第17話 小雨と夜雨
わたしが皇后に会うために準備したものがある。
特大の筆だ。
倫安の文具屋で探したが、大きいものがなかったので、急いでつくってもらった。竹棒に馬の尻尾のふさふさした毛が付いていて、形も大きさも
早朝の宮城の、誰もいない広場で、わたしはこの筆をふるうことにした。
広場には石畳が敷き詰められている。もちろん墨は使わない。広場に墨で書いたら、怒られるどころでは済まない。墨の代わりに水を使う。
役人や女官に「何をやっているのか?」と尋ねられたら、そのまま「字の練習をしている」と答えるつもりだ。水だから乾いたら消える。広場に人が行き来する時間帯には消えているはずだ。
わたしは広場に水瓶を運び込む。筆を両手で握り、遠目にも見える字の大きさで、石畳にこんな詩を書いた。
君問帰期未有期
巴山夜雨漲秋池
何当共切西窓燭
却話巴山夜雨時
いつ帰るのかと問われても、
その答えはわからない。
秋の池があふれている。
ああ、いつの日か、西の窓辺で、
ろうそくの芯を切りながら。
巴山の夜の雨のさみしい思い出を
あなたと話したいものだ。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
これは
わたしは皇后との
七日目の朝。石畳に向かって字を書いていたわたしは、ふいに声をかけられた。
「達筆だな。端正で整った良い字だ」
顔を上げると初老の女性が立っていた。深緑色の長衣を着て、黄色の帯を締め、髪を高く結い上げている。
皇后だ。
初めての対面だが、そのたたずまいを見た瞬間に、直感で分かった。
少し離れたところに侍女がひとり待機しているほかは、周囲に誰もいない。
わたしは両膝をついて頭を地面につける
「構わぬ。楽にせよ。そなたが
「はい」
書画が好きな皇后がたまたま眺めた広場で、詩を書いている侍女に目をとめて声をかけた。傍目にはそんな風に見える状況をつくった。
皇后は笑みを浮かべた。
「
「とんでもありません。まだまだ若輩者でございます」
「それに、そなたの名前。天から降る雨、か。
「おそれいります」
皇后はわたしの方に顔をよせると、声の調子を落とし、ささやいた。
「一週間だ」
「は?」
「一週間以内に、
「承知しました」
何に間に合うのか。とは、あえて尋ねなかった。
その言葉の意味するところはおそらく、翠玲が宮中に入った直後に、東宮妃選抜を取り巻く状況が変わる。
ここまではっきりと期限を切った以上、第三皇子の
わたしは後宮で働きながら情報を集めていたが、志成が皇太子でいられる芽は、もはやないと確信していた。
わたしの返答を聞いた皇后は、満足した様子でそのまま立ち去ろうとした。
わたしはすかさず声をかける。
「陛下、ひとつお聞かせください」
皇后が立ちどまる。
「何だ」
「策子であるわたしが、わざわざこの役回りを命じられた理由です。これは、宮中で
皇后はわたしの言葉に笑った。
「ふふふ、面白いやつ。あるいはそうかもしれん。だが小雨よ。信じてほしいのだが、わたしの思いはその逆だ」
「逆、と申されますか?」
「そうだ。むしろ大蓮帝国に大乱が起きるのを防ぎたい。そのために、策子のそなたと、安翠玲を東宮に呼んだのだから」
わたしは顔をあげ、皇后の目を見る。
これが翠玲であれば、嘘をついているかどうかが分かるところだ。わたしにはそんな能力はないので、その目の奥を見て、心の声を聞き取るしかない。
東宮妃選抜は、後宮の代理戦争だ。
となると、考えられることはただひとつ。
皇后はわたしと翠玲を使って、代理戦争を勝ち抜こうとしている。
皇后は、
かといって、
「大連帝国の安寧のために期待している」
皇后はそう告げると静かに立ち去った。
気がつくと、わたしが水で書いた字はすべて消えていた、広場には冷たい朝の風が吹き抜けるばかりだ。
わたしは筆と水瓶を抱え、部屋に戻りながら考える。
皇后の話は想像していた通りだ。
驚きはないが、翠玲の顔を思い浮かべると、胸が苦しくなる。
わたしは構わない。これまでも権謀術数にさらされて生きてきたのだ。覚悟はしている。
でも、翠玲はこのままでいいのか——。
わたしと翠玲には、もはや後戻りする選択肢はない。わたしたちは否応なく、宮中の権力闘争に巻き込まれていた。
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