第3話 研修二日目
アラームが鳴り響いて目を覚ます。ぐっすりと眠った為か目覚めがかなり良い。
只今朝の六時。うーんと腕を伸ばす。部活の朝練や試合の遠征などで早起きは慣れている。
芳乃さんは、まだ寝ているだろうか。研修は九時からだから、まだ寝ていても間に合う。
ふと備え付けの鏡を見てみたら、盛大に寝癖が付いていてベッドを飛び降りる。
これは、シャワーを浴びないと直りそうにない。そそくさと浴室へ向かう。
浴室から出てスマホを確認する。着信もメッセージも来ていない。
髪をセットし、スーツに着替え終わった頃、
昨日と同じ隣の部屋の扉が動く音がした。
慌てて扉を開いて叫ぶ。
「おはようございます!」
「成川さん、おはようございます。なんだか、早いうえに、元気ですね…。」
目を見開き、扉に抱き着きそうになっている芳乃さんがそこに居た。仕草が可愛くて思わず、顔がほころんでしまう。
「芳乃さんこそ、もう行くんですか?」
腕時計は、7時半を指している。
「この辺を散策してみようかなって。」
「朝ご飯、食べないんですか?」
「下のコンビニで何か買って、公園とかで食べようかなって。」
「いいですね! お供します!」
食い気味でそう言うと芳乃さんが何も言えずに目を丸くしている。
この際、強引だと思われようが正直に行動しようと決めた。
「すぐに準備するんで、待っていて下さいね。」
鞄に財布やらを詰込み、上着とスマホを手に持ち急いで部屋を後にした。
「うーん、梅?いやタラコかなあ。」
「どっちも食べたらいいじゃないですか。」
「このおにぎり大きめなので、二つは食べすぎですよ。」
朝食用のおにぎりで真剣に悩んでいる姿がなんとも可愛らしい。ちなみに俺は、炊き込みご飯と赤飯のおにぎりにした。
「意外と渋いのがお好きなんですね。」
なんて芳乃さんが呟いている。お茶も一緒に買って芳乃さんのコンビニバッグに入れてもらう。俺がそれを預かり、散策を始めた。
研修施設の方へ歩いていくと、昨日は気が付かなかった小川が流れる通りを見つけた。
犬の散歩だったり、ランニングしている人がちらほら見える。ベンチなども置いてあって、休憩するにはもってこいの場所だった。
「いいお天気、気持ちがいいですねぇ。」
「あい、おにぎりうめぇ。」
二個目のおにぎりに齧り付く俺に、ゆっくり食べないと、と注意しつつ、芳乃さんがクスクスと笑っている。ほっとする。
好きな人と一緒に居て、一緒に何かをして笑いあう。胸が温もる。
ここ何年も感じていなかった暖かい感情が心を満たしていく。
「あ、左の頬にご飯粒が付いていますよ。」
「うわ、どこだ。恥ずかしい。」
すっと右手が伸びて左の頬を掠めた。人差指のご飯粒が、躊躇なく口に運ばれる。
動作が自然すぎて、何が起こったのか分からなかった。
芳乃さんは何事も無かったかのようにおにぎりを食べ進める。
そして俺の顔に付いていたご飯粒を、芳乃さんが食べたという事実にようやく気付く。一気に顔が熱くなる。
でも次の瞬間、その熱も冷める妙な視線を感じた。辺りを見渡すが、特に変わった様子はなかった。
気のせいかと思っていると、俺のスマホが着信を知らせる。まさかと思ったが、相手は俺の母親だった。
「すみません。」と断って、通話に切り替える。
「母さん? どうしたの?」
「あんたこそどうしたの。何かいいことでもあった?」
「ハァ?!」と思わず声が裏返る。
隣の芳乃さんがビクッとしていたので、ごめんなさいポーズで謝る。
なんで分かるんだよ。
「珍しく声が弾んでるから。なに、研修で褒められた?それとも、加恋ちゃん?」
「加恋とは、別れた。」
思わず口に出た言葉は芳乃さんにも聞こえただろうが、こちらを見ることはなかった。
「あらそう、いつかはそうなるかもって思ってた。あんた、最近加恋ちゃんと出かけて帰ってきたら、チベットスナギツネみたいな顔してたし。」
あっけらかんと話す母の声に、ちょっと拍子抜けしてしまう。
チベットスナギツネとは?
