第8話 ヘルハウンド
「よせ!!」
怖い顔で私の肩を勢い良くつかみ、後ろに下がらせようとするお兄様の手を払いのけ、ちらりと背後を確認した。よし、きちんとお兄様は範囲内に入っている。
「“我らの姿は闇に溶ける。月も我らを照らせない”」
「ぐるぁあ?!」
認識阻害の術を発動させると同時に氷柱の雨を降らせ、距離をとる。想定をはるかに超える氷柱が延々と天から降り注ぎ、木々をなぎ倒し、ぽっかりと森林に穴が開いて陽光が降り注いだ。倒木にも容赦なく氷柱が刺さり、元の地表が一面氷柱に埋め尽くされ見えなくなる。
しかし、ヘルハウンドはまるで霧のように姿を変えると氷柱すべてを回避し、隙間を縫うようにはい出てきた。そして、すんすんとにおいをかぎ、あたりを見回す。先ほどまで目の前にいた獲物が消えてしまったことにいら立ちを覚えたのか、鋭い牙の隙間から口内でぶすぶすと燻る炎が見えた。
(ひぃ、あれでノーダメージ……!)
ヘルハウンドは犬が悪霊化した魔物だといわれている。硫黄のにおいとともに現れ、炎を吐き、人を噛み殺し、八つ裂きにする恐ろしい魔物だが――もうとっくのとうに死んでいて、実体がないのだ。そのため、退治方法が聖魔術しかない。
故に危険度は限りなくSに近いAランク。聖力を持つ者なら簡単に倒せるのだが、それ以外の人間にとってはまさに悪夢のような存在。コマンドは「逃げる」一択だが、それすらも一度獲物と見定められてしまえば難しい。
(もしかして、威力の上がった氷魔術ならとも思ったけれど、やっぱり物理攻撃はダメか。認識阻害だけでも効いてよかったぁ……。)
闇魔術は何かと縛りの多い魔術だ。夜でなければ効果が半減するといった以外にも認識阻害の術で自分以外の者も隠したい場合は対象を術者の影にいれなければならない。お兄様を影に入れるためには前に出るしかなかったとはいえ、真っ赤な瞳に映り込んだ自分の姿が見えるほどの至近距離にあの化け物がいたのだ。今考えると、怖すぎる。
震える腕を抑えこむ。がちり、といつも以上に仕事をしない表情筋を動かし、私は口角をあげて振り返った。
「私だってあんな化け物と真っ向勝負しようなんて考えちゃいないわ、お兄様。ヘルハウンドに出会ったら、『逃げろ、隠れろ、祈れ』でしょう?」
「…………」
やはりあの氷の魔術は異常な規模だったのか。それとも、陽の光が降り注ぐ環境にも関わらず犬の魔物の鼻をも騙す闇魔術の効果に驚いているのか。呆然とするお兄様の足から未だに流れる血が目に入った。
かろうじて無事だった近くの茂みの葉をむしり、水で洗浄する。改めて小さな氷塊を出し、葉でくるくると巻いて、患部に押し当てた。簡単なアイシング代わりだ。
「清潔な布でなくて、ごめんなさい。……痛い?」
「いや、大丈夫、だ。すまない。ありが、とう」
「無理しないで」
ゆっくり木の下にお兄様を座らせる。ぜぇ、はぁ、と浅い呼吸を繰り返しながら、こちらを見上げる琥珀色の瞳は潤んでぐしゃりとゆがめられていた。
「お前こそ、なんて、無茶、を。頼むから、もうあんなことは、やめてくれ」
「それを言うなら、お兄様だって……」
明るい場所で改めて見てみると、お兄様の体には足の傷以外にも細かい傷がたくさんできていて、薄汚れてしまったシャツから覗く腹に――ヘルハウンドに嬲られたのだろうか――黒いあざができていた。顔つきだって、額に脂汗を浮かべ、目の下には普段以上に濃いクマが浮かび上がり、げっそりしている。少し落ち着いた今、兄の痛々しい姿に目じりが熱くなった。
(あ、無理。泣きそう。)
唇をかみしめ、ゴシゴシと乱暴に目をこすって、そっぽを向く。
「……?」
すると、滲んだ視界にウィンドウが映り込んだ。マップを開いたままだったはずなのに、いつのまにかミッションの表示に切り替わっている。
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《兄の焦燥》
妹を探し、兄は深い森の奥へと踏み込みました。
体力も魔力も枯渇し、満身創痍の彼に怪しい影が迫っています。
このままでは彼は抵抗むなしく、魔物に殺されてしまうでしょう。
制限時間内に兄と合流し、彼を守ってください。
✔制限時間内に兄と合流
□魔物の撃退、もしくは討伐
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「え、なんでチェックがついてな――危ない!」
✱✱✱
ヘルハウンドは賢く残忍な死の猟犬だ。そんじょそこらのおよそ知能などない雑魚と一緒にしてもらっては困る。そうたやすく、獲物をあきらめてなどいなかった。
(獲物の一匹――眼鏡の小僧――は動けないように足を切り裂いたのだ。そう遠くに逃げられるはずがない。自慢の目も鼻も耳もあの小賢しい人間どもを探知できないが、きっと近くにいる。ならば、やることは一つ。)
ヘルハウンドは森を焼き尽くさん勢いで、でたらめに炎を吐き散らした。氷柱が溶け、木が、草が、燃え上がる。しかし一か所、炎が確かにあたったのに燃えていない木があった。
(そこか――。)
目当てをつけた場所をにらみつけ、舌なめずりする。すると、何もなかったはずの空間が揺らぎ――顔をこわばらせた女と目が、あった。
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