永訣のあさ

朝吹

永訣のあさ

 ※お題【運命、トマト、図書館】



 図書館での出逢いときたらまず想い浮かぶのは、出合頭にぶつかって、「すみません」というシチュエーションだ。同じ本に偶然双方が手を伸ばすというパターンもある。

 そこから仲良くなるのが恋愛ものの王道だ。

 当然、女は美人。男も美人と釣り合いのとれる俺みたいな路線でよろしく。そうでないと絵にならないし夢もないだろ。

 エントランスの壁に架かっている大きな鏡を横目で眺めながら俺は金髪に染めた髪を手ぐしで整えた。白金に見えるのは背後の夕陽に透けているせいだ。鞄の中には今から返却する本が数冊。

 たまに「運命の出逢い」をやりすぎて図書館で見かけた女が元カノに瓜二つだったりするんだぜ。ハルキ・ムラカミじゃあるまいし、そんな偶然あるかっての。

 現実にはそんなシチュはまったくない。ぶつかって本を落とすくらいはあっても、相手が妙齢の若い男女で恋におちるということはさらにない。ましてや美人? どこの世界にいるんだろう。俺に群がってくる女どもはみんな頭が空っぽの並ばかりだ。

 そう想っていた。その日、図書館で彼女に逢うまでは。



 トマトを末期の病床で齧るのは誰だっけ。

「レモンと間違えてると想う。それは『智恵子抄』のレモン哀歌よ」

 彼女がトマトではなくレモンだと云った。

 いや、確かにトマトだった。俺はホテルの天井を見上げながら想い出そうとした。

「暗くして欲しい」

「ああ、分かる分かる。すごい恰好になるもんね女の子は」

 いちばん弱い灯りだけを付けて後は全て消した。隣りにいる彼女の姿は最初はほとんど見えなかった。そのうち眼が慣れて、暗闇に浮かぶほのかな肢体に想いきって手をのばした。

 彼女の脚には古傷がある。長い間この深い傷のことを想ってきたから間違えようもない。暗くしたので傷跡は見えないが位置はちゃんと憶えている。シャワーを浴びた後の彼女の片脚を抱きかかえてそこに唇をつけた。

 照明が赤いので余計にトマトを思い浮べてしまうのだろうか。死にかけの病人にトマトを与える逸話。

 口端から零れ落ちてゆくトマトの果肉。それが血を吐いて死ぬことを暗示させるのだ。

 暑い夏と、熟れたトマト。

 収穫の季節と終戦記念日が重なっているからなのか、それとも戦友の遺体を表現する時に潰れた赤い実がよく登場するからなのか、俺の読んできた戦争ものの中にはトマトが頻繁に登場している印象がある。


 暗闇の中で彼女が俺に訊いた。

「どうして泣いているの」

 図書館でぶつかった時にお互いすぐに分かった。結ばれる相手は初対面から分かるというが、まさにそんな感じだ。格別の美人ではないが誰よりもかわいく想える。惚れるということはそういうことだ。笑えることに、俺は髪を金髪にして耳にピアスをつけた職業ホスト。会社帰りの彼女は黒髪で地味な化粧のスーツ姿。それだけで互いの歩んできた道が分かろうものだ。

「レモン哀歌だと想う」

 彼女がなおも云う。よほど印象的な詩だったらしい。妻智恵子を恋い慕うあんな詩を書き続けながら、智恵子の発病前から夫婦仲はとっくに破局しており、高村光太郎は滅多なことでは狂った智恵子を見舞いにも行かなかったのだが。

「俺にとっての末期の詩といえば、やっぱり『あめゆじゆとてちてけんじゃ』の方だな」

 手探りで彼女の背中を撫ぜると、彼女はくすぐったそうに脚をばたつかせて笑った。汚れた毛布の中で俺たちはいつもこうやっていた。ぬいぐるみを間に挟んで顔を寄せ合い、囁き合っていた。

 今日はお母さん早く帰ってくるかな。



 あめゆじゆとてちてけんじゃ。

 みぞれを取って来て、お兄さん。

 『永訣の朝』をかいた宮沢賢治は、妹を女として見ていたふしがあるという。妹のとし子が死んだのは二十四歳。賢治はその時二十六歳だ。

「初読ではもっと小さな女の子が死んだ時の詩かと想ってたわ」

 俺も彼女の感想に同意だ。

 実際には賢治は泣きながら押し入れに顔を突っ込んで出て来なかった。臨終詩『永訣の朝』は妹とし子の死後、後から書かれた創作なのだ。兄妹の近親相姦説はその時の彼らが二十四歳と二十六歳と知ると生々しい信憑性を帯びてくる。偶然だが今の俺たちと同じ歳だ。実際にどうこうではなくて精神的にということなのだろうが、賢治が二つ下の妹に強い感情をもっていたとしても俺はふしぎには想わない。

「それはとてもいやらしいことのように想えるけれど、わたしはそうじゃないと想うのよ」

 枕に顔を半分埋めて彼女は言葉を継いだ。ブリーチを繰り返してぱさついた俺の髪とは違い、彼女の黒髪は幼い頃のままだ。ひもじい時、俺たちは読書に逃避行した。それは大人になってからも変わらない。それが俺たちを図書館で再会させたのだ。 