「母さんはそれで良かったのかよ。」
「何が? 私は、あんたが辛そうにしている方が嫌だわね。ただ、お互いわだかまりが残らない様にちゃんと話しておくことね。」
母さんの言葉に、少しほっとした。
昨日の遣り取りを思い出して、反省する。
「本題はそこじゃない。お隣の佐野さんにあんたが研修に行っているって話したら、近くに美味しいお漬物が買える店があるって聞いたの。あんた、お土産で買ってきて。うちと佐野さんちの分。」
「ハァ?! 土産買って来いって電話して来たの? 何、漬物って。」
叫んだ瞬間、芳乃さんがぷっと吹き出して蹲る。背中が震えるのを必死に堪えている。
「誰か側にいるの? ははあ、そういう事。」
「とりあえず、研修あるから切るよ。」
「はいはい、お土産忘れないでよ。」
通話は、向こうから切られた。何とも気恥ずかしい。
芳乃さんは、まだ蹲ったままだ。
「よ、芳乃さん?」
がばっと身を起して笑い声をあげる。
「ごめんなさい。お母さまとの会話がほのぼのしていて聞いてるこちらが楽しくなってしまって。お母さまと仲が良いのも羨ましい。」
笑い声を落ちつけながら、目尻の涙をそっと拭う。ちょっと寂しそうな顔。
「芳乃さん、ご家族は?」
「父は、私が幼い時に亡くなりました。母はすぐに再婚して、私は祖父母に育てられたので家族という家族はもう居ません。恋とか結婚とかより、生徒達に如何に数学を楽しんでもらうかを考えることに夢中なんです。
私の結婚相手は教育で、家は学校で子供は生徒たちです。」
強い意志の宿る言葉。生涯、教育者として生きる。芳乃さんは、生涯ずっと一人で生きるつもりだ。
俺が見つめていると、芳乃さんは力強い笑顔で見つめ返してきた。それでも、俺は隣に居たい。たとえ、後輩のままでも。
「そろそろ研修所に…」
芳乃さんが言いかけた時、また妙な視線を感じた。二人揃って、同じ方向に顔を向ける。
その先で黒い車が通りすぎる。俺と同じ思いなのか、芳乃さんも不安そうに車が去った方を見つめている。
「行きましょう。」
芳乃さんが、いつもの笑顔で俺を促す。
俺は、あの視線を知っている。絶対に忘れられない、そうあの蛇の様な視線。
何をするつもりだ?
二日目の研修が始まると、さっきの事も忘れるくらい。資料集めなどに没頭した。
俺が『芳乃さん』と呼ぶ様子に、他のメンバー二人は最初きょとんとしていたが、同じメンバーだし下の名前で呼び合いましょうかと何故か嬉しそうに提案してきた。
俺としては、グッジョブ! としか言いようがない。芳乃さんは、大分躊躇っていたが、俺ら三人で押し切る形で了承を得た。
「なる…えっと、和弘さん。」
資料を集める俺の後ろから名前を呼ばれてはいっ! と満面の笑みで振り向く。
しぃ! と口元に当てられた人差し指。
そうだ、ここは研修所に併設されている図書館だった。
しかし、今はそれどころではない。遂に名前で呼ばれた。笑顔が止められない。
抱えている資料を放り出して、ガッツポーズと雄叫びを決めたい衝動を何とか抑える。
「取りたい資料があるんですが、届かなくて。手伝ってもらえませんか。」
囁くように話すと、上の棚を指さす。
これです、と指さす背中を覆うように寄り添って本を取り出し横を見ると、綺麗な茶色の瞳が数センチの距離で俺を見上げている。
あぁ、あの時と同じだ。綺麗な瞳。
バスで目が合った、ロビーで見れた
ずっと、見つめたかった瞳が間近にある。このまま、時が止まればいいのに。
キーンコーン、カーンコーン。
鐘が、無情にも昼休みだと告げてくる。
「取ってくれて、ありがとうございます。お昼ご飯食べましょう。」
取り出した本を受け取りながら、囁き声で呟きするりと覆いから抜け出ていく。
少し先を行く芳乃さんが、振り向いて手招きしている。胸がバクバクと早打ちする。
芳乃さんは、本当にもう誰とも一緒に居るつもりがないのかな。
しかし、ここでへこたれているわけにはいかない。ぐっと顔を上げて歩いていく。
昨日と同じく食堂は賑わっていた。
四人で座れる場所が無かったので、適当に分かれて食事を取ることになった。
俺はすかさず芳乃さんの隣へ座る。他の二人も無事に一緒に席に着けたようだ。
「「いただきます。」」
二人で食事を始める。それだけで嬉しい。
芳乃さんは箸の持ち方、扱いがとても綺麗だ。塩焼のサバが綺麗に骨と身に分けられたと思うと骨が皿の隅に寄せられ収まった。
思わず見惚れてしまう。
「なる…和弘さん。どうしました?」
横でぼけぇっと皿を見ている俺に、相変わらず苗字で呼ぼうとした芳乃さんが心配そうに聞いてくる。
