第7話 もう一度、手を繋ぐ
「絶対に、戻します。和弘さん。」
目の前には、青白い顔で眠る和弘さんが居る。
車いすに乗って、機械音が響くこの場所にやって来た。
うまく行かなかったらと思うと、体が震える。
滲みそうになる涙を無理矢理に引っ込めて、一息吐いた。
時間は、今から面会終了まで。日はまだ高いが、のんびりしていられない。
右手を和弘さんの左手に重ね、恋人繋ぎをする。
そうして、そのままベッドに体を寄せ『和弘さん』と呼びかけながら目を閉じた。
一時間前―。
先生が和弘さんの家族と連絡を取ってくれ、
病室にご両親と先生の三人がやって来ていた。
和弘さんのお母さんは、部屋に入るなり私の右手を上からきゅっと握ったまま隣に座っている。それを、不思議そうに先生と男性が見ていた。
「改めて、成川さんの怪我の事大変申し訳ございません。お時間を作っていただきありがとうございます。」
頭を下げる。右手がぎゅっと握られて、ゆっくりと顔を上げご両親を見る。二人とも、眠れていないのだろう。クマができていた。
「まず、この事故は私が招いたことです。謝罪してもしきれません。犯人が捕まったとはいえ、私が居ることで息子さんやご家族に不快な思いをさせたくありません。
それで、先生。早急に転院先を見つけて頂けないでしょうか?」
「それは、可能ですが…。」
「芳乃さん、そんな事思っていたの?」
「はい、本当に申し訳ございません。」
「芳乃さん、聞いて。昨日も言ったけど、きっとあの子はあなたを想っているわ。」
隣の父親であろう男性が、聞いてないぞという顔をして驚いている。
「でも、私は自分が許せないんです。」
もう一度二人を見ると、
「そう言う事なら、仕方ないんじゃないか。気持ちは、分からなくもないよ。」
「お父さん、和弘の事何にも分かってないでしょう。」
「そうだとしても、彼女が言っていることも、事実だよ。」
ご両親が見つめ合った後、私の目を見て呟く。
「あなたも、頑固ね」
少しの間。沈黙を破るように、
「本当にそれでいいんですか?」
と、先生が確認してきた。
「はい、お願いします。ただ…、一つだけ我儘を聞いていただけないでしょうか。最後に一日、数時間でも和弘さんの傍に居させて下さい。お願いします。」
「ぜひ、そうしてあげて。先生、私からもお願いします。」
そうして、何とか面会が許された。
目を閉じて、和弘さんを呼ぶ。何度も、何度も。暗闇が続いている中、進み続ける。
暫くすると、うっすらと明るい光が見える。
どんどん離れて行くような気がして、慌てて走ってその光に飛び込んだ。
目を開けると、誰かと手を繋いでいる自分の右手が見えた。頭はその人の右肩に乗せられて後ろから抱きしめられているようだ。
見上げると、和弘さんの横顔が直ぐ近くにあった。体全体で、抱きしめられる。
『酷いです、芳乃さん。急にあんな風に離れて行くなんて。病院も変えるなんて勝手に決めて。』
抱きしめられた体をゆっくり起こして、しっかりと目を合わせると大きな瞳からぼろぼろと涙が溢れている。
離れたくない。思わず涙が溢れて、暫く二人で見つめ合いながら泣き続けた。
『ごめんなさい。聞こえていたんですね。
でも、やっぱりこうするしかないと思うんです。和弘さんの為に。』
『俺の為を想うなら、そばに居てください。』
和弘さんの右腕で体を抱き寄せられる。
左腕を背中に回して、抱きしめる。
でも、分かる。繋いでいる掌の結びつきが弱くなっている事に。
どちらからともなく離れて、二人で繋いだ掌をそっと離してみる。あれだけ離れようとしなかった掌が細い糸の様な光だけで繋がっている。無理に引き離したからだろう。今にも途切れて消えてしまいそうだ。
けれど、これなら戻せるかもしれない。
『もう、帰る時間です。和弘さんの体が、もうそろそろ限界を迎えそうです。ここで、聞いていましたよね?』
和弘さんは、ただ見つめて何も答えない。
『和弘さん、あなたの笑顔が大好きです。でも、今ここにいる和弘さんの笑顔じゃない。
教育者として、一人の人間として、生きている和弘さんの笑顔です。』
