第8話 二人の母
あれから、眠って起きてを何度も繰り返して、本当に目覚めたのは事故に遭ってから三日経った日の昼だった。
ようやく体の感覚が戻ってきた。利き手の右腕や右足が使えないのは辛い。
実は、息を吸う度肋骨に響いて苦しい。
けれど、芳乃さんが俺を戻してくれた。
それだけじゃない、俺の命も守ってくれたのだ。
また、芳乃さんの咄嗟の判断に救われた。
芳乃さんに会いたい。
諸々の検査を受け、明日の朝には一般病棟へ移ることが決まった。
会えるかもしれない。病室、近いとかないのかな。
なんてことを、つい考えてしまう。
車椅子でスマホが使えるエリアに連れてきてもらった俺は、母さんが来るのを待っていた。
「あんた、そのニヤけた顔やめなさい。」
急に聞こえた声に驚いて飛び上がり、折れたところ全部に響く。
「…いってぇ…。」
涙が滲んでうずくまる事しか出来ない。
やっと痛みが引いた頃、声の主が一番聞きたくないことを口にした。
「今日、芳乃さん転院していったわよ。さっき、見送ってきた。」
何? 何で? 早すぎるよ、芳乃さん。
頭の中が真っ白になって動けない。
やっとのことで口を開く。
「…は…早すぎるだろ。それに、何で母さんが見送ってるんだよ。え? 俺に何も言わずに行っちゃったの?」
「彼女のお家に近い病院に丁度空きがあって、リハビリするにもいい環境らしい。」
「いやいや、だから。俺じゃなくて、何で母さんが見送ってんの?」
何だか、変な嫉妬心が湧いてくる。
「ん~? 私と芳乃さんが親友だから。」
「はあ?! いつの間にそんなことに、っていってえぇ!」
痛みに苦しむ息子を見て、「大声出さないの」と笑っている母親。
何時も励ましてくれる尊敬すべき母だが、今だけは憎らしい。
「あんたが一度目を覚ました後、芳乃さんと話したの。」
「芳乃さん。」
集中治療室から少し離れた壁際で車椅子の女性が肩を震わせて泣いている。
ここまで、動きづらいだろうに頑張って移動してきたものだ。
震える背中をゆっくり擦ると、ずずっと鼻を強く啜って顔を上げた。
「芳乃さん、ありがとう。和弘を目覚めさせてくれて、守ってくれて。ありがとう。今はまた眠ってしまったけど、バイタルも正常に戻っているって林先生が仰ってた。」
「戻って来てくれて本当に良かった。」
真っ赤になった瞼から滝の様に涙を流して、八の字眉の笑顔で見つめてくる。
彼女を抱きしめて、頭を撫でた。
右手をぎゅっと握り、溢れる涙を堪えているのを見て、今までどれだけ一人で耐えてきたのかと想う。
「あなたという人が居てくれて、本当に良かった。ねぇ、もう一度和弘に会いに行かない?」
彼女はすぐさま頭を横に振って、
「このまま、帰ります。」
ただ、前を真っ直ぐ見据えて答えた。
彼女は強い。でも、脆いから耐えている。
もしかしたら、いや多分、自分は相応しくないと思っているのだろう。
そんなことはない。
だって、彼女は誰よりも和弘を想ってくれる人だから。
「本当に、頑固ね。病室まで送らせて。あっ、それから連絡先教えて頂戴。」
「へぇっ?! な…何で、ですか?」
「ふふふ、貴女ともっと話したいからよ。ああ、そうだ。
私の名前をおしえてなかったわね。冴えるっていう漢字一文字で『さえ』よ。
これからよろしくね、芳乃さん。」
何とも言い難い顔で項垂れているけれど、何となく嬉しそうにも見えた。
病室に戻ると、スマホの電話番号やら聞き出して登録した。その日の夜にメッセージを何度か交わした。『ご飯食べた?』『おやすみ』とかそんな程度の。
次の日の朝、メッセージが届いた。
『転院先が決まりました。家から近くて、リハビリするにもいい病院です。ベッドの空きもあるそうなので、これから直ぐに移ります。』
和弘に会いに行く前に、芳乃さんの病室を訪ねると自分の荷物を纏めている芳乃さんと只見ているだけの女性がいた。
その女性は、置物の様にそこに居るだけ。
「芳乃さん、手伝うわ。何か出来ない?」
「冴さん、大丈夫です。もう、終わります。」
「でも…」
左側を使えない状態でかなり辛いだろう。
「それに、リハビリにもなるかも。」
にっこり笑っているが、悲しそうだ。
「あの…どちら様で?」
置物の女性に声を掛けてみる。
目線だけこちらに向けただけ、それだけ。
「は…母です。連絡がいったみたいで来てくれて。ごめんね、お母さん。ありがとね。」
ちらと芳乃さんを見て、呟いた。
「入院代とか払えないわよ?」
「大丈夫。迷惑は絶対に掛けないから。」
「そ…。じゃあね。」
待ちなさいと言いそうな私に、芳乃さんの手が腕を掴む。
振り向くと、顔を横に振る。
女性は病室を出て行った。
「私が小さい頃に父が亡くなって、私を祖母に預けて直ぐに再婚したんですが、上手くいかなくて何度も再婚を繰り返して。今は、一人で父の思い出に耽って。私が見た中で、今が一番幸せそうなんです。」
「それって、芳乃さんの事はほったらかし?」
「いえ、私には祖父と祖母が居ましたから。厳しかったけど、お前は可愛い孫だよって抱きしめて貰えたので。大学も出させてもらって、感謝しているんです。」
それで十分なんて、泣きそうな笑顔で返してくる。
なんなの? こんなに優しい娘を放っておくなんて、どこが母親なの?