「あ、すみません。お魚綺麗に食べるなって思って。俺、骨が面倒臭くてつい肉選んじゃうから魚を食べるのが苦手で。」
「ありがとうございます。祖母が厳しい人だったので、躾けられました。当時は嫌でしたけど、褒められたので祖母に感謝ですね。」
また瞳が見えなくなって、嬉しそうにご飯を頬張っている。
もう、今すぐ『好きだ』と叫んでしまいたい。いや、いかんと正気に戻ろうとしているとスマホが震える。画面を見ると加恋からのメッセージが届いていた。ごめんなさいと芳乃さんに断ってから、食堂の外へ移動する。
『会って話がしたい。土曜、待っているから。連絡ください』
冷静に返信を打ち込んでいく。
『別れる事に迷いはありません。もう、連絡しないで下さい。俺は、あなたが誰と居ようと悲しくも辛くもありません。さようなら。』
送信した後、すぐに既読が付いた。返信が帰ってくる様子はない。
加恋とのやり取りを消すべく、メッセージのフォルダごと全て消去して芳乃さんの元へ戻る。
「おかえりなさい。」「ただいま。」
芳乃さんと食事に戻った。
********
目が覚めた、スマホを見れば六時。
この時間にはいつも起きている。
いつもは、仏壇のある部屋へ行き、祖父母に挨拶してから朝食の準備をする。
でも、今日は違う。
早く外の空気を吸いたかった。
朝早くなら、あの人も居ないだろう。
シャワーを浴びて、コンタクトを入れ化粧をする。服を着る。
「よし行こう。」
自分に言い聞かせて、扉を開けた。
途端に、成川さんが飛び出してきて扉に隠れたくなった。満面の笑みで「お供します」なんて言われて、ちょっとワンちゃんぽっくて可愛らしい。
朝御飯を、一緒に食べるなんて。
誰かと食べるなんて、いつぶりだろう。
なぜ、こんなに私は浮かれているの?
朝ご飯を食べていたら成川さんに電話が掛かってきて、思いがけず彼女と別れたと聞こえてきた。昨日のお昼はそんな様子ではなかった。喧嘩でもしたのだろうか。
でも、次の瞬間、会話の内容に思わず吹き出してしまう。和やかで、温かくて羨ましい。
私には、そんな思い出はない。だから、正直恋愛や結婚というものが自分には向いていないと思っている。玖木とは付き合ってはいたが結婚するのには迷いがあった。
ふと、視線を感じた。昨日も感じた視線。
顔をそちらへ向けると成川さんもそちらへ顔を向けた。不安そうな表情。
私は、この視線を知っている。不安がよぎる。こんな時間から見張られているのか。
もし、大事な後輩に逆恨みして何かしようものなら、絶対に許さない。
研修が始まると、何故か成川さんを含むメンバー三人に、下の名前で呼び合おうと懇願されてしまった。圧に負けて承諾してしまった。私、リーダーに向いてない。
ちょっとだけ自信が無くなった。
いや、落ち込んでいる場合ではない。
研修で素晴らしい結果を出さなくては。
必要な本が手を伸ばしても届かなくて、仕方なく成川さん…いや、和弘さんにお願いする。
図書館の中なのに、それはもう保育園児のごとく元気な返事が返ってきた。
本のお礼を言おうと後ろを見上げたら、今にも吸い込まれてしまいそうな大きな瞳がこちらを見下ろしていた。こんな瞳、生徒達からだって滅多に見られない。
『綺麗だな』と見とれてしまいそうだったが、昼を告げる鐘が鳴った。
お昼ご飯を食べに行こうと言って振り向いたら、何故か和弘さんが少し悔しそうにしていた。
そして今、和弘さんがスマホを持って歩いていく。難しい顔、例の彼女さんだろう。
どうして急に別れたなんて。私が考える事ではないが、ぐるぐると疑問が頭を回る。
何とも言えない、苦しさ。何故か思い出すさっきの綺麗な瞳。
そのうちに、和弘さんが戻ってきた。
「おかえりなさい」「ただいま」
と、自然に微笑み言葉を交わす。
食事を再開してからも、二人とも笑顔のままだった。心の奥に暖かなものを感じた。
*********
「これなら、明日の発表完璧ですね。」
芳乃さんが笑顔で俺たちに話してくる。
「芳乃さんが的確にアドバイスしてくれたから助かりました。ありがとうございます。」
「俺ら二人で発表なんて、少し不安でしたけど、何度も練習したおかげで自信が持てました。色々指摘してくれてありがとうございます。」
「皆さんのおかげで、本当に良いものが出来ました。こちらこそありがとうございます。」
明日は発表のみで午前中で終わってしまう。
あれほど嫌だったのに、終わって欲しくない。暫く感じたことのない充実感と寂しさ。発表が終われば、午後には芳乃さんと離れてしまう。あっという間すぎる。
「あの、この後お二人はどうするんですか?」
メンバーの一人が聞く。決起集会兼ねて四人で晩飯喰いに行くとか?