「当時の人たちは今よりももっと行動範囲が狭くて、とくに女性は生まれた村から一歩も外に出ることなく生涯を過ごすひとが大勢いたの」

 想像もできないが、それは本当なのだ。畑の向こうに視界を遮る山でもあれば、その向こうに同じような村があり人々がいることなど知らないままに生まれた村で死ぬ女は多かった。知識としてあることは知っていても、女たちの概念の中に外の世界はないに等しいものだったのだ。

「男性にとって身近なお母さんや女のきょうだいは、最初の思慕の対象であり、長じては保護するものでもあり、なんていうのかな、女という性の象徴そのものだったと想うのよ。宮沢賢治の詩の中に出てくる賢治の妹はまるで尼僧のようだわ。母であり姉妹であり、愛する妻であり護るべき娘でもある女というもの。妖婦でもあり聖女でもあるそのすべてを、男とは違って小さな世界に暮らして死ぬだけの妹の中に、ちょうど動かない肖像画を仰ぐようにして賢治は投影していたのではないかしら」

 宮沢賢治ねえ。

 延長を泊まりに変更するとフロントに伝えた後で、俺はまだトマトのことを考えていた。

 愛好家には申し訳ないが、宮沢賢治は現代に生きていたら妹萌えのヤバい漫画でも描いているような男だろうと俺は睨んでいる。男なら誰でも「無理するなよ」と云いたくなるような禁欲生活を送っては、我慢が続かずに結局破綻しているしな。宮沢賢治の作品は俺も好きだ。図書館で全集の背表紙を見つけるだけでも、藍色の空と金色の星が西洋音楽の鄙びた伴奏つきで脳裏にきんきんと広がる。オルゴール函を開けるようにして、春の夜の冷気と、青菜の香りがしてくるようなのだ。

 だけど男としては変な奴でしかない。いやマジで無理するなよ賢治。途中で禁欲主義から変節したのはナイスチョイスだ。だだ洩れになっている幾つかの詩や絵画からも分かるようにお前のそれは変質者になるパターンだったからな。

「何を考えているの」

「べつに何も」

「お兄ちゃん」

「それ、何度きいても嬉しい」

「お兄ちゃんと結婚できなくて残念」

 彼女は俺に身を寄せてきた。彼女の体型と俺の眼もとは俺たちの母親に似ている。コンビニで買った一つの弁当を二人で分けて食べて、たまにはシャワーを浴びて、長い夜の間ふたりきりで水商売をしている母親の帰りを狭いアパートで待っていた。そのうち妹から先に眠りに落ちるのだ。

 さそりの眼玉のような徐夜灯。強く眼を閉じると瞼に浮かぶ、かささぎの白い橋。暗い野原を駈けて星空で猟をしているインデアンの羽根飾りと、まだ俺たちが聴いたこともない交響曲というもの。古本回収に出されたゴミから拾い集めてきたぼろぼろの絵本を、テレビの幼児番組で文字を覚えた俺が読み上げる。俺がひらいていく童話の世界を妹は近くからじっと聴き入っていたものだ。

「入籍はできなくとも同居はできる。子どもを作らなければ誰にもばれない」

 図書館から妹の手をひいてこのホテルに直行した。彼女はおとなしく付いてきた。妹のからだは、秘密の木陰で朝露にぬれていく小動物のようだった。



 けふのうちに

 とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ


 壊れたおもちゃの破片で脚を切った妹の血が止まらない。ひと箱が空になるほどのティッシュを妹の傷口に押し当て、それでも足りずにタオルを持ち出し、ついには外に飛び出して俺は通りすがりの大人に救いを求めた。

 この世の終わりかと想うほど怖かった。妹が死んでしまう。妹が死んでしまう。

「あの朝、みんながわたしに嘘をついていた。この人たちとお出かけするだけだよ。お兄ちゃんもわたしに嘘をついていた……」

 後で知ったが俺たちは放置子として既に近所では有名な存在だったらしい。まあそりゃそうだな。

「でもわたしには分かっていた。もう逢えなくなると知っていた。だから新しい家に着いても何も云わず誰にも訊かなかったの。それでもいつかまたお兄ちゃんに逢えると信じてたわ。大人になったら探すんだと決めていたわ」

 母親が置いて行った金が足りない時には菓子パンを万引きしたし、夏場に電気が止められた時は商業施設のフードコートに歩いて行って無料の冷たい水をよく飲んでいた。そのうち俺たちは図書館をみつけた。夏は涼しいし冬はあたたかい。そこには本がたくさんあった。たまに司書が紙芝居を見せてくれる。なんだここは。天国なのか。

 たまにアパートに顔を出す推定父親らしきアル中の男Aは俺のことを殴る蹴るで、男が来ると俺は妹を押し入れに隠し、声を押し殺してひたすら耐えた。あの人と遊んでいるだけなんだ。プロレスの技を教えてもらっているだけなんだよ。