「冴さん、本当は私、人をちゃんと愛する自信も。母親になる自信もない。」
俯いて、ベッドに腰かけ芳乃さんは言った。
「母親から愛してもらった記憶がない。愛した人は、最終的に犯罪者になってしまった。だから、決めたんです。子を育てられる自信が無いから私は、子供を産まない。でも、教育者なら生徒は育てられると思ったんです。だから、私は教師をしています。」
違う、あなたは誰よりも愛情に満ちていて母親にふさわしい人。
ドアが開かれ、『車が来ましたよ。』と看護師が告げる。
『はい』とにっこり笑って返事をする彼女を、抱きしめる。
「冴さん? えっと、あの。」
「芳乃さん、一つ言わせて。独りで抱え混んでるもの全部放り投げてしまいなさい。貴女は、これから沢山愛されて、沢山愛して生きていくの。まずは今から、私があなたの親友になるわ。」
「はい?!」
「連絡するから、ちゃんと返しなさい。それから、和弘にも連絡してやって。あの子、会えない上に連絡すら取れないとなったら病院抜けだしかねないから。」
「…はい。分かりました。」
有無を言わせない私の表情に、一瞬たじろいでいたけど、何とも言えない顔で返事をした芳乃さんを車椅子に乗せて、玄関で見送った。
「いや、ていうか、なんなんだよ。その母親? 何してんの、母さん! 訳分かんねぇ! っし、いってぇ!」
俺は、短時間で拷問を受けているのだろうか。痛いやら、悔しいやら色んな感覚と感情に晒されている。
芳乃さんにそんな生い立ちがあったなんて。
芳乃さん、何で母さんに話したの?
俺が、最初に聞きたかったよ。
辛いことも、悲しいことも全部、全部。
俺は、やっぱり芳乃さんが好きです。
丸ごと受けてめて、一緒に乗り越えたい。
「あんた、見る目あるわ。応援するから。チベットスナギツネ、卒業おめでとう。」
「だから、チベットスナギツネって何だよ。」
「知らないの?」
と、見せられたスマホには物凄く据わった目をしているキツネの画像。
「うわ、かわいくねぇ。」
只でさえ体が痛いのに、可笑しくて体が震えて痛みが充満していく。
これが、芳乃さんが守ってくれた生きてる証か。
それなら、痛いけど全部受け入れよう。
芳乃さん、あなたに絶対に会いに行きます。
あなたに、会いたい。
どんな痛みだって、苦しみだって乗り越えてやる。
そう思っていたのに、スマホを見て気が緩みそうになる。
『リハビリ、頑張りましょう。お互いに。』
送り主は『蒔田 芳乃』。
最速で、会いに行きますから。
その隣で、母さんが『あ、芳乃ちゃん病院着いたって』なんて言っている。
くそっ! 何で俺だけじゃないんですか。
いや、芳乃さんらしいよな。
『早く治して、必ず会いに行きます。』
メッセージには、直ぐに既読が付いた。
読んでくれたと思うだけで、笑みがこぼれる。
よし、明日からリハビリに精を出さなきゃ。
廊下の先の窓には、赤々と沈んでいく夕日が見える。きっと明日も晴れだ。
俺と芳乃さんの未来が、これから晴天続きでありますように。
********
これでよし。冴さんに転院先が決まったとメッセージを送って一息つく。身の回りの荷物をまとめなければ、そう思って片手でタオルやらを畳んでいた。
病室のドアがのろのろと動いているのに気が付いて目を向けると、もう何年もあっていなかった母が立っていた。
「お母さん。どうして?」
「学校から連絡来た。一応、見とこうと思って。」
私に目も合わせずに無表情のまま小さな声で話す、小さな母。親族も居ないのに緊急連絡先を書かなくてはいけなくて、母の連絡先を苦し紛れに書いたんだった。
繋がったという事は、あれからずっと同じ住所に居るのか。
「そう、来てくれてありがとう。良ければ、ここに座って。」
