※書籍版原稿作成にあたり、長すぎて省いた冒頭部分を公開します。
※冒頭部分、8,000字くらいあるので(……)続きは今後、限定ノートで上げていきたいと思います。
※サポーターズ加入前のお試し読みとして1500字分くらいを公開しております。
※発売後に読み比べてみても面白いかも? です。
明けそめた空の下、エリン王国の王城の中庭に、春の風が吹き抜けていった。厩舎脇に積まれている飼い葉が、青い匂いをふりまいている。
「表、裏、どっちが出るかな? 当てたらいいものがあるよ」
「うーん、表だ! カトリーヌ姉ちゃんに賭けで負けるなんてありえないからよ」
中庭にある厩舎の裏。使用人用の灰色のワンピースに白いエプロンをつけた少女が、幼い少年とコイントスをしようとしていた。あかぎれた指先に、曇った銅貨がつままれている。
少女と言っても、大人との狭間の年頃だ。
彼女のハニーブロンドの髪は艶を失っている。おさげに編んで垂らしている様子は、藁を束ねたかのようだ。痩せぎすで、血色も悪い。瞳はエメラルドグリーンで、湖を思わせる色だ。ただし、暗い森の中の湖だ。長い前髪に邪魔をされて光が入らないのだ。
コイントスの相手は、真っ黒に汚れた服を着た幼い少年だ。こちらはさらに痩せているが、黒い瞳は期待にきらきらと輝いている。
「じゃあ私は裏ね! 今日は絶対に負けないわ」
「無理だよ、カトリーヌ姉ちゃんはめっちゃくちゃニブいもん!」
カトリーヌと呼ばれた少女が、言ったわね、と笑う。コインが投げられ、くるくると回転しながら落下する。
ぱちん、という音を立てて、カトリーヌは両手の平でコインをつかまえた。手を広げる瞬間、少年が「くひひ」といたずらっぽく笑った。
そこにあったのは、槍を持つ男の全身絵。エリン王国のコインはゆがんだ円型をしていた。表にだけ簡単な図柄がある。つまり出た面は、
「表だ! やった! パンくれよ!」
少年が飛び跳ねて声を上げる。
「まだパンと決まってないでしょう。『いいもの』って言ってるじゃない」
「でもどうせパンだろ」
「えへへ、そうなんだけどね。ちょっとでも秘密にしたほうが楽しいかなって」
そう言って、カトリーヌはエプロンのポケットから黒パンを取り出した。食事に出たパンを食べずに取っておいて、エプロンに忍ばせているのだ。コイントスの景品にするために。そして賭けはいつでもカトリーヌの負けと決まっている。
「まいどあり! っても子分たちと分けたら一口ずつだけど」
「生意気言わないの。孤児の子たちは元気?」
「まあ生きてるよ。それにしても本当に、運が悪いよな。いっつも負けてる! 俺は助かるけど」
「運じゃなくて勘が悪いのよ、とびきりね。私は無才無能のカトリーヌだもの」
カトリーヌが自嘲するように笑う。
そのとき、少年が「ヤベ!」と言って駆け出した。同時に、砂利を踏み散らして走り寄る重い足音を背後に聞く。自分も駆け出そうとしたカトリーヌだが、ふと思い立ってその場に立ち止まる。
次の瞬間、おさげ髪を強く引かれてカトリーヌは地面に倒れた。
「サボってんじゃねえぞ! また飼い葉売りのガキに恵んでやってんのか! そんなご身分じゃねえだろ!」
ブーツで土を蹴りかけられるが、カトリーヌは悲鳴の一つもあげない。地面に頬を擦り付けながら、そっと顔を上げる。
視線の先には、無事に逃げおおせた少年の背があった。骨が浮かぶような背中は歪曲している。手脚は折れそうに細い。そんな子供は、この国では珍しくない。
「へっ、忌々しいゴブリンみてえに汚ねえガキだ」
衛兵が吐き捨てる。
ここエリン王国は、ヒト族の単一種族国家である。そして、彼らが『魔族』と呼ぶ人間以外の他種族国家である隣国ゼウトス王国と、百年に渡る戦争を続けているさなかだ。衛兵の発した言葉は、エリン王国において最大の侮蔑だった。
(戦争でお父さんを亡くした子供に、何の補償もしてあげられないのに。なぜそんなひどいことが言えるの?)
カトリーヌは、地面に爪を食い込ませた。
何度怒鳴られても、引き倒されても、少年がまた来る日のために、食事に出たパンをエプロンに忍ばせることはやめない。少年が飢えてしまわないように。