そっと、左手で頬に触れてゆっくりとキスをする。押し付けるように重ね合わせ、お互いに目を閉じる。最後にぎゅっと握り合って、どちらともなく掌を引きはなした。
頼りない光の糸が、ぷつんと切れて完全に離れた。一気に寂しいという感情が駆け巡る。
二人の顔が離れて、見つめ合う。
どこからか、風が吹いてくる。その風の勢いがどんどん増しているようだ。
『え? 俺、引き寄せられてる?』
和弘さんの体が、ふわりと浮いていく。
見送ろうと、立ち上がる。そうして、どんどん後ろへ引き寄せられていく。
『芳乃さん、俺、あなたが好きです。絶対に、あなたに会いに行きます。』
勢いを増して吸い込まれていく中、手を伸ばして彼が叫ぶ。
付いていきそうになる足を、その場に留めて立ち止まる。
『私も、和弘さんが好きです』
小さくなる姿に、大声で叫ぶ。
一気に速度を増して、和弘さんは消えた。
私の中から居なくなった。へたりと、膝から崩れ落ちて座り込む。
そうして、ふっと意識が飛ぶ。
はっと目を覚ますと、機械音が聞こえる。
慌てて体を起こすと、さっきよりも顔色が良くなった和弘さんの顔が見える。
繋いだ手をぎゅっと握ると、弱々しいながら握り返した気がした。
「和弘さん、分かりますか。和弘さん!」
微かに瞼が振動して、ゆっくりと開かれる。
焦点の合わない視線が、私に顔を向けることで合わさってくる。再び、手に力が込められる。瞳から、涙が一筋流れていく。
看護師さんやご両親がベッドに駆け寄る。
そっと繋いだ手を離して、右手と右足で何とか集中治療室を出ようとする。扉の前まで進んだら、和弘さんに呼ばれた気がした。
振り向きそうになるけれど、そのまま治療室を後にして壁際に隠れる。
戻ってきた、和弘さんが体に戻った。
嬉しいのに、体の中に大きな隙間を感じる。
ぽっかりと空いた穴に寂しく感じて一人声を潜ませながら泣いた。
********
芳乃さんが、俺を引き剥がしていった。
自分のせいで怪我をさせたと後悔して、もう会わない事も考えていた。
その芳乃さんは、俺の隣で目を瞑っている。
現実世界の方へ行っているんだろう。ここに居る以外はいつもそうだ。
さっき引き剥がされた掌は、電線がショートしたみたいにバチバチいっている。
芳乃さんの体を抱き起こして、頭を肩に乗せると、抱っこするように体全体で包み込む。
もう一度、掌を合わせると光る糸みたいなものがお互いから伸びて弱々しく繋がった。
これが今の繋がりなのか。もう一度指を絡めて握ると芳乃さんが見たり、聞いたりしているものが辛うじて感じられた。
警察の人が来て、玖木の事を聞いているようだ。殺されそうになったのに、芳乃さんはあいつを庇おうとするのか?
『そんなの、絶対にダメです。』
そう強く伝えたら、気が変わるだろうか。
芳乃さんの中に入ってから、俺が思っていることも中から伝わっている様だから今度も外へ向けて伝えてみようとする。
けれど、芳乃さんの方が先に気持ちを変えたらしい。良かった。今度は、俺が守る。
でも、体無しで守る事なんて出来るのか?
芳乃さんを抱きしめながら、今更ながらに焦りだす。
自分の体に居れば、骨折していようが治せば芳乃さんに会いに行ける。
ここに居れば、誰よりも芳乃さんの傍に居て勇気づけられるかもしれない。
離れたくない。でも、芳乃さんの為になるのは、どっちだ?
『…私と一緒に居る方が一番いいんだから…』
途切れ途切れに加恋の声が聞こえてくる。
まさか、芳乃さんに会いに来たのか?
『私も、そう思います。』
え? 本当にそう思っているの?
俺と他の誰かが一緒になることを、望んでいるの?
『だって、和弘には私だけ見ていて欲しい。
私だけを見て、好きだって言ってほしい。他の人間を見るなんて嫌。』
『それでは、成川さんが笑えなくなります。』
その言葉の後に、この空間いっぱいに思いの波が広がっていく。
彼の大好きな部分を否定しないで。
芳乃さんが、俺のことで怒っている。
加恋を睨んでいる感覚もある。
その感情が、愛しくて俺の中にいる体をぐっと抱きしめる。
そのうちに、聞きなれた声がしてくる。
『和弘が加恋ちゃんと別れて、他の人と前に進みたいと思うなら私はそれを受け入れるつもり。』
母さんの声だ。
そんな風に思ってくれているの?