促すままにすとんと座って、遠くを見ている。きっと、今も父の面影に縋っている。
私がまだ歩くのもままならない頃に父が事故で亡くなった。母は、父が死んだ事が受け入れきれず、むしろ居なかった者として半年年ほどで再婚した。
祖父と祖母に押し付けるように私を置いて、会いに来ることはほとんど無かった。再婚しても父の事が忘れられない母は、何度も離婚と再婚を繰り返した。
私が大学を出て教師になった頃、急に会いたいと連絡が来た。
嬉しいとは、思わなかった。私を育て、大学まで出してくれたのは祖父と祖母だから。愛情深く育ててくれた父と母は、まさしく祖父と祖母だ。
祖母が、会わないでいいと皺とシミの増えた手で私の手を握りながら言ってくれたけど、会いたい気持ちもあったのだ。
母と再会した時、あまりにも年老いていて驚いた。四十代後半とはいえ、真っ白な髪と虚ろな眼差し。何年も着古しただろう服は、袖がほつれていた。
細い体を丸めるようにベンチに座っている。
最初は、声を掛けても返事もなかった。
「とりあえず、ここに落ち着いたから。今はあの人と一緒に居るの。連絡先だけ渡しておく。私に何かあった時に、父さんの所に連絡がいくようにしてある。それだけだから。じゃあ。」
只の独り言みたいに呟いて、すっと立って歩いて行った。一度も私を見なかった。
今見えているのは、父との思い出だけ。
不思議と悲しいとは思わなかった。
母と私の関係は、こういうものだ。
それから何年も経ったのに、母は私に会いに来た。今はただ、椅子に座っている。
恐らく、何かの気が済めば黙って帰っていくだろう。転院の準備を進めることにした。
少ない荷物でも、やっとのことで纏め上げた時、冴さんが病室にやって来た。
心配そうに私に声を掛けた後、怪訝そうに母をみて誰かと尋ねたので
「は…母です。連絡がいったみたいで来てくれて。ごめんね、お母さん。ありがとね。」
今、初めて目が合った。
「入院代とか払えないわよ?」
「大丈夫。迷惑は絶対に掛けないから。」
「そ…。じゃあね。」
それだけ言って出て行こうとする。
『え?』
驚いて、声にならない。
まだ何か言いたそうにしている冴さんを慌てて止めて、何もしなくていいと首を振る。
冴さんは不満そうだったけど、私の怪我を労って神様がささやかな贈り物をくれたらしい。
去る間際の母の顔は、何故かほんの少し微笑んで見えた。ただ、それだけ。
けれど、それ以上に鬱々とした気持ちが溢れて。気が付いたら、冴さんに愚痴を零していた。
「独りで抱え混んでいるもの全部放り投げてしまいなさい。貴女は、これから沢山愛されて、沢山愛して生きていくの。まずは今から、私があなたの親友になるわ。」
冴さんが、私を抱きしめてそう言った。
それから、和弘さんへの連絡などなど約束させられてしまった。
この年になって、親友が出来るとは…。
玄関で冴さんと別れ、移動の車内で先程の出来事を反芻する。やっぱり、嬉しい。
車が転院先の玄関前でゆっくりと止まる。
入院の手続きを終えて、新しい病室へ行く前にスマホの使用可能エリアでメッセージを送らせてもらう。
『リハビリ、頑張りましょう。お互いに。』
和弘さんにそう送った後、冴さんに病院に付いたとメッセージを送った。
『早く治して、必ず会いに行きます。』
トーク画面も消さないうちに返信があった。
和弘さん。私、和弘さんの事が好きです。
あなたに会いたい。
だから、リハビリ頑張ろう。
看護師さんにお礼を言って、病室へ向かう。
廊下から見える夕日が赤々と燃えている。
明日も天気だろうか。
和弘さんとの未来が、少しでも晴天でありますように。
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