「お二人で、楽しんで来ては如何です?」
芳乃さんが、思ってもみなかった提案をぶち込んできた。ん? どういうことだ?
俺以外の二人も「「え?」」ってハモっている。
二人は仲が良い。男同士だけど…。
「お二人お似合いですよ。顔合わせの時から思っていました。お二人で居るときの笑顔が本当に素敵ですよ。どうか、私たちは気にせず楽しんできてください。」
満面の笑みで二人に語りかける芳乃さん。
俺、全然気づいてなかった。二人、そういう関係なの? 一人置いてけぼりをくらう。
当の本人たちは、嬉しそうにはにかんで笑っている。
男同士、物凄い偏見と混乱が交じり合う。
でも、好きだという気持ちに正直になって、好きな人と過ごせるならそれでいいだろ。
仲良くなった二人を喜べないなんて、俺、小さすぎて涙が出そうだ。
「認めてくれるなんて思ってもみなかった。ありがとうございます。」
「人を好きになるのは素敵なこと。誰が誰を好きになったって関係ない。世の中、少数派に敵意を向けがちだから辛いこともあるでしょう。それでも、その好きを忘れないでいて欲しい。年増の勝手な願いです。」
二人が手を繋ぐ。いわゆる恋人繋ぎ。
俯いている俺に、一人が声を掛けた。
「俺たち、和弘君には気持ち悪いかな。」
隣に居た芳乃さんが背中をとんと叩く。
顔を上げた俺にゆっくりと頷くのを見て、俺も頷き返す。今の気持ちを伝えよう。
「俺は、今の状況にちょっと着いていけてない。ごめん。だけど、二人の事を気持ち悪いとか思わない。二人が笑顔で、毎日楽しく過ごしてくれたら、俺は嬉しい。」
「お二人の味方が、ここに二人いますよ。」
繋いだ手が、更に強く結ばれていく。
笑顔で見つめ合う二人を、素直に羨ましく思う。本当に好きなのが伝わってくる。
誰が誰を好きになってもいいなら、俺が芳乃さんを好きでいてもいいよな。
二人を見守る芳乃さんを見つめる。芳乃さんが俺を見上げた。
「和弘さんが、大きくて暖かい人で良かった。」
誰に何と言われようと俺はこの人が好きだ。
この気持ちに嘘はつけない。絶対に。
「そう言えば、連絡先交換しませんか」
と、二人からお願いされて四人でスマホを中心に円を作る。
思いがけず、俺の願いが叶った。
電話帳とアプリの友だちリストに三人のアイコンが追加される。
『蒔田 芳乃』の文字を見て、スマホをぐっと握りしめる。これで、研修が終わっても芳乃さんと繋がっていられる。
二人には感謝しても、し足りないな。
研修所で二人と別れた後、芳乃さんとホテル近くの通りに来ていた。
居酒屋やレストランなどが点在している。
二人のお祝いをしましょうと俺から誘った。芳乃さんも俺も二人の話で笑顔になる。
やっぱり、芳乃さんと一緒に居ると心が温かくなる。
通りを進むと、いかにも地元の人が利用しそうな定食屋の暖簾が見える。塗装の剥げかけた看板には『酒類各種有ます』の文字。
暖簾の奥の開きっぱなしの入口からは笑い声が漏れ出てくる。
「ここ、良さそうですね。」
「私も同じこと思っていました。」
顔をクシャクシャにして芳乃さんが頷く。
二人で暖簾をくぐると『いらっしゃいませ』と元気な声で迎えられた。
空いていたテーブル席に座ると途端に腹が減ってきた気がする。
「ビールにします?」
「そうですね。」
「すみません、ビール…ジョッキで二つお願いします。」
隣で皿を片づけていた店員さんに伝えると「はーい、ビール、ジョッキ二つ!」と奥の厨房に向かって注文を伝えてくれた。
「あいよー。」と返事が聞こえ、あっという間にジョッキが運ばれてきた。
