第5話 集中治療室


『芳乃さん、芳乃さん』


 見上げると、どこまでも高い空、ここはどこだろう。

 もしかして、ここが天国という所だろうか。

 体の感覚がない…、いや、ある。

 右手を誰かに握られているようだ。

 私、夢の中に居るの?

 無意識にぎゅっと握り返すと、笑顔の人物がにゅっと横向きで顔を覗かせてきた。


『おはようございます。夢じゃないです、芳乃さん。やっと起きてくれた。何回呼んだことか。』


 目の前には満面の笑みの和弘さん。


『んっ?! えっと…、大分近いです。』

『ああ…すみません。もっと良く見たかったから、つい近づき過ぎました。』


 すっと顔が下がっていく先を、目で追う。

 和弘さんが、横になっている私のすぐ隣で、白いジャージの上下に裸足で胡坐をかいて座っていた。


『夢じゃない? か、体、大丈夫ですか? いつ着替えたんです? 私たち、あれからどうなって…。』


 慌てて起き上り和弘さんに尋ねてみるが、


『んー、どうなんですかね。今の俺としては痛くも痒くもないんですけど…。』


と、私と繋いだ手を揺らしつつ顔だけニコニコして曖昧な返事を返してくる。

 触れたいと願った手と、今自然に手を繋いでいる。

 やっぱり夢だと思いつつ、現状を再確認する。

 ずっと手が繋がれたままであること。

 よく見れば、いつの間にか自分も七分袖の白い膝丈ワンピースを着ている。

 足元は同じく裸足。


『ひとまず、手を放しますね。』

『芳乃さん、離れないと思いますよ。』


 和弘さんがほほ笑みながら私に言う。

 離れない? そんな訳ないと、右手を開くが瞬間接着剤でも付けられたみたいに手が離れない。

 振っても、引っ張ってみてもぴりっと痛みが来るものの離れることはなかった。


『ね? 離れないでしょ?』


 和弘さんは、ちょっとドヤ顔で私に言った。


 離れない掌をじっくり観察してみたが、全くもって構造が分からずにいた。完全にくっついているわけでは無く、掌の向きを変えることは可能だった。諦めて、また手を繋ぐ。


『ふふふ、芳乃さん。集中しすぎて、顔が可愛いことになっていますよ。』

『可愛いとか、そんな事無です。』


 気恥しくて、顔をそらす。

 それにしても、夢にしては随分と現実的だなと考えていた。


『だから、これは夢じゃないですよ。』

『え? 私が考えている事、分かるんですか』


 口には出していなかったはずだ。

 和弘さんを探るようにじっと見つめる。

 そうすると、真面目な顔に戻ってこう告げた。


『分かります。だって俺たち口は動かしているけど声は出していませんから。』


 何を言っているのか分からない。思わず眉根に皺を寄せ、俯いてしまう。

 和弘さんの左手がゆっくりと動き、私の右手の指と指の間に自身の指を絡めていく。

 顔を上げると反対側の手で頬に触れる。暫く見つめ合っていると、声が響く。


『芳乃さん、俺は貴女の中に居ます。』


 確かに、和弘さんの唇は動いていない。

 私の中に和弘さんがいる?

