二人の今は、手の中に

ゆーすでん

第1話 研修初日


「……い…か…いで。い…かないで…」


 上手く動かない口、重い手足。

 隣で誰かが何か言っているが、今は止めなくちゃ。ドアの前の背中を止めなくちゃ。

 一瞬動きを止めた背中にもう一度呟く。


「いかないで。」


 かすれた声しか出てこない。

 少しだけ横顔を見せて、愛しい背中がドアの外に消えていく。

 どうか神様、俺からあの人を奪わないで。

 呼吸が苦しくなるくらいボロボロ涙を流していると、暗闇に意識が引っ張られていった。



「ふぁ…あ。」


 バスの一番後ろの角で欠伸を嚙み殺す。

 早起きは慣れているが、適度な揺れが眠気を誘う。

 郊外の施設で二泊三日の教員研修が行われる。

 正直来たくなかった。

 サッカー部の顧問として大会に向けて大事な時期に穴を空けたくない。


「成川先生、新人の時以来行ってないよね。

今回は公立と私立の合同研修だ。懇親会もあるし、他校の先生から学んでくるのもいい経験じゃないかね。」


 教頭に指名されて「あ、はい」としか言えず、サッカー部があると言っても逃げられないと悟った。

 唐突に資料を渡されたのが一週間前。


「ねえ、和弘。聞いてるの?」

「あ、ごめん。考え事してた。」

「久々に一緒にいるんだから、私だけ見てよ。」

「ごめん、ごめん」


 少し背伸びして予約したレストラン。

 不機嫌な顔の恋人に謝り続ける。


「でね、秘書課の先輩が嫌味ばっかり言ってくるわけ。」

「そっか、加恋も大変だな。」


 加恋は大学時代からの恋人だ。美人でスタイルもいい、一緒に歩けば大体の男が振り向く。入学当初から色んな奴に言い寄られていると聞いていたし、俺には関係ないなと思っていた。

 なのに、大学二年の時ゼミで一緒になってから猛アプローチを掛けられて今に至る。ちょっと気が強いところもあるけれど、俺の事を好きになってくれた事はとても嬉しくて一緒に居るのも楽しかった。

 でも最近は会っていても憂鬱で、会話も適当に相槌を打つだけになった。

 会話はほぼ彼女の話、俺が生徒や部活の話をすると途端に機嫌が悪くなる。

 だから、俺の毎日を話すことはやめた。

 教師になるのは、昔からの夢だった。

 数学が苦手だった俺に、学ぶ楽しさと解ける事への高揚感を教えてくれた人が居たから。

 教師になった今、確かに毎日時間に追われて疲れてしまうけど、充実している。

だから、この気持ちを誰かに話したい。

 研修では、そんな話ができる人が現れるだろうか。押し付けられてと言ってもいい位に突然決まった事だが、たまには違う景色を見に行くのも悪くないかもしれない。


「何考えてたの?私より大事なこと?」


 ふっと微笑んだ俺に気づいて、加恋が怪訝そうにこちらを見ている。

 昔はこの我儘も自分を好きでいるからだと可愛く思えた、でも今はそう思えない。


「まあ、いいけど。ね、今度の週末一緒に出掛けない?」

「来週は木曜から二泊三日で研修なんだ。」

「何それ、聞いてない」

「いや、今日決まったんだよ。」


 突然決まって困っていると思っているかのように振舞って誤魔化す。


「ふうん?それなら土曜に帰ってくるんでしょ。待ち合わせしましょ。」

「え、いや遅くなるかもしれないし。」

「私に会いたくないの?」


 目を三角にして強い口調で聞いてくる。


「…いや、そんなことないよ。」


 と呟くと「じゃあ決まりね」と加恋は有無を言わせず決めてしまった。満足したように食事に戻る恋人の隣でまた一つ肩に重しを乗せられた感じがした。


 土曜が憂鬱だと思いながらもバスは順調に進んでゆきとある駅前に停車した。

 乗降口から女性が乗り込んでくる。空席を確認しつつゆっくり後部席側に歩いてくる。

 