二人でニッと口角を上げ「「乾杯」」とジョッキを合わせるとごくごくとのどを鳴らして流し込む。同時にぷはっと息をついて笑いあうと、一気に胃が熱くなる。
芳乃さんも「空腹に効きますね」と呟く。
そのやり取りが、何ともたまらない。
「ポテトサラダとハムカツと、あとは…。」
「厚揚げチーズ納豆? あ、しめ鯖いいな。」
「二つとも頼みましょう。すみませーん。」
芳乃さんが注文を伝えてくれた。気のせいかいつもより話すスピードが速い気がする。
つまみが届く間、店内を見渡す。数人のグループ客二組と一人で手酌中のおじいちゃん。
ニュース番組を流すテレビ、時折起こる笑い声と元気な店員さんたちの声。
シャンデリアも緊張感もここには無い。ただ、旨いものを楽しむ場所。
目の前には芳乃さんが居て、俺と同じ様に店内を見渡してほほ笑んでいる。
「はい、ポテトサラダにしめ鯖。残り二つはもう少しお待ちくださいね。」
つまみが置かれる。
「「いいお店ですね」」
二人で店員さんに、同じことを呟く。
お互い顔を見合わせて、吹き出す。
「ありがとうございます。ごゆっくり」
店員さんが、笑顔で厨房に戻っていく。
芳乃さんは両手で口元を隠して笑いを堪えているが、顔が真っ赤なのは明らかだ。
俺は、テーブルに突っ伏して笑いを堪えるので精いっぱいだ。
空きっ腹の酒はよく効く。
顔を上げると涙目の芳乃さんと目が合う。
「同じことを考えていたんですね。」
「ついでに、変なツボに嵌りましたね。」
「こんな風に嵌るなら、大歓迎です。」
「はい、右に同じです。あぁ、お腹すきました。食べましょう。」
いただきますと二人同時に手を合わせ、俺はしめ鯖、芳乃さんはポテトサラダに手を伸ばす。旨い、ビールを流し込む。
芳乃さんもジョッキを掴んで、相変わらずの豪快さで飲んでいく。
ジョッキが同時に空いた頃、残りのつまみが届いたが、頼んでいないタコぶつとキムチとだし巻き卵が置かれた。
「あの、これ頼んでないですけど…。」
「これ、店からのプレゼント。楽しんでね。」「「ありがとうございます」」
また二人でハモりながらお礼を伝える。
厨房の人たちにもお辞儀をすると、手を振ってくれた。
「え、なんで?こんなに」
「全く分からないですけど。お酒追加しませんか?売り上げに貢献しなければ。」
「確かに。次、何にします ?俺、サワーかな。グレープフルーツ。芳乃さんは?」
「お供します。すみません、グレープフルーツサワー二つお願いします。」
「お二人、息ぴったりね。グレープフルーツサワー二つお願いします」
注文を伝え終わると、クスクス笑いながら店員さんが席を離れていく。
「あいよー」と声が響く。目の前にはご馳走達が並んでいる。芳乃さんが何を食べましょうかと聞いてくるので、厚揚げチーズ納豆を指さすと小皿に取ってくれる。
醤油をちょろっと掛けて二人同時に齧り付き、とにかく長いチーズの伸び方にケタケタ笑った。
そのうちジョッキが届いて、自然とグラスを打ち付けて乾杯し一口飲み干す。何もかもが、全部旨い。気が付いたら、皿が空になっていた。
『ちょっと、トイレに行ってきます。』と席を離れたのが今日の俺の敗因と言っていい。
戻ってきたら、レジで芳乃さんと店員さんが談笑していた。慌ててレジへ向かう。
「芳乃さん、まさか会計。」
「終わってます。今日は先輩の奢りです。」
「昨日もじゃないすか。割り勘にしましょ?」
「だめです。大人しく折れて下さい。」
そんな事言わないでと食い下がっていたら、
「お二人、恋人同士じゃないんだ?」
店員さんがさも不思議そうに呟く。