 それじゃ、だめ。和弘さんは、早く家族や恋人の元に戻らなきゃ。

 私の中にいちゃ、駄目です。

 掌に、ビリビリと痛みが走る。

 次の瞬間、目の前が真っ暗になった。


 目をあけると、ぼんやりと視界が開けてくる。

 規則正しく響く機械音と蛍光灯の明かり。

 白い天井だと認識して、病院だと考えた。

 体が鉛の様に重く、動かすことも出来ない。

 何とか右側に首を動かすと、異様な光景が目に入ってくる。

 呼吸器をつけ、様々なチューブに囲まれながら青白い顔で眠っているのは、和弘さんだ。

 思わず、涙が溢れてくる。

 気が付けば、看護師さんが側で「分かりますか?」と言っていた。

 悲しくて返事も出来ない、耐えられない。もう一度、意識を手放した。


 あの空が見える。


『おかえりなさい。芳乃さん。』


 見上げれば、相変わらずの姿で和弘さんが笑っている。手も、恋人繋ぎのままだ。

 思わず、ぎゅっと手を握る。


『俺、結構な怪我してましたね。でも、それは芳乃さんも同じだ。」

『私、貴方を巻き込みたくなかったのに。ごめんなさい。あんなひどい怪我…。』

『芳乃さんのせいじゃないです。』


 ぼろぼろ流れる涙を見せない様に蹲る。

 和弘さんは、私の頭をゆっくり撫でている。

 ひとしきり泣いた後、起き上がって涙をぬぐった。泣いている場合ではない。

 今のこの状況をちゃんと理解しなければ、本当に大変なことになる。


『それにしても、どうして和弘さんが私の中に?』


 根本的な問題はそこだろう。本人の体がちゃんと存在しているのにわざわざ離れる必要はない。


『ああ…、俺、車にぶつかる直前。死ぬかもしれない。死ぬんなら、芳乃さんの中で生きてみたいって思って…。』

『はい?!』


 変な声が出た。何て事を願うんですか。


『それで今、私の無意識下に居るという事なのかしら。』

『多分。でも、まさかこうなるとも思わなかったし体もちゃんと存在しているみたいでびっくりです。』


 二人、寄り添って座りながら話を続ける。

 繋いだ手から言葉を感じられるが、敢えて口を動かして目を見ながら伝える事にした。

 そうじゃないと、いけない気がした。


『それにしても、どうして和弘さんはそんなにニコニコしてるんですか?』

『芳乃さんの傍に居て、手を繋いで、温かくて優しい意識を感じられるので。』


 蕩ける様な笑顔でうっとりと思いを口にする姿に、顔が赤くなる。

 いや、照れている場合ではない。本当に私の中に和弘さんの精神があるのなら、和弘さん本体は空の状態ということになる。

 そんな状態で居ていい訳がない。

 それに、長く手を繋いでいればいるほど結びつきが強まっている気がする。

 このまま、離れられなくなる。


『俺がここにいるの、迷惑ですか?』

『ご家族もご友人も、あの姿を見たら悲しみます。ましてや目を覚まさないなんて。』

『そうかもしれないけど、今は芳乃さんと離れる方が嫌です。元の生活に戻ったら、簡単に会えないかもしれないでしょ?』

『私は今のこの状況の方が嫌です。』


 真っ直ぐに目を見て伝える。一瞬、繋いだ手がびりっとした痛みを感じた。痛みに思わず目を瞑る。また、暗闇に引き戻される。


 再び目を開けると、ベッドの上だった。

 右を見れば、やはり隣には青白い顔で眠る和弘さんが見える。また、涙が出てくる。

 直ぐに看護師さんがやってきて、状態の確認をしていく。質問に答えながらも、和弘さんを見てしまう。

 気が付くと、真上を向いていた顔が私の方を向き。左手は、私へ差し出す様に伸びていた。


 担当の医師がやってきて、一通り診察をしていく。体を動かしたいのだが、上手く力が入らないうえに固定されているみたいだ。

 腕や足の方に目を向けると、左の腕と足が固定されていた。思わず目を見開く。

 私の表情に気づいた医師が口を開く。


「蒔田さん、左の腕と脚の骨が折れています。

