第4話 研修最終日
腕時計をじっと見つめる。準備は万端。
あと一秒で、六時五十八分になる。廊下で待っていようと決めて荷物をまとめ、「お世話になりました。」と一礼してから扉を開けると同時に芳乃さんも出てきた。
「「おはようございます」」
二人とも笑顔で廊下を歩く。フロントでそれぞれ清算を済ませ、目的の場所を目指す。
「眠れました?」
「実は朝食が楽しみで、眠れなかったです。」
「芳乃さん、可愛い。」
思わず出た言葉に、芳乃さんの顔が真っ赤になっていく。
もっと可愛いいんですけど。
どんどん早足になっていく芳乃さんだけど、俺も負けずに早足で付いていく。
あっという間に店に着いた。
「結構いろんな種類があるんですね。」
楽しそうに芳乃さんが、俺を見上げる。
頼む、このまま時よ止まってくれ。
「芳乃さん、好きなセットと飲み物を選んでください。どれがいいですか?」
「このセットで…ホットコーヒーかな。」
「じゃ、俺はこっちのセットで、ホットコーヒー。」
と、言った瞬間三千円をレジに置いた。
「あ!和弘さん。私からお願いしたのに!」
にやりとする俺、八の字眉の芳乃さん。
やっぱり。芳乃さんの事だから、絶対自分で出そうとするだろうと見越してスーツに三千円を仕込んでおいた。して、やったり。
一瞬固まったクルーさんだが察したのか笑顔を取り戻し、おつりをすぐさま渡してくれた。
「席までお持ちしますので、お好きな席でお待ちください。こちらの札をどうぞ。」
行きますよと指さすと、未だ不服そうな芳乃さんがついてきた。店の中央付近のテーブルを選んで座る。ここなら見えづらいはず。
芳乃さんは開口一番。
「私が誘ったから、払いたかった。」
と、頬を膨らませている。
「色々ご馳走になりましたから。ここは、俺に払わせてください。次会うときは、割り勘にしましょう。俺たち教師の先輩後輩以上に友達でしょ? 俺は、また芳乃さんと飲みに行きたいです。」
敢えて、芳乃さんが聞きたくないであろう言葉を伝えた。芳乃さんは、俺を遠ざけようとしているから。
芳乃さんは、じっと俺を見つめている。
その瞳が暗い影を落としたのを感じて、名前を呼ぼうとした時、注文したものが運ばれてきた。
「ごゆっくりどうぞ」
クルーさんがお辞儀そして、札を手にレジへ帰っていく。
「ご馳走になります。いただきます。」
芳乃さんがいつもの笑顔で俺を見る。
慣れない手つきで包み紙を開くと、一瞬躊躇していたが、豪快に大口で齧り付く。
リスみたいに膨らんだ頬でもぐもぐしながら俺に、
「おいひいですよ。和弘さんもはやく。」
と急かす。俺も、負けじと齧り付いて
「久々にうまいっす。ん、ぐふっ。」
喉に詰まりそうになって、慌ててコーヒーを飲む。やっと食道を塊が通り過ぎる。
「ちゃんと嚙まないと。」
「いや、芳乃さんが急かすから。」
「え。私のせいですか?!」
文句を言いながらも、頬を膨らませて食べ進めるのが、可愛くてつい笑顔になる。
ハンバーガーの包みを一旦置いて、コーヒーを飲む芳乃さんも笑顔になった。
ふと目が合って、お互いの口角がにっと上がる。これを、幸せ以外のなんという?
夢中で食べた後、ゆっくりコーヒーを飲む。
あとは、研修所へ向かい発表を聞いて、それから…。離れていくだけか?
トレーには、もう何も乗ってない。
顔を上げると、芳乃さんが俺を笑顔で見つめていた。
「ご馳走様でした。研修所へ行きましょう。」
ゴミだらけのトレーを持ってゴミ箱へ歩いていく背中を追うしかなかった。二人分の鞄を持って、後ろで静かに背中を見つめた。
振り向いた芳乃さんに鞄を渡す。
俺の手を、ぎゅっと握って離れた。
下を向いていて、顔が見えない。そのまま早足で芳乃さんは研修所へ向かう。
握られた手の感触を、刻み込んで後を追った。
研修発表が始まったのだが、さっきの芳乃さんの様子が気になって仕方がない。
それでも、俺達のグループの番になると自然と聞くことが出来た。
二人とも、上手いな。そう思って芳乃さんを見ると、泣いていた。
普通ならここで、単に感動していると思うところだろう。
でも、そう思えない自分がいる。
なぜだ?
気が付けば、研修発表が終わっていた。
メンバーの二人がお疲れ様と声を掛けてくる。お疲れと言って、違和感が横を掠める。
隣に居たはずの芳乃さんが居ない。
「あれ、芳乃さん?」
辺りを見渡しても居ない。
「芳乃さんなら、帰ったよ? 研修が終わるのを待っていたら、バスが間に合わないとかで。聞いてないの?」
血の気が引いていく気がした。腕時計は十二時を回ろうとしている。
芳乃さんは、何をしようとしてる?
決着をつける為に、何をする?
