第2話




「いや、その……。卒業式の時、ずぅーとズボンのポッケ、出てたから」

「……え?」

 言われてお尻に手をやると、尻ポケットがベェーっと舌を出していた。

「え、ハズ」

「それ見たら、入学式のこと思い出してさ」

 急いで舌を隠す。立つ鳥跡を濁しすぎだろ。最後の最後で何やってんだ。

 情けないのかなんなのか、よくわからない感情が、ぐるぐると僕のまわりを回っていた。

「ねぇ、知ってる?」

 今度はなんだ? また、なにか恥ずかしいと思うような報告ならば僕は、僕の感情に締め殺されそうだ。

 夏希はふぅわりとした笑みを浮かべていた。頬は桜の花の色に染まっていた。

 真っ直ぐに見つめられない。彼女の視線を受け止めようとすれば、ぐるぐるとまわる感情とは別、落雷に身を貫かれるような気がした。

「私ね、おんなじ大学、受かったんだよ」

「……え?」

「ギリッギリ。危なかった〜。でもね、頑張ったよ、私。だから――これからもよろしくね」

 告白、とは少し違う気がした。

 実際、付き合うことはなかったし、あれはただの挨拶だった。

 けれど確かにあの時、胸がズキン、とした。

 おめでとう、と、よろしくを言い合って、桜舞う中、笑いあった。

 たぶん、僕の人生で、一番甘い、春だった。


 3回生の冬、もうすぐ始まる就活について、僕は夏希に相談しようとしていた。

 願わくば、再び同じ道を歩めないかと思っていた。

 彼女の隣は、空いていた。

 彼女との未来を、僕は勝手に夢想していた。

「私ね、」

 告白、しようとしていた。

 志望する会社を夏希に伝えて、彼女の志望する道を聞いて、それで、それで――好きだと言おうとした。

 花がひらりと宙を舞った。

 風はほんのりあたたかかった。

「大学、辞めるんだ」

 告白、出来なかった。


 僕が就活を始める頃、夏希は就活を終えていた。

「もう学費、払えなくなっちゃってさ」

 ニカっと笑っていたけれど、心は泣いているように見えた。

「奨学金、借りたりさ、あと1年なんだからさ!」

 夏希の事情を少しも知らないくせに、僕の理想を、僕は押し付けようとした。ごくごく自然に、ただ、彼女を手放したくなくて。

 同じ大学に居続けなくても、同じ会社を目指さなくても、一緒にいる術はある。あるはずなのに、その選択肢はとても脆くて、ボロボロと音もなく崩れ落ちていった。

「おばあちゃん家に引っ越してね、それで、おばあちゃんの知り合いの人の会社で働くの。高卒なのにさ、けっこう条件いいんだよ? 私、めっちゃ恵まれてるよね? 超幸せ、だよね?」

 ――幸せだよ。

 そう言って欲しそうに、僕を見つめた夏希の瞳は潤んでいた。

 見つめ合ううち、夏希の頬をつー、と雫が駆けた。笑っているくせに、泣き出した。

 メイクが溶けたのだろうか。

 透明ではないその一滴は、彼女が隠そうとしている本心のような気がした。気がしただけで、僕には本当にそうなのかは分からない。

 あの雫になれたなら、彼女の鱗になれたなら、苦しみに寄り添えたのだろうか。

「幸せになってね」

 気の利いたことなんて、言えなかった。

 彼女が今、幸せであるかどうかを問わなければならないほどに、彼女の幸せが揺らいでいるのなら、これからの日々が幸せであれと願うことしかできなかった。


 卒業アルバムには、当たり前のように夏希はいなかった。学内イベントの写真をくまなく探してみたけれど、彼女を見つけることはできなかった。

 僕は卒業して、入社して、ピンクのカッターシャツの人になった。傷跡のある心で、白かったのだろうカッターシャツを、思い出色に染め上げたのだ。

「トレードマーク? カラー? だね」と、先輩は微笑む。

 誰も、僕の色を否定しなかった。似合ってますよ、と言ってくれる人たちは、皆が嘘のない顔をしていたから、嫌味とかはないだろうと思っている。仮に嫌味が含まれていたところで、僕にダメージがないのだから、ご勝手にどうぞ、とも思う。

 袖を通すたび、傘をくるりとする夏希が、僕の記憶の引き出しからにゅいっと顔を出した。

 付き合っているわけでもないし、連絡を取るわけでもないのに僕は、彼女を忘れることが出来なかった。

 幸せに、なっただろうか。

 幸せに、なっていてほしい。


 春は毎年、僕の元へとやってくる。

 まだまだ寒いだとか、暖かくなってきてぼーっとするだとか、ぐちぐち言いながら気だるく歩く人波に溶けて、僕は今日もピンクのカッターシャツを纏い会社へ向かう。

 ふと、前を歩く女性の頭に、ふぅわりと花びらが降りた。

 僕はその場で、伝えよう、と思った。

「あ、あの……」

 振り向いたその人は、怪訝な顔で僕を睨む。そりゃあそうか。面識のない男に声をかけられたら、普通、そうなるか。

 淡々と、

「花びら、付いてますよ」

 その場所を指差し言うと、女性は表情をさらに険しくして、乱雑に花びらを払った。

 薄桃色が、アスファルトに沈んだ。

 人波は動く。

 薄桃色が、黒く染まる。

 僕はただ、人波を堰き止めて、闇に沈む花びらを見ていた。


 ポツリ、触れた。

 雨だ。

 雨までもが降ってきた。

 濡れて黒を流す花びら。

 あの日の涙を思い出す。


 ――幸せになってね。

 

 これから何度、冬に凍え、冬の残り香がふぅわりとしたあたたかい春の風に頬を撫でられるのだろう。

 その先の夏、僕は青い空を見上げながら、どこかにいるだろう、どこにいるか分からない夏希を想い、太陽を掴むのだ。


 ――あなただって、幸せになってよ?


 太陽を掴むたび、そんな声が、聞こえる気がする。

 初恋は、今も甘い。

 夏希が近くにいなくても、その甘みは、僕を幸せにしてくれる。

 何度でも、春を――。

 そのために冬を乗り越えて、その先の夏を、希望で溢れているだろう夏を心待ちにする。

 そんな年月に、飽きなんて来ない。


 僕の初恋は、何度季節が巡ろうと、色を失うことなどないと信じている。


 僕は肺いっぱいに冬の終わりを吸い込んで、前を、何年も先を向いて、歩き出した。



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なつき 湖ノ上茶屋(コノウエサヤ) @konoue_saya

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