第18話 宮中への道【第1部完結】

 わたしは翠玲すいれいの頭を胸にかき抱く。銀白色の艶やかな髪を撫で、顔をうずめ、甘い匂いをかいだ。


 翠玲との親密で濃密なひとときだ。


 いつものように、翠玲がわたしを無邪気に激しく求め、わたしが翠玲を遠慮がちに求めた後のことだ。わたしたちはたがいの温もりを感じ、ひとつに溶け合っていた。


 翠玲が言う。

雨雨ゆいゆい。わたしが心と身体を許した相手は、お前だけだ」

「お嬢さま、わたしも同じです」


「でも、わたしが東宮妃になったら、そうではなくなってしまう」

「ええ、そうですね」

 わたしは平静を装って、答えた。


 心の底では、気づいていた。

 翠玲がわたしだけの翠玲ではなくなることに。この温もりがわたしの手から離れてしまうことに。


「雨雨、わたしが東宮妃になったとして。それで、わたしは幸せになれるだろうか」


 わたしはその言葉に答えた。

「お嬢さま。わたしの役割は、あなたを単なる東宮妃にすることではありません。あなたをこの国の皇后にすることです」


 わたしはそう喋りながら、まるで自分ではない誰かが喋っている気がした。


 わたしはなおも言葉を続ける。

「お嬢さまは、この国の頂点に立つ女になるのです。女として生まれて、これ以上の栄誉と幸せがありますか。東宮妃はあくまでその第一歩です」


 翠玲はわたしの言葉を鼻で笑う。

「雨雨、本気でそう言っているのか」

「本気です」


「雨雨はどうなるのだ」

「わたしは、皇后になったお嬢さまのそばで、お嬢さまの子どもを抱き、育て、ずっと支えていくつもりです」


 間違ってはいない。そう願う限り、わたしは翠玲のそばにいられるのだから。


「雨雨は、それで幸せなのか」

「もちろん、幸せです」


 翠玲はわたしの胸から顔をあげると、わたしの目をじっと見た。そして言い放つ。


「雨雨、お前は、本当に嘘つきだな」

「お嬢さま、嘘ではありません」

「いや、雨雨は嘘をついている」

「嘘はついていません」


「雨雨、この際、はっきり言うぞ。わたしはやっぱり宮中に行くのは嫌だ」

「今さらそんな。わがままを言わないで下さい」

「だって、それでは雨雨が幸せになれないだろう? わたしは皇后や東宮妃になるよりも、雨雨と一緒に幸せになりたい」


 翠玲のその言葉に、わたしの中で何かが崩れた。気がつくとわたしは涙を流していた。


  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎


 たちこめる夜気が、寝台に横たわるわたしたちの肌を撫でた。

 窓枠ががたがたと揺れている。閉じた雨戸の向こうで、風が吹きすさんでいる。


 自分でも本当はわかっていた。

 ずっと前から、わかっていたのだ。


 翠玲が皇太子に奪われて、そこから本当に皇后になれたとしても。宮中から出る自由すらないのだ。


 幸せなわけがない。

 翠玲も、わたしも。

 やるせなくて、狂おしくて、反吐が出る。


 しばらくして、翠玲が静かな声で言った 

「雨雨、わたしは、どうしたらいい? 嘘やごまかしはいらない。お前の本当の気持ちを教えてくれ」


 わたしは答えにつまり、目をつむる。そんなわたしを見て、翠玲が追い討ちをかけて言う。

「一緒にどこかに逃げてもいいぞ。何もかも捨てて、遠い国へ行ってもいいんだ」


 わたしは深呼吸をする。判断を誤らないよう、気持ちを落ち着かせながら。


 いま自分が成すべきことは何か。


 敵陣のそばで。撤退する馬上で。わたしはいつも考え抜いて、窮地をくつがえす最善の手を選んできたじゃないか。


 わたしがここにいる理由は何だ。はかりごとを帷幄いあくにめぐらし、勝ちを千里の外に決す。それが、わたしではないのか。


 わたしは目を開くと、翠玲を見た。

「……お嬢さま。わたしは、嬉しかったのです。とても。お嬢さまが『皇后や東宮妃になるよりも、わたしと一緒に幸せになりたい』と言ってくれた言葉が」


 ずっと戦場で生きてきて、人並みの幸せなど望めないと思っていた。でも、いまのわたしは、甘美な温もりを知ってしまった。手放したくないと固執するほどに。


 わたしは、翠玲にたずねた。

「お嬢さまは、わたしをこの先も信じてくれますか」