 推定父親候補の男Bもいた。こちらは実の娘なんだかどうなんだか知らないが、妹を膝にのせてベタベタ触っていてクソきもかった。今でも見かけたら殴ってしまうかもしれない。

 やがて妹の大怪我をきっかけにして俺は児童養護施設に、妹は養子縁組で知らない夫婦に引き取られていった。

 それでよかった。あのままだといずれ俺は推定父親Aに殺されるか、推定父親Bを殺していただろうから。



「引き取られた家で、はじめてトマトを食べたの。びっくりするほど不味かった。絵本の中のトマトはあんなに美味しそうだったのに」

 実は、俺もトマトが喰えない。妹の脚の流血をみて以降、トマトがまったく喰えなくなってしまった。それだけでなく読んでいる本の中に戦争とトマトが出てくるたびに心臓がどくどくしてしまう。心的外傷とやらだろう。眼の前が真っ暗になって駄目だ。

 はじめて『永訣の朝』を高校の授業でやった時、立てた教科書に隠れて俺は泣いた。揃いの模様のついた欠けた茶わん。

 逢いたい。

 そんな、死にかけの耄碌じじいみたいな願いだけがどうやら今までの俺を支えていたに違いない。安堵のあまりベッドで俺はほろりと涙をこぼしてしまい、「どうして泣いているの」妹はそんな俺の頭を胸に抱えて何度も云った。

 もう泣かなくてもいいのよ。もう私たちは離れないのだから。

 妹に逢えた歓びと妹と結ばれた歓びと、そんなぐちゃぐちゃしたものをまとめて俺は妹に甘えた。

 逢いたかった。ながかった。

 やがて、俺は照れ隠し半分に云った。

「少し灯りをつけてもいいだろ」

「恥ずかしいからだめ」

「風呂に入ろうか。昔みたいに一緒に」

「お風呂ならはいる」

「入るんだ」

「うん」

 毎回の謎だ。灯りがついているのには変わりないのに、なんで女は風呂ならいいんだ。

 湯が熱すぎたので少し水を足した。隣室で妹が騒いでいる。

「お兄ちゃんがわたしのパンストを破った。後で買って来て」

「予備を鞄に入れとけよ。男が丁寧にパンストを脱がすと想うか?」

「脱がすわよ。みんなきれいに下げてくれたわよ」

「ふつうは女から脱ぐって」

「売れっ子のホストってそんな感じなの? それからお風呂も照明は落としておいて」

 わー、俺たち兄妹喧嘩をしてる。

 宮沢賢治のことを変態よばわりして笑う資格は俺にはない。でも俺は妹を抱いた自分のことを変態とは想わない。べつに崇高でもないけどな。

 とてもベタな再会だった。図書館でぶつかって手にしていた互いの本が床に落ちたのだ。「すみません」落ちた本を拾おうとして俺は身を屈めた。

 眼線の先に彼女の脚の傷が見えた。 

 俺はしばらく固まっていたと想う。床に吸い込まれるかと想うほど放心していたはずだ。妹も同様だった。

 お兄ちゃん。

 やがて妹がそう呼んだ。我に返るのは妹の方がはやかった。まず最初に云われた。やだ、金髪なんて。ホストみたい。

「都合がつく日は、わたしもここに来ていたの」

 逢いたかった女が眼の前にいる。

「お兄ちゃんと図書館に通ったことを憶えていたから、画像検索でようやく憶えのある外観の図書館を見つけて、時々来ていたの。逢えるかも知れないと想ったの」

 養護施設を出た俺はむかし住んでいた街に戻って暮らしていたのだ。妹と通った図書館があるこの街に。

「きっと同じ気持ちでいるって、お兄ちゃんもこの近くにいるって、そう想ってたわ。すぐに分かった。だってお別れする最後の日まで、自分のせいだ、怪我をさせたのは自分のせいだと悔しそうに云いながら、お兄ちゃんは今と同じ眼をしてわたしの脚の傷を見ていたもの」

 別れの朝、俺は施設に引き返して妹のぬいぐるみをひっつかみ、車に乗せられた妹に手渡したのだ。あめゆを庭から取ってくるあの詩の中の男のように。

「どうして忘れることがあるの? わたしの世界の全てはお兄ちゃんだけだったのに」

 図書館から俺たちはそのままホテルに行った。そうしない理由もなかった。いま気が付いたが職場のホストクラブを無断欠勤してしまった。きっと今ごろ常連の女たちが怒っているだろう。何人かはナンバーワンを競っているライバルに持っていかれるかもな。まあいいか。

「返却期限を過ぎてるわよこれ」

 俺の借りた本に差し挟まれた返却予定日のしおりをみて、明日また図書館に行こうと妹が俺を誘っている。明日はせっかくの土曜日だ。自慢のフェラーリに乗せてやろうと想ったのに、ドライブするより図書館のほうがいいらしい。

 いつも並んで座っていた椅子。今度は二人とも脚が床に届く。

 ぎんがてつどうのよる

 はじめて妹が自分でひらがなを読んだ絵本がまだあそこの棚にある。

 そのうち俺もトマトを喰えるようになるかもしれない。

 


[了]

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