俺は、荷物を手にして飛び出した。
********
何時もの時間に目が覚めた。
昨日はあれから、少しの不安とそれより大きな楽しみのせいでなかなか眠れなかった。
支度をして、荷物を持ち「お世話になりました」と部屋に一礼して扉を開けると和弘さんも出てきた。これだけで笑顔になる。
和弘さんと二人で過ごす最後の時間だ。
最後くらい、素直でいたい。
清算を済ませてお店へ向かう途中、
「眠れました?」
と、聞かれたから
「実は朝食が楽しみで、眠れなかったです。」
と返したら、
「芳乃さん、可愛い。」
なんて言われてしまい、一気に顔が熱くなる。そんな事、和弘さんに言われたら。
耐えられなくなって、早足で店に向かう。
お店に着いたら、年甲斐もなくわくわくした。朝なのにこんなにメニューがあるんだ。
注文の仕方を和弘さんに教えてもらって、財布を出そうとしたら先に支払われてしまった。
上を見上げれば、ドヤ顔の和弘さん。
せめて、ここも支払いたかったのに。
とぼとぼと和弘さんに付いていくと、店の中央付近のテーブルに座った。
ここ、お店の柱の陰で見えづらい。
少しだけ、食事を楽しむ余裕ができた気がする。もしかして、和弘さんも玖木を警戒しているのだろうか。心が、チクリと痛む。
「私が誘ったから、払いたかった。」
と、素直な気持ちを伝える。
「色々ご馳走になりましたから。ここは、俺に払わせてください。次会うときは、割り勘にしましょう。俺たち教師の先輩後輩以上に友達でしょ? 俺は、また芳乃さんと飲みに行きたいです。」
和弘さんの言葉に、これで最後と決めたはずの覚悟が揺らぎそうになる。
店員さんが、ちょうどいいタイミングで届けに来てくれてほっとした。
生まれて初めて食べたハンバーガーは、美味しかった。和弘さんと笑って食べた。
最後の思い出としては、幸せすぎた。
この後研修所へ向かい、発表を聞いて、玖木に会いに行く。
行きたくない。
務めて笑顔でいるけれど、本当は和弘さんと離れたくない。
玖木に会うのが、怖い。
このまま、時が止まってしまえばいいのに。
でも、決着をつけなければいつまで経っても終わらない。
テーブルの上のトレーにはクシャっと丸められた幾つかの包み紙と空になった紙コップが二つ。
もう、時間を引き延ばす口実は何も残っていない。
「ご馳走様でした。研修所へ行きましょう。」
覚悟を決めてそう言うと、ゴミだけのトレーを持ってゴミ箱へ向かう。
和弘さんの目を見てしまったら、きっと行けなくなるから下を向いたままでいよう。
和弘さんが私に鞄を差し出してくれる。大きくて綺麗な長い指をした手。
握手することも、繋ぐことも叶わなかった和弘さんの手。
私、こんな短期間で和弘さんに恋をしていたと改めて思う。
行かなくては。
繋ぐことが叶わなかった手に、自分の手を重ねぎゅっと握ぎる。温かさを刻み込む。
手を緩めて鞄を受け取ると、急ぎ足で研修所へ向かった。
メンバー二人の発表は、聞いていて涙が出る位に完璧で他のグループからも拍手が多かった。嬉しかった。
それは、ある意味私が理想としてきた目標が認められたことを意味する。
これで、良かったんだ。隣を見れば、教育者として次を託せる青年が座っている。
これ以上にない、幸せだ。
二人には、事前に研修所から早めに帰らないといけないとメッセージを送っておいた。
そっと、席を離れる。
これから先は、過去と対峙する時間だ。
玄関にはまだ誰も居なくて、私の足音だけが響いている。楽しかった、嬉しかった。
たった三日の研修でこんなに満ち足りた気分になるとは思ってもみなかった。
門まで来ると振り返り、一礼する。
門を一歩踏みだすと、キュルキュルキュルと変な音がした。音のした方を見ると、黒い車が突っ込んで来ようとしている。
銀縁の眼鏡が見えた時、私は死ぬんだと覚悟した。車を睨みつけ、正面で向かい合う。
あと数メートル。右手が強く握られて、車から守るように抱きしめられる。
「芳乃さん」
どうして、貴方がここにいるの?
耳障りなブレーキ音と『ドンッ…』という鈍くて大きな音の後、二人の体が、跳ね上げられる。
衝撃で一気に意識が飛びそうだ。
彼を傷つけたくない。
何か一つでも守りたい。
左腕で頭を強く抱きしめる。
二人の体が重なりあって落ちていく。
誰かの悲鳴。そして、激しい痛み。
走り去る車。目がよく見えない。右手は彼の左手と繋いだままで、左腕には彼の頭。ぐったりとして動く気配はない。
どうか神様、彼だけは。
研修所から大勢の人たちが飛び出してくる。
気が付けば、あの二人の顔が見える。
何か叫んでいるようだけど、聞こえない。
どんどん視界がぼやけていく。
目の前が、『バツンッ』とテレビの電源が落ちるみたいに暗くなった。
失われる意識の中、何度も体の中から名前を呼ばれた気がした。
それは呼ばれる度に温かくなって、つい笑顔になってしまう声。
私の大好きな声。
「芳乃さん、芳乃さん。俺は、ここに居ます。芳乃さんの中に居ますよ。
だから、早くここに来てください。」
私の中? どうしてそんな所に居るの?
あなたは、早く帰らなきゃ。
待っている人が居るのだから。
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