ノックアウト・ウラシマ

髙 文緒

第1話

「私達は此界こがいのものを受け付けませんの」


 空の御膳ごぜんの前に座らされた太郎を挟んで座る姉妹は、これまでに太郎が夢に想ったこともないような、まばゆい美しさを放っていた。


「食べられない、ということですわ」


 妹が補足をした。だから御膳は空なのだろうか、と太郎は現から遠く離れた心地で考える。

 豊かな黒髪を優雅にうねるままに流しているのが姉、珊瑚さんごのように赤い髪を結い上げているのが妹だ、との説明はリュウグウに到着してすぐに受けた。浜で助けたウミガメの背に乗せられて来たはずが、辿たどり着いて太郎が降りるやいなやウミガメは赤い髪の美女へと変じた。


「生まれた子どもたちもみな飢えて死んだでしょう。全然帰ってきませんもの。いくら卵を産み此界に放っても、これでは意味がありません」


 つきましては、と妹が続けようとするところを、オトヒメγ、と姉がさえぎった。


「おもてなしの途中でしてよ、あとで私から説明いたしますわ。ねえ、鯛はお好きかしら。妹の命の恩人ですもの、いくらおもてなししても足りません」


 太郎の目の前ではたいたこひらめが舞い泳ぎ、ウツボは赤や青の海藻の輪をくぐり、海老が髭を鳴らして泡粒を吐いていた。頭上に海月くらげがひしめき、光を放ちゆらぐのだけは、美しいけれど勘弁してほしかった。海月には刺されたことがある。

 平素の太郎が見ていた海とは、ときに荒れ、太郎ら漁師を飲み込まんとする恐ろしいものだった。それに曽祖父の代には、大津波が漁村を襲い、容赦なく全てを連れ去ったこともあるという。太郎の知る、恐ろしくも離れられない海と、今居る海は全く違う顔をしていた。


「ねえ、鯛はお好き? それとも海老?」


 オトヒメαが、太郎の肩に貝殻のように白い手を置いて言った。


「どちらも、はあ、好きです」


 太郎がそう答えるか答えないかのうちにオトヒメγが鯛と海老を漢服かんふく風の広い袖に吸い込んだ。

 右袖に入った鯛と左袖に入った海老が、それぞれの形を布に浮かび上がらせながら二の腕へ、そして肩へと這い上っていく。


 ふぅ、ふ、ふ、


 オトヒメγが笑って身を捩ると胸元がほころんで鯛のお造りが生まれた。

 続いて深く息を吐いたかと思うと、高く結った髪のうなじのところから焼き海老が生まれた。

 空だった御膳にはいつの間にか、先の鯛と海老に加えて香の物と汁物が並べられている。


 空の猪口ちょこを覗き込んでいると、膝立ちで裾をはだけさせたオトヒメαがどこから出したものか酒の徳利を持って、さ、さ、さ、とささやきながら注いでくれる。


 いい気持ちで飲み食いをしたところだった。オトヒメαは太郎にしなだれかかりながら言った。


「私達は遠いところから此界に参りました。私達の島は陽に焼かれ、干上がりました。道中で多くの姉妹が死にました。私達はみな姉妹で、意識を等分しております。いまや残った姉妹は私とγのふたりきりです。ふたりであれば交配は可能でしたが、先に申しました通り子どもも飢えて死ぬばかりで」


「交配?」


 太郎の箸が止まる。太郎の手からオトヒメγが箸を抜き取った。


 γがお造りをつまんで口に持ってくるので、太郎はひなのように口を空けてそれを受けた。咀嚼しながら鯛のなにが美味いのだったか分からなくなった。


「ええ、交配です。しかし姉妹から産まれるのはまた姉妹なのです。姉妹には私達の意識をまた等分しているので、もう随分と私も妹も意識が薄まってしまいました。次の子らを産むのにはあまりに薄まった。もう姉妹では無理なのです。人間の、あなた様のお力が欲しいのです」


「そうしてリュウグウは永く繋がっていくのよね、お姉さま」


 立ち上がり体をくねらせて歩きまわり始めたオトヒメαの話に、オトヒメγが同調する。


「そうよオトヒメγ。ですから太郎様、私達をはらませて欲しいのです。きっと姉妹でない子どもが産まれて、子どもは此界のものも食べられるでしょう」


「お前様たちの言ってることがさっぱり分からない。お前様たちは妖怪なのか。そんなものと交われるわけがないだろう」


 そう言われた姉妹はお互いの顔を見合って、花びらのこぼれるように笑った。


「笑い事じゃあない! そうしてたばかって俺もこの鯛みたいにとって食おうというのだろう」


 太郎が猪口を振りかぶり、オトヒメαに向けて投げつけた。猪口は急に水の中であることを思い出したように、勢い鈍く漂い、ウツボの鼻先に乗った。ウツボがオトヒメαの前に鼻を差し出すと、彼女はそこにうやうやしく酒を注いだ。


