乗り込みエンジンをかけると、オートになっているライトが前方を照らした。

 

 その瞬間、車の前に髪の長い女が一人、映し出された。

 長い髪に顔が隠れ、表情は見えない。

 僕は、窓を開けて顔を覗かせると女性に呼びかけた。


「……あの、退いてもらえませんか」


 今は深夜。

 僕は、大声は憚られるも出来る限りの声で女に訴えかけた。

 帰りたいのに、彼女が退いてくれる気配がない。呆然と俯いて、ゆらゆらと小刻みに揺れているが、流石に何の反応も見せてくれない女に僕は苛立ちが募る。

 思わず、


「邪魔なんだよ!退けよ!!」


 声に力が入った。

 さっさと帰りたんだ、退いてくれ!とは思っても、その女が見せる不気味さに僕は車からは降りられなかった。

 ハンドルを握る手に力が籠る。ああ、もう。帰りたいのに!

 はっきり言って仕舞えば、とっとと帰りたい理由自体が目の前の女だ。関たく無い、さっさと退いてくれ!


 イラつきと、妙な女の雰囲気で僕はクラクションを鳴らす。流石に、深夜の近所迷惑宜しくな音を前に女はジリジリと動き始めた。

 良かった、やっと退いてくれた。

 

 と安堵したのも束の間、女は車に触れたまま、運転席側へと向かってきたのだ。

 僕は思わず窓を閉め車の鍵をかった。関わりたくないのに、何でだ。


 女はつつう、と指を這わせて運転席のドアの前でピタリと止まった。

 そして、


 バンッ!!!


 と窓ガラスに手を叩きつけて窓に張り付いていた。


 薄暗い中、窓に女の息が掛かり白くなる。

 はあはあと荒い息遣いが窓越しにも伝わり、僕は逃げ場のない車内で後退りする。

 そんな僕を嘲笑うかのように女の目は細まって口の端は吊り上がる。ニタリと笑う顔は、人間のそれとは思えない。

 僕の心臓は限界だった。


「け……警察を呼ぶぞ!!」


 何とも間抜けな台詞だったと思う。それでも、僕には精一杯の威勢だったのだ。

 スマホを取り出し震える手で、110番に電話しようとしたその時、女の顔が車から離れて何処かへと消えていった。


 ◆


 あれから、暫くは桜を観るのも嫌な日々が続いた。

 散々な目に遭って、気がつけば季節は移ろい桜の木は青葉一色になっていた。


 その頃にもなると僕は再び、あの川に訪れていた。もちろん昼間だ。

 あの日の事はきっと夢だったのだと言い聞かせたいのもあった。そうすれば、来年も此処で桜が見れる。

 僕は橋の上、高欄に手をかけ川を見下ろしながら、桜を思い出していた、その時。

 

 僕の視界の端に、女の姿が映った。


 あの日と同じ大きな桜の下。黒い服を纏い、呆然と上を見上げている、あの女。

 僕の脳裏に記憶が蘇ろうとするのを拒否する為に自然と目を逸らしていた。


「やだ、またいる」

「うえ、本当だ。気持ち悪ぅ」


 僕の背後に通りかかった女子高生風の女の子二人が、女に目線を向けていた。忌み嫌っているのか、顔を顰めて言葉を吐き捨てる。


「毎日何してるんだろうね」

「本当、幽霊なのかな」


 あはは、と大きな声で笑う声は女にも聞こえただろう。

 僕は思わずもう一度女を見てしまった。


 女は、ニヤリと口の端を吊り上げて嗤っていた。

 しっかりと僕を見つめて。

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