 いつもなら、気にしない。目線を向けることもない。目線を窓からその人に移す。

 少し大きめの鞄を肩に掛け直しながら近づいてくるその人と目が合った気がした。

 丸顔で少し微笑んでいるように見える顔。長い前髪の奥の瞳は透き通った茶色。

 何故か、顔が赤くなる。急に心がそわそわし始める。

 肩までの髪を一つにまとめたその人は、俺より手前、左側二人掛けの席に座った。


 あの瞳が、頭から離れない。あの人と話がしてみたい。時折窓の外を覗いているその人からずっと目を離せずにいる。

 このバスに乗っているという事は、俺と同じ研修に参加するのだろうか。どうか終点まで下りないで。

 どうやら願いは通じたらしい、終点をアナウンスが告げる。バスが停車し、その人はすっと立ち上がり降車口へ進む。

 慌てて自分の荷物を掴むと、運転手に挨拶しているその人を追う様に付いていった。

 

「蒔田 芳乃です。担当は数学です。グループリーダーには頼りないかもしれませんが、宜しくお願いします。」

 まきたよしの…頭の中で何度も繰り返す。

 しかも担当が同じ数学というだけで嬉しくなる。

 

 午前十時、研修初日が始まった。

 バス停から施設への道のりで何度か声を掛けようとしたが、急に声を掛けると怖がられるかと怖気づき二の足を踏んでしまった。

 逆に、男が難しい顔しながら後ろをゆっくり付いてくる方がよっぽど怖かったんじゃ?

 オリエンテーション中なのに全然集中できずにいたら、研修最後に行われる発表のグループ分けが伝えられた。参加者ナンバーからランダムに割り振られるらしい。自分のグループ席に移動しつつ、あの人はどこになるんだろうとこっそり確認する。