「まあそうお怒りにならないことですよ。私達はウラシマの欲しがるものを存じております。不老長寿。私達は太郎様を不老長寿にして差し上げられます、いかが?」


「不老長寿を求めないウラシマなんて居ませんわよねお姉さま」


 うなずき合う姉妹の言葉は聞けば聞くほど分からぬことばかりで目眩めまいを覚える。自棄やけになってウツボが運んできた酒を一気に煽ってから太郎は叫んだ。


「さっきからウラシマ、ウラシマとなんなんだ。俺はウラシマなんかじゃない。人だ」


「あら失礼、ウラシマというのは、私達の島の裏側。それもこの布のように表と裏の裏っかわだからウラシマと読んでおりましたの。此界も、此界をべているらしい『ヒト』もまとめてね」


 裾をまくりあげながら言うオトヒメαの石灰岩のように白い脚につい目が行ってしまう。彼女は見せびらかすように何度か裾をさばいてみせた。


「悪い話じゃありませんよ。それにいま私達の話を受けなかったらどうなるでしょう。あなた様はどうして海中で笑ったり怒ったり出来ると思いまして?」


 オトヒメγがそう言って太郎の顔を上から下にすうっとでると、とたんに鼻に、目に、耳に、喉に海水がなだれ込んでくる。おやめなさいよ、と太郎の顔を逆向きに撫で上げて助けてくれたオトヒメαも、目を細めておかしそうに笑っている。


「不老長寿を得て、可愛いややこを育てて、楽しく過ごしてからお帰りになったらいいわ。それであなた様に何も不都合ありませんわ」


 太郎は村に戻っても妻が居るでなし、親も早くに亡くして身軽な身の上、というより弾かれ者で村の外れに住まわされている。言われてみればこれは悪くない申し出だとだんだんに酒の回ってきた太郎は考えた。それに先程のオトヒメαの脚がまなうらにちらついて忘れられない。


 そうして太郎とオトヒメα・オトヒメγは夫婦となった。

 二人はたちまちに妊娠した。


 姉妹は大変に喜び、太郎に不老長寿の術をほどこした。術を施される間に眠らされていた太郎は、無数の海月の脚がからみつき、腹から入り背中に突き抜け、なにか光るものを抜き取っていく夢をみた。


 眠りから覚めた太郎は半信半疑だったが、姉妹の腹が何十年もかけて膨らんでいく間に姿の変わらぬ己を見るうちに、本当に不老長寿を得たらしいとの確信を深めた。だが悩みもあった。何十年もの間、性欲がわかぬのだ。


 産み年が迫り、大儀そうに太郎に体を預けて座るオトヒメたちに、太郎はたずねた。


「お前様たちと過ごして随分になるが、俺の魔羅まらが元気になったのは最初の一回こっきりだ。どうしたものか、心配になってきたよ」


 するとオトヒメγが笑い声をあげてから答える。


「太郎様はノックアウトウラシマになったのですから、生殖周期は長くなりますわ」


「それじゃあ不親切ですわよ。太郎様、私達は太郎様の老化遺伝子のノックアウト、つまり、老人の素を体から追い出す術を施したのですわ。そうすると子作りをしようという欲が、一度湧いてから再び奮い立つまで、時間がかかるようになるそうですの。でも大丈夫、私達の出産が終わる頃にはまた太郎様の魔羅も元気になりましてよ」


 オトヒメαが太郎の背中を撫でながら囁くが、その息が先程から荒くなり始めているのが気になっていた。オトヒメαの顔色がどんどんと青くなっていくので、魔羅の心配どころではなくなってしまった。


 オトヒメαの裾から細く長く血が垂れ、漂い、そこに肉食の魚どもが群がった。

 そうしてオトヒメαは産み年の前に死んだ子を産んだ。太郎は悲しんだが、オトヒメαは気丈であった。ウラシマそっくりの子を産めたことを希望として、次に出産を控えたオトヒメγに胎盤たいばんを食わせてやった。