固定しているので、動かさないように。詳しいお話は、明日お話ししますので。」


 看護師に後を任せて足早に去っていく。

 もう一度和弘さんを見ると、相変わらず顔と左手がこちらに向けられている。

『休んでください』と離れて行った看護師さんを見送って、また和弘さんと向かい合う。

 守れなかった、どうして私の方が目を覚ました。どうして? 涙が溢れて止まらない。


『芳乃さん、戻ってきて。俺はここです。』


 体の中から声が、聞こえた。

 直接、和弘さんの声が聞きたい。

 瞼が、ゆっくりと降りていく。


 いつの間にか眠っていた様だ。目覚めたのは集中治療室だった。


「目が覚めましたか? 分かりますか、蒔田さん。」


 医師の声に黙って頷く。右に顔を向ける。

 相変わらず、和弘さんは私に顔を向け、手を伸ばしたまま。また、涙が溢れてくる。

 それでも、何とか堪えて呼吸を整える。

 様子を見ていた医師が口を開いた。


「少しお話しても大丈夫ですか? 僕は、担当医の林といいます。事故に遭われたこと、覚えていますか?」


 ゆっくりと頷く。


「車に撥ねられ地面に落ちた衝撃で左腕の上腕骨と左足の腓骨。二の腕と脛辺りが骨折しています。それと全身を打撲されていますが、内臓の損傷も酷くないのは幸いでした。頭を少し切っていますがこちらも酷くありません。早くに目を覚まされて、良かったです。暫く経過を見て、安定していれば一般病棟へと移ることになります。」

「…あの…。」

「はい?」


やっと出た声は、驚くくらい掠れている。


「私は、どれくらい眠っていたのでしょうか?」

「大体、丸一日程度経過しています。」

「…か…成川さんは…」


 医師が私から目を離し、和弘さんを見る。

 振り向くと、少し間をおいて


「成川さんも全身打撲と肋骨にヒビ、右肩・右足を骨折しています。重症具合で言えば、成川さんの方が重度と言えるでしょう。」


 涙が溢れだす。


「けれど、蒔田さんの左腕の骨折のおかげと言っていいのか。いえ、いいでしょう。重要な部位は守られていました。」

「重要な部位?」

「頭です。救急隊員の話では、あなた方は重なり合って、成川さんの方が下に倒れていた。つまり頭部を強打して脳などを損傷していてもおかしくない。でも、出血も無ければ脳波も異常はありません。蒔田さんが左腕を犠牲にして成川さんを守ったんです。頭部の損傷が激しければ、最悪の事態も考えられますから。」


 私を見ながら、笑顔で話してくれる。

 あの時、私がした事は間違いじゃなかった。

 一瞬でもそう思って自分を責める。あんな大怪我をさせて、許される訳がない。

 眉根を寄せる私を見て、


「蒔田さん、話が出来るようになれば、警察が事情聴取に来るでしょう。その前に、ゆっくり休んでください。」


 医師に目を向けると『それでは』とだけ言って、タブレットに入力しながら離れて行った。交代するように看護師が来て、点滴や計器のチェックをしている。

 私は、和弘さんを見つめる。

 すると、それに気づいた看護師が呟いた。


「不思議なんです。見回りや気が付いたときにお顔や手を戻すんですけど、直ぐにまたああなっていて。蒔田さんと離れたく無いのですね。救急隊員さん達も、二人の手がなかなか離れなくてって話していましたよ。」


 その言葉を聞いたあと、


『そうです。俺は芳乃さんと一緒に居たい。ずっと、一緒に居たいんです。』


 また、体の中から声が響いてくる。

 右を向いて、目を見開く。

 和弘さんの右目からきらりと光る何かが落ちた。声と呼応するように、涙が流れている。看護師が駆け寄って声を掛けるが、目を覚ます様子はなかった。

 唇を嚙み、涙を堪える。今は泣けない。

 私の様子を見た看護師が、黙って離れる。

 やっぱり、このままじゃいけない。

 和弘さんを、あんな姿のままでいさせるわけにはいかない。

 でも、どうしたら? 