「「へ? 違いますけど?」」
二人して間抜けな顔で呟いたからだろう、店員さんがクスクスと笑っている。
「それそれ、お二人とも息ぴったりだから恋人なんだと思ってた。こんな寂れた店でも楽しそうにしてくれて、見てて微笑ましくて。
いい店だって言ってくれてありがとうね。また、食べに来てよ。」
俺たち、そんな風に見えてたんだ。芳乃さんを見ると、
「美味しかったです。ご馳走様でした。」
と、お礼を言っている。俺も一礼した。
店を出て、ホテルへの道を揃って歩く。
恋人同士って言葉を、芳乃さんはどう感じたんだろう。無言で歩き続けて、部屋の前まで来た時、スマホからメッセージが届いたと通知音が響く。取り出すのを躊躇ってしまう。
「確認した方が、いいと思いますよ。」
芳乃さんは、まるで全て分かっているみたいだ。画面を確認すると、
『やっぱり、話したい。私が好きなのは、和弘だけ。連絡下さい』
ため息をついて下を向く。
「一次の迷いなのでは?」
顔を上げると大好きな瞳がじっと俺を見ている。
「一度は好きになった人なのですから、どんな答えを出そうとも二人でちゃんと話し合った方がいいと思います。」
「一次の迷いじゃないです。」
ぼそりと呟く言葉を、じっと聞いている。
「もうずっと前から、冷めていて。いつ別れようかって。昨日の夜、合コンに参加してて。分かっても、嫌だとも何とも思わなかった。確かに一方的かもしれないけど、別れを伝えられて俺は今嬉しいんです。」
「尚更、ちゃんと伝えた方がいいのでは? 彼女さんは、理由が知りたいはず。」
芳乃さんの目に何故か涙が滲んでいる。
芳乃さんが、俺の頭をゆっくりと撫でる。
「和弘さんなら、ちゃんと二人で納得がいく答えを見つけられますよ。私の様にはなりません、大丈夫。さ、今から彼女さんに返信しましょう。」
頭から小さな手が離れていく。
「今じゃなきゃ、ダメですか。」
「ダメです。今、目の前で返事してください。しないなら、私が代わりに送ります。」
結構な眼光の鋭さで俺を見つめているので、分かりましたと渋々メッセージを打つ。
『明日、駅に着いたら連絡します。俺の気持ちは変わってないので、何も期待しないでください。』
送信すると、直ぐに『待っています』と返信が来た。トーク画面を芳乃さんに見せる。
後半の文字列を見て眉根を寄せたが、ゆっくりと頷いた。
「明日の朝も、俺とご飯食べてくれませんか。
研修が終わったら直ぐ帰るので、朝の時間を少しだけ俺に下さい。」
困った顔をして、俺を見上げている。
本当は知っている。定食屋のレジで話をしていた時、入り口に銀縁眼鏡が立っていて直ぐに消えた。芳乃さんは、誰にも悟られぬようぐっと拳を握って震えていた。
あの時から、本気で俺を遠ざけようとしているのが、痛いほど伝わってくる。
けど、そんな事知ったこっちゃない。
俺は、芳乃さんとの繋がりを絶対に切らせはしない。誰が、何をしようと。
俺の目に何かを感じたのか、ふっと微笑んで呟いた。
「じゃあ、また7時にここで。」
諦めの様な、憂いの表情。
「ありがとうございます。おやすみなさい。」
二人同時に扉を閉める。
靄がかかったみたいに心が重い。暫くベッドで寝転がっていると、メッセージ音が響く。
画面には『蒔田 芳乃』の文字。
飛び起きて、慌てて画面をタップする。
『お休みのところ、すみません。明日の朝ですが、研修所の隣のお店で食べませんか』
研修所の隣の店? 何故此処にという程不似合いな感じで某ハンバーガーチェーンの店が隣接しているが、芳乃さんがハンバーガー?
