なつき

湖ノ上茶屋(コノウエサヤ)

第1話




 ランドセルは、青かった。

 青いのは僕くらいだった。

 黒と灰色ばっかりだった。

 ときどき茶色い奴がいた。


 母さんは黒にしておきなさいって言ったけれど、父さんは青でいいさと言った。「青春だよ、青春。青春の青!」とか、訳の分からないことを言いながら、ガハハと腹を太鼓にして笑っていたのを、今でも昨日のことのように覚えている。

 傘はキャラクターの柄のものを使っていて、やっぱり青くて、眩しいくらい黄色が瞬いていた。

 スニーカーは速く走れるとうたっているやつ。流れるような線があしらわれた、カラフルなやつ。

 

 幼い頃、僕の生活には、常に色があった。


 クラブ活動を始める頃に、僕はひとつ、色を失った。

 スニーカーが、真っ黒になった。

 速く走れるスニーカーより、みんなが履いてる小洒落たやつを履きたくなった。

 誰かとかぶると面倒かな、なんて、頼まれてもないのに配慮して、そうしたら色がなくなった。

 ――大人だな。

 クラスメイトはそう言ったけれど、自分の好みで選び取ったわけでもないその色で、“大人”と言われても正直嬉しくなかった。

 本当はまだ、色を纏っていたかった。


 ランドセルを投げて遊んで壊したら、僕はまたひとつ、色を失った。

 母さんが「これ使っておきなさい」と呆れ顔で用意してくれたのは、母さんが僕に背負わせようとしていた色――真っ黒のリュックだった。

 もう卒業まであと少ししかなかったから、再びランドセルを買おうとは、家族の誰もが考えていなかった。

 ランドセルへのこだわりはない。だから、リュックであることに不満なんてない。けれど僕は、色が欲しかった。

 正直を言えば、青はちょっと、飽きていた。だから、僕は緑とか、オレンジとか。みんなと違う色を背負いたいと思っていた。

 黒は、嫌いじゃないけど、好きじゃない。


 折りたたみ傘が黒くなった頃、僕は真っ黒の学ランを纏った。指定カバンは紺色だった。靴下は白を履け、スニーカーも白を履け、と言われた。僕が身につけられる色は、学年カラーの赤くらいだった。

 ――なんで赤い上履きなんだよ。

 クラスメイトは愚痴っていた。けれど、僕は何色だってよかった。色があるのが嬉しかった。欲を言えば、ひとつ上の学年が身につけている、緑が良かったけれど。なんとなく、この時、春の青々とした芽のような緑に惹かれていたものだから。


 僕は電車に乗って通学するようになった。

 新しい制服は、紺のジャケット、アイスブルーのカッターシャツ、グレーのスラックスに、黒いローファー。

 黒い靴なんて、小学生ぶりだった。昔はただ、被らないようにと選んだ黒。けれど、この黒は、強制された黒。

 あの頃は嬉しくないけれど、苦しくはなかった。嫌いだけれど、辛くはなかった。しかし、なぜだか、強制された黒は辛い。

 闇――。

 闇が足にまとわりついている気がした。

 僕のスラックスは、本当は白い気がした。

 闇が僕の脚に溶けて、だからグレーの脚なんじゃないかと思った。

 みんなのそれは、もともとグレーなのかもしれない。

 けれど、僕のそれは、正しい染まり方をしているだろうか。

 真っ白なスラックスを染め上げたのは、染料ではなく、僕の澱んだ心なんじゃないか。


 モノクロームに悩んでいた頃、はじめて僕は、恋をした。

 薄桃色の傘をくるん、と回しながら歩く、チア部の夏希に恋をした。

 マゼンタのラインが眩しい衣装に身を包む彼女の跳躍は、応援されていない僕の心も熱くした。

 夏希の隣は、空いていなかった。

 想いを伝えることなく僕は、彼女に手を振るはずだった。


 卒業式の後、なぜだか夏希に呼び出されて、僕は上着を肩にかけ、何のことやら分からぬまま、闇の足跡を刻んでいた。

「覚えてる? 入学式の日のこと」

 夏希は3年ほど前のことを、昨日のことのように話しだす。

「私のブレザーの仕付糸が、そのまんまだったの、教えてくれたよね」

 確かに僕は、誰かに仕付糸のことを言った気がする。けれど、それは夏希だったか?

 彼女に惹かれたのは、1年の夏のことだった。

 入学したての、春の彼女については、正直記憶がほとんどない。

「あれ、私、恥ずかしいなって思って。だから逃げちゃったんだけど。でも、教えてくれてありがとう。卒業する前に、もう一回お礼を言いたかったの」

「……別に、そんなこといいのに」

「それでね、ひとつ、謝りたいことがあって」

 彼女は僕に用がある時、キラッと眩しい笑みを浮かべながら声をかけてくれた。僕はといえば、授業や委員会、学校行事――そんな、理由がなければ話しかけることもできなかったというのに。

 僕は、どうして謝られるのだろうか。

 彼女は、僕に何をしたというのだろう。

 僕が謝らなければならないというのに、それに気づいていないことがある可能性は大いにあるけれど、その逆は思い浮かばない。

 なぜ。……なぜ?

「あのね、」

 彼女の様子を見ながら、あぁ、これを“モジモジ”というのだろう、と脳みそが呑気なことを考え始めた。変な間が空いた。けれど、別に苦痛でもなんでもなかった。

 いっそ、この瞬間、世界が止まってしまえばいいのに。

 僕は本気で、そう思っていた。

「入学式の時、頭にずぅーっと花びらついてたよ」

「……え?」

 夏希は左胸につけた、偽物の花びらを優しく撫でながら、

「あ、あのね、頭に花びらついてて。私は仕付糸のこと教えてもらったのに、花びらのことを伝えなかったの、申し訳なかったなって、今日――」

「気にすることじゃないのに」

 一体、何が言いたいんだ? 僕の心は、跳ねて荒んだ。

 ただ単純に幸せのようで、難解だった。

 なぜ、今更。どうして、今。



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