 恐らく、繋いだ手が関係しているのだろう。

 この手を、何とか和弘さんに繋げられないか。

 動けない体を何とか動かす方法は…。

 ただ考えていたって方法は見つからない。

 ただ時間が迫っていることだけは分かる。


 じわじわと迫りくる焦りと格闘していると、和弘さんの元に女性と男性が一人ずつ近づいてくる。マスクをしていて顔は見えないが『和弘』と呟いているのが聞こえて、ご両親だとわかる。

 和弘さんの顔と手が、私の方へ向いているのに気付いた女性が見つめてくる。

 その視線を避けきれずに見つめ返す。ぼろぼろと涙が溢れて止まらない。

 どう謝ったって、許されない。大切な息子さんを傷つけてしまった。

 どんなに責められても仕方がない。

 けれど、私を見つめる女性は只ゆっくりと頷いた。そうして和弘さんに視線を移す。

 暫く手を握ったり、話しかけていたけれど和弘さんに変化はない。

 看護師から『そろそろ』と声を掛けられて二人が名残惜しそうに離れて行く。

 帰っていく途中で、女性がまた私と目を合わせ、ゆっくりと頷いた。

 そうして、手をそっと振って帰って行った。

 何故私に手を振ったの? 


『母さん、芳乃さんのこと好きなのかな。』


 聞こえるはずのない嬉しそうな声が、体から響く。

 和弘さんのベッドに目を向けると、ほんの少しだけ口角が上がったような気がする。

 このままじゃだめだ。焦る気持ちとは裏腹に、瞼が重くなる。


『芳乃さん。戻ってきて。』


 その声に導かれて、瞼を閉じた。


『芳乃さん、おかえりなさい。』

 

 暗闇から、またあの高い空が見えて戻ってきたと分かる。心は、どんよりと重い。

 体を起こして、顔を上げると今にも溢れそうな涙を貯めている瞳とぶつかる。


『俺が、ここにいるの。苦痛ですか?』

『正直に言うと、苦しいです。和弘さんの体が目の前にあるのに、心が私の中にあるなんてあってはいけない事です。もし、戻れなくて体が無くなってしまったらご家族に申し訳ない。早く戻る方法を考えないと。』


 真っ直ぐに向かい合って、ぐっと手に力を込める。和弘さんの瞳から溢れだした涙を左手で拭うと、その手に頬を寄せて和弘さんが目を閉じる。


『私は、和弘さんの笑顔を見たいです。ここじゃなくて、ちゃんとお互いの体で向かい合って。』

『芳乃さんは俺が自分の体に戻ったら、もう会わないつもりですよね。』


 左手に和弘さんの右手が添えられ閉じた目が開く。左手も強く握られる。


『俺は嫌です。会えないなんて。この事故は芳乃さんのせいじゃない。あの玖木さんが勝手に起こしたことだ。』

『巻き込んだ事実は変わりません。私が玖木を止められなかったことが全ての原因です。私は、和弘さんを絶対に体に戻します。』

『戻るのは構いません、でも、芳乃さんに会えなくなるのだけは絶対に嫌だ!』


 繋いだ手の間で、放電が起きたみたいにバチンと痛みが走る。まただ、あの痛み。

 また意識が飛びそうになるのを必死に堪えて、左腕で和弘さんを抱き寄せる。肩に顎を乗せて、ぐっと左腕に力を込める。

 そのうちに、固まっていた和弘さんの右腕が背中に触れてぐっと引き寄せられる。

 繋いだ手、回した腕、触れ合う頬の感触にじわじわと熱が帯びていく様だった。

今だけは、本当の気持ちを伝えたい。


『『好きです。』』


 二人の声が、響き渡る。繋いだ掌が温かくなる。抱きしめ合う二人の腕の力が強くなる。

 でも、結びつきをこれ以上強くしてはいけない。

 和弘さんの服をぎゅっと握ると、繋いだ手を開き、思い切り振りほどく。

 いつもの倍以上の痛みを感じる。

 バチバチと鳴る音を聞きながら、意識が離れて行く。

 暗闇が目の前に広がって、何も見えなくなった。

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