『起きてました。おにぎりじゃなくていいんですか?』
『私、あのお店行った事が無いし、そもそもハンバーガー自体食べた事が無くて。』
『本当に? そうなんですね。』
思わず口に出しながら入力してしまう。
『小さい頃は祖父母に行きたいとも言えず…、この歳まで…。だめですか?』
『行きましょう! 俺に任せてください!』
ついでにOKですとサインを決めたスタンプも送ってみる。
あれ、何か嬉しくなってきた。芳乃さんの初めてを俺に任せて貰えるんだ。
顔が、自然と笑顔になる。
『ありがとうございます。楽しみです。』
『おやすみなさい。』
『おやすみなさい。』
既読が付いたことを確認してスマホを置く。
芳乃さんからメッセージをくれた。俺との繋がりを持とうとしてくれたことが何より嬉しい。些細な遣り取りが、俺を元気にする。
明日の為に、早く眠ろう。
シャワーを浴びに、浴室へ向かった。
********
『おやすみなさい』と表示された文字に、そっと手を触れる。手を離すと、充電する為にスマホと充電器をベッド側のコンセントに差し込んだ。
浴室へ行き、熱めのお湯を頭から被る。
今日は、嬉しくて、楽しくて。
朝、車を見かけて以降スマホにも連絡はなかったし研修所に来ている様子も無かったから油断していた。
完全に、あの人の事を忘れていた。
彼だけは、巻き込みたくない。
シャワーを流しっぱなしにして、乱暴に化粧を落とし頭と体を洗う。泡に紛れてこのへばりつく様な感情も流してしまいたい。
今日は、あの二人が幸せそうな顔を見られたことが本当に嬉しかった。彼らに伝えたことは私の正直な気持ちだ。
私の家である女子校でも自分のマイノリティに悩む生徒が少なからずいる。そのことで、傷つく生徒を何人も見てきた。偏見のない目で見ているかと言われたら、正直『はい』とは答えられない。
けれど、人生を決めるのは自分自身で他人が決める事ではない。偽善だと言われるかもしれないけれど、私は誰もが自分の思いのままに生きていってほしい。
和弘さんが二人に正直な気持ちを伝えた時、彼と出会えて良かったと感じた。
嬉しさを彼と分かち合って、美味しいお酒を飲んだ。心が、幸せで満ちる。
彼ともっと一緒に居たいとおもった。
だからこそ、もう離れなければ。
定食屋さんで玖木の姿を見た時、体が震えた。玖木と付き合っていた頃、一度だけしばらく人に会えなくなる位に殴られたことがある。
別れるきっかけは、確かに教育思想の違いもあったがこれに尽きる。
玖木は自分の思い通りにならない事には力でねじ伏せようとする傾向がある。
玖木の目は、私を殴った時の目をしていた。
『決着をつけなければならない。』
そのために和弘さんには、出来るだけ私から離れてもらうようにしなければ。
彼女らしき人からメッセージを受け取った和弘さんを見て、勢いで別れを切り出したと思った。だから、二人で話すよう促した。
会うことを約束させたが、本気で別れるつもりだと知って何故か動揺した。
更に、朝食をまた食べようという彼に焦ってしまった。私への意思を目の奥に感じて、負けを認めることにした。
部屋に入ってから、ベッドに座って明日の朝どうしたら安全を確保できるか考えていた。
そうして、研修所の隣にある店の事を思い出した。アプリを開くと和弘さんへメッセージを打ち込む。
小さかった頃、祖父母に行きたいと言えず今まで行けなかったお店に和弘さんと二人で行ける。彼を守るためとはいえ、どこかワクワクしている。
きっと、和弘さんとはそれで最後だろう。
メッセージの交換はするかもしれないけれど、実際に会うことはしない方がいい。
任せて下さいと帰ってきた返信と可愛いスタンプに思わず笑顔になっていた。
この暖かな気持ちのままで居られればいいのに。手が震える。滲む涙をそのままにして、シャワーを浴びる。
浴室を出ると肌を整え、髪を乾かす。コンタクトを外して、呼吸を整える。
手が、また震えだす。
スマホをコンセントから外し、着信履歴から玖木の文字を押す。
何度かコール音がした後、『待ってたよ』と声が聞こえてきた。
「明日の昼、十二時。小川のベンチで待っています。」
それだけ言って、すぐさま切った。
手は、未だに震えている。
もしかしたら、明日で私の人生は終わりを迎えるのかもしれない。
もう一度、スマホのアプリを開いて和弘さんとの遣り取りを眺める。震えが止まる。
明日に備え、眠ることにしよう。
その前に、あの二人にメッセージを送らなければ。何度か打ち直しをして、送信を押した。
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