やっぱり、芳乃さんの事好きなのかも。
いつも俺を応援してくれる母さん。
『母さん』
俺が目を覚まさなきゃ、母さんや家族を泣かせる事になるのに。
いつの間にか、声も感情も本当に小さくしか感じなくなっていた。心なしか寒い。
微かに聞こえてくるのは、芳乃さんが転院したいと話す声。今度こそ、俺の前から居なくなるつもりだ。
芳乃さんは、頑固だ。こうと決めたら揺らぐことも、やめる事もない。
でも、俺もこう見えて結構頑固だ。離れて行ったとしても好きな気持ちは変わらないし、絶対に会いに行く。
元の体に戻れたらの話だけれど。
俺の中にいる芳乃さんを抱きしめながらただ時間だけが過ぎていく。
しかし、妙だ。今まで風が吹いたことのない空間なのに、さわさわとそよ風みたいなものを感じる。ついでに、背中が引っ張られているようなじんわりと温かいような感覚。
戻らないと、俺と芳乃さんと家族の為に。
戻る、絶対に自分の体に。
けれど、戻れるかどうか不安も襲う。
情けないけど、涙が滲んで止められなくなって、ぼろぼろ泣いた。
右肩にある頭が動く気配がする。
芳乃さんが、こっちに戻ってきたみたいだ。
『酷いです、芳乃さん。急にあんな風に離れて行くなんて。病院も変えるなんて勝手に決めて。』
ついいじけた言葉を言ってしまった。
『ごめんなさい。聞こえていたんですね。
でも、やっぱりこうするしかないと思うんです。和弘さんの為に。』
『俺の為を想うなら、そばに居てください。』
体を抱き寄せると、抱きしめ返してくれる。
芳乃さんが掌の変化に気づいたようだ。
光る糸を見て、少し頷いている。
『もう、帰る時間です。和弘さんの体が、もうそろそろ限界を迎えそうです。ここで、聞いていましたよね?』
さっき感じた寒さはそれか。何も答えず、ただ芳乃さんを見つめる。
『和弘さん、あなたの笑顔が大好きです。でも、今ここにいる和弘さんの笑顔じゃない。教育者として、一人の人間として、生きている和弘さんの笑顔です。』
右頬に手が添えられて、ゆっくりと芳乃さんの顔が近づいてくる。下から押し上げられるように重なる唇。この感覚を忘れたくなくて集中するように目を閉じる。
最後にぎゅっと握り合って、どちらともなく掌を引きはなした。
糸が、ぷつんと切れた。二人で見つめ合う。
ちょっと前から感じていた背中を引っ張られる感覚が一気に増し、風の勢いがどんどん増していった。体全体が軽くなる。
『え? 俺、引き寄せられてる?』
体が、ふわりと浮いて後ろへ引っ張られていく。
戻れるのか、いや、これは確実に自分の体に戻っている。
でも、その前に伝えないと。
『芳乃さん、俺、あなたが好きです。絶対に、あなたに会いに行きます。』
泣きながらその場に立ったままの芳乃さんに、手を伸ばして叫ぶ。
『私も、和弘さんが好きです』
小さくなる姿が、聞きたかった言葉を叫ぶ。
一気に暗闇の中へ引っ張られ、何も見えなくなった。
あれだけ軽かった体が、凄く重いし動かせない。微かに機械音が聞こえてくる。
左手にぬくもりを感じて、力を入れようとするが上手く力を込められない。
「和弘さん、分かりますか。和弘さん!」
ダイレクトに耳から芳乃さんの声が聞こえてくる。自分の目で、ちゃんと顔が見たい。
左へ顔を向ければ、頭に包帯、左腕を固定された芳乃さんが見えた。芳乃さんの状態に苦しくなって、もう一度手に力を込める。
芳乃さんの声で、看護師がやってきた。
そのうちに、俺の周りが騒がしくなる。
芳乃さんが、車いすを何とか移動させて出て行こうとしている。
「……い…か…いで。い…かないで…」
何とか出した声は、掠れて小さい。
もう少しだけ、ここに居てください。
「いかないで。よしのさん」
芳乃さんの横顔がちらと見えた後、看護師が前を横切った時には姿はもう無かった。
ボロボロと涙が流れて、苦しくなる。
戻れたことは嬉しいのに、寂しくて仕方ない。それに体が重くてだるい。
神様、俺から芳乃さんを奪わないで。
急に力が抜けていく、瞼が下りてまた眠りについた。
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