「信じる。雨雨しか信じない」


 ならば、覚悟を決めよう。

 わたしは身を起こす。

 翠玲も起き上がり、寝台で向き合う。


「お嬢さま。まずは宮中に入り、東宮妃選抜に挑みましょう」

「それで、どうするんだ」

「勝ち残るのです。それは東宮妃になるためでも、皇后になるためでもありません。わたしたち二人のために。お嬢さまと一緒に幸せになれる道を、わたしが必ず見つけます」


 翠玲がこぼれるような笑顔を浮かべた。

「ふふ、雨雨。そうこなくっちゃ。わたしは宮中に行く。そして、雨雨と共に生きる」


 東宮妃選抜で勝ち、皇后の使命を果たしたうえで、翠玲と二人で宮中から逃れる方法を考えるのだ。この国に後足で砂をかけることになるかもしれないが。


 権謀術数で負けるつもりはない。たとえ百万の軍勢を敵に回し、この身を血で汚したとしても。


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 さて、翠玲が宮中に入る日は、内侍府との協議で九月九日(新暦で十月十五日)と決まった。


 ちょうど重陽節ちょうようせつだ。皇帝のもとに、皇后、妃、皇子、秀女らが一堂に集まり、節句を祝ううたげが開かれるという。そこで翠玲をお披露目したいとのことだった。


 秀女に対する扱いとしては、おそらく破格だ。皇后の後押しがあったのではと勘繰ってしまう。


 とはいえ宮中の誰もが翠玲に注目していることは間違いない。四家の秀女がそろい踏みになるのだ。時宜にかなった対応なのだろう。


 宮中に入るときの服は、翠玲が自ら選んだ。翠玲は街歩きのときの約束を覚えていた。そして予想通り、いや予想を超える服を着た。


「これはすべて、お母さまの形見だ」


 翠玲が嬉しそうに話すと、身をひるがえしてみせる。


 西域風の袖がない絹の長衣の上から、外套マントを肩に引っ掛けている。外套は金色と赤色で十字架が刺繍された派手なものだ。髪は妃らしく結っていたが、逆に銀白色が目立っている。そこに十字架の耳飾りと首飾りが揺れて輝いていた。


 馬車で迎えにきた曹文徳そうぶんとくは、翠玲の服装を見て卒倒せんばかりに驚き、わたしに絶叫した。


小雨しょうう! 何でこんな頓狂とんきょうな格好を許したのだ!」

「まぁまぁ、曹先生。服装なんて、どうでも良いではないですか」


「どうでも良いわけあるか! 皇帝も皇后も妃も、みんな居らっしゃるのだぞ。後ろ指を指されたらどうする」

「何を言われても平気です。わたしが後で何とかしますから」


 わたしは翠玲のきょうの服装に、内心では感心していたのだ。確かに前代未聞だろう。あり得ない奇抜さだ。

 だが、誰が何と言おうと、圧倒的に美しい。


 宮中の人々は、奇抜さに驚きながらも、翠玲の美しさに目を見張るはずだ。


 そして皇后も気づくだろう。手駒だと思っていた翠玲が、自分には御せない荒馬、いや天馬だということに。


 宮城に向かう馬車の中で、わたしは翠玲の手を握る。今度は、自分から。


「お嬢さま、わたしはもう立ち止まりません。わたしの手を離さず、ついてきてくださいね」

「わかった。雨雨のことを、きっと離さぬ」


 翠玲はもう片方の手で、胸にさげた十字架を握ると言った。


「hosanna(主よ、我らに救いを)」


【第1部完結】



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 ここまでお読み頂き、ありがとうございました。第1部完結としましたが、物語は続きます。


 第1部は全体の序章です。

 第2部では時計の針を巻き戻し、雨雨と翠玲の出逢いを描きます。

 第3部からが東宮妃選抜の本編です。四家の個性豊かな秀女&侍女らの対決を軸に、皇位継承争いと、後宮の権力争いが絡みます。翠玲と自由を勝ちとるために、雨雨が知略を巡らします。


 以上が現時点の想定です。この後も応援を頂ければ幸いです。




 




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後宮の軍師は眠らない やなか @yanaka221b

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