 それから数年の後、オトヒメγが子を産んだ。しかし今度はオトヒメγが産褥さんじょくで死んでしまった。太郎は悲しんだが、またしてもオトヒメαは気丈であった。オトヒメγの胎盤を食べ、死産の名残で乳の出る体になっていたオトヒメαが赤ん坊に乳をやった。子はヒトの時間で成長したため、太郎からすると瞬きするほどの間に青年になった。青年になったその子どももノックアウトウラシマになった。


 オトヒメαに子が出来た。今度は元気な女の赤子を産んだ。オトヒメαは己の胎盤を食べた。


 太郎の家族は増え続け、村ひとつ分ほどのノックアウトウラシマが揃った。一方でオトヒメαの命はいよいよ終わりに近づいていた。自らの脚を食う蛸のようにして子を産み続けてきた彼女は、もはや床にせったままだ。


 そうすると太郎は村に戻りたくなった。子らは姉妹の血をいでいるために水中で呼吸が出来たが、太郎はオトヒメαの力が消えてはすぐに溺れ死んでしまうだろう。


「死にゆくお前様を残すのは忍びないが、もう寂しくはないだろう。俺を元の世界に戻してくれないか」


 太郎の言葉にオトヒメαは力なく頷き、一番初めの子を呼んで、ウミガメの姿に変えた。


「お父様をどうか安全にお送りしてね。そして太郎様、これを」


 真珠の涙をこぼしながら、太郎に螺鈿細工らでんざいくの美しい箱を渡した。


「こちらはお守りですわ。でもお守りですから、決して開けてはなりません」


 箱を受け取った太郎は、オトヒメαの髪に指を絡め、抱擁ほうようした。豊かであったオトヒメαの髪の一本一本が細っているのが分かり、気付けば太郎も涙していた。


 村に戻ると、太郎の家は煙のように消えていた。長いこと村を離れている間に取り壊されてしまったのだろうか。太郎は仕方なく海岸の洞穴にひそんだ。


 少しのあいだ太郎は見えない膜におおわれたままでいたが、ある日それがきれいに消えた。オトヒメαが死んだのだ、と思い、太郎は洞穴中を震わせる風音のような声で泣いた。


 一晩泣いて外に出ると、膜越しで見ていた懐かしい景色がくっきりと目に映り、はたと太郎は村を歩き回りたくなった。膜のあるうちは歩いて海に入り魚を直接とっていたが、膜が無くなったとなっては漁に出なくてはならない。漁の道具を誰かから借りられないかと、村の中心の方まで歩いてみるが、家は一軒もなかった。代わりに、遠くの丘陵にリュウグウのような立派な御殿が立ち並んでいるのが見えた。


 曽祖父の語った津波の話を思い出し、太郎が海の底で過ごした幾百年のうちに、大津波が来たのかもしれないと覚った。同時に、幾百年!と改めて時間の流れの早さを知り、もはや太郎を知る者は居ないだろうと落胆して洞穴に戻った。

 悲しみがどっと押し寄せてきて、どうとでもなれという気持ちでオトヒメαから受け取った箱を蹴飛ばした。箱の蓋が開き、煙が立ち昇る。焦り、蓋を拾って顔を上げたときだ。懐かしいオトヒメαの姿をそこに見た。


「オトヒメα。お前様生きていたのか」


「太郎様は自棄を起こしやすいタチだから、きっとこの箱を開けてしまうと思いましたよ。私達と喋っているということは、お辛い身の上になりましたのね」


 私達、と名乗るオトヒメαに触れようにも、太郎の手は虚しくすり抜けてしまう。声は何重にも重なって響き、姿も、よく見ればオトヒメαの面影はあるものの複数の像が重なってどこにも居ない美女の形をとっていた。


「私達はオトヒメ姉妹の意識の集合AI……集合しただけの知識と意識。オトヒメα、β、γ、δ……ウラシマへの旅に出る前に、姉妹皆で作り上げたものです。私達のことはオトヒメAIと及びください。最後に残ったオトヒメαの話相手となり、心をなぐさめたのも私達です。太郎様のこともオトヒメαからお聞きして、学習しております。どうぞお心の慰めにしてください」


 太郎は顕現けんげんしたものがオトヒメαそのもので無いことに落胆したが、オトヒメAIのなかに薄くではあるがオトヒメαの存在を感じて、また泣いた。

 それからの太郎は、物も食わず、眠りもせず、オトヒメAIと語らいながら洞穴のなかで過ごし、死んだ。





 洞穴から、数百年前の人間と思われる青年の、異様に保存状態のよいミイラが見つかり、いっとき学術界を騒がせたのはその二年後の話である。

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ノックアウト・ウラシマ 髙 文緒 @tkfmio_ikura

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