 あれ?どこ行った?見失いきょろきょろしていると、


「あの、お隣よろしいですか?」


 おっとりというのが合っているだろうか、それでいて何処かホッとする声が聞こえる。

 慌てて振り向くと探し人が立っていた。

 何とも優しい微笑みで俺を真っ直ぐに見つめている。驚きと嬉しさで思わず


「ど、ど、どうぞ!よろしいです!」


 などと、大声で言ってしまった。

 驚いた周りの参加者が、一斉に俺を見る。

 すみませんと周りにぺこぺこする俺に、一瞬きょとんとしながらも隣の瞳が綺麗な人は笑顔を返してくれた。

 隣の椅子にその人が座る。

 正直、今の自分ツイてる。心の中でガッツポーズをした。


「最後に、成川さん自己紹介お願いします。」

「はい、成川 和弘です。担当は数学です。この研修で何か得られるものがあればいいなと思ってます。宜しくお願いします。」


 よろしくとメンバーから声が上がる。

 メンバーは4人。これから今日と明日の時間をかけて課題発表の作成に取り組む。


「皆さん、私より年下ですね。成川さんは、新卒ですか?」

「へっ? いや、俺これでも二十八なんすけど。俺、頼りなさそうですか…」

「蒔田さん、今日の研修参加者みんな5年以上の教師ですよ。」

「あら? そうでしたっけ。ごめんなさい、失礼しました。」


 あからさまに落ち込む俺にメンバーの一人がフォローを入れてくれる。芳乃さんは申し訳なさそうに頭を下げた。

 けど、そんなちょっとしたボケに場が和む。四人で笑いあっているうちに昼休憩の時間がきた。揃って食堂へ向かう途中、


「あの、成川さん体調良くないですか?」


 芳乃さんが心配そうに聞いてきた。

 そういえば、俺の中ですでに彼女は芳乃さんと呼ぶ存在なんだなと思いながら、


「いえ、そんな事無いですよ。なんか変でした?」


 先程の挙動不審な自分を隠すように答える。


「バスでお見掛けしてから、今まで難しい顔してたり、落ち着かない様子だったので少し心配で。でも、何でもないなら良かった。」


 瞳が見えなくなる位に目を細めてよかったよかったと繰り返す。その様子に、顔が赤くなっていくのを感じる。

 あの時から俺の事を気にかけてくれてたんだ。一気に心拍数が上がる。

 ふわふわした足取りで彼女の後を付いていく。食堂は、研修参加者で賑わっていた。


「今日の懇親会、十八時でしたよね?」


 そうだった、今日は参加者と主催者全員で懇親会が開かれるんだった。結構な人数になるからホテルの宴会場を借りるらしい。

 俺の泊まるホテルじゃないから早めに行動しないと…芳乃さん、どこのホテルかな。

 ちらりと隣を探ってみる。


「…教育委員会の人って妙に上の人って感じがして苦手なんだよね。」

「あんまり気使わず飲みたいんだけどなぁ。」

「ちなみに、どなたが来るとか聞いてます?」

「ええっと、確か研修企画担当のクキとか珍しい苗字の…。」

「玖木さん、ですか…。」


 芳乃さんの箸を持つ手が力なく下がる。

 一点を見つめて不安そうに眉根を寄せた顔。


「あの、どうかしました?」


 俺や他の二人も心配そうに覗き込む。


「あ、ごめんなさいね。早くお昼食べちゃいましょうか。午後からやる事いっぱいですし」


 いつもの笑顔に戻り、美味しそうにご飯を頬張る姿にホッとしつつも何かひっかかる。

 他の二人は同調するように食事に集中している。気にしすぎだろうか。

 笑顔の彼女を再確認して食事を再開した。


 研修会場に戻る途中、スマホが震えた。

 嫌な予感がする、『加恋』の文字に肩を落とす。『すみません』と言って一人離れる。


「もしもし。どした?」

「何その嫌そうな声。お昼休みかなと思って電話してみたの。声聞きたかったし。」


 わざとだ。俺を牽制している。


「次の研修始まるから切るよ。」

「ちょっと、なんでそんなに急いで切るの?まだ休み時間あるでしょ?」

「準備とかあるから、じゃ。」

「ちょ、かず…。」

 急いで通話を切る。スマホをぐっと握りしめる。

 俺は今、嫌な奴になろうとしているな。

 でも、研修を邪魔してほしくないのが本音だ。悪いが今はここに集中したい。

 再びスマホが震えてメッセージが浮かぶ。


『土曜は絶対埋め合わせしてもらうからね。』


『了解』とだけ返信して電源を切る。

 会場に戻ると、メンバー二人が楽しそうに会話している。芳乃さんはと見渡せば、奥の方でスマホを確認している様だ。

 なんだか、辛そうな苦しそうな顔。

 心配になって、思わず近づいて「蒔田さん」と声を掛ける。

 はっとした顔で見上げると、隠すようにスマホを両手で握った。


「邪魔しましたか? すみません。」


 実際は、そんなこと微塵も思ってない。

 芳乃さんが辛そうなのを何とかしたかった。

 芳乃さんはスマホの電源を落としながら笑顔で答える。


「しつこい勧誘メールが来てて、大丈夫です。ご心配、有難うございます。」

「それなら、良かった。」


 大した事なさそうか? 本当に?

 でも、やっぱりまだ少し辛そうだ。

 芳乃さんは眉を八の字にしてスマホを握りしめている。研修再開のベルが鳴って、俺はもやもやとしながら席に着いた。

 

 それでも、研修が再開してしまえば時間も忘れるほど楽しくて。話したかったことが話せる喜びと共感と苦労話につい熱くなってしまった。

 特に芳乃さんの授業展開における持論が面白くて聞き入ってしまう。

 他のメンバー二人も同年代で、見た目よりずっと熱い教育者だった。

 ディスカッションは盛り上がり、最終日の発表内容を何にするか、役割分担はどうするかなど色々決めていたらあっという間に一日目が終了した。

 さて、ここからはホテルにチェックインしてからの懇親会だ。ノートや筆入れやらを鞄にしまい込んで移動の準備をする。


「そういえば、皆さんどちらに泊まる予定ですか?」


 芳乃さんが、俺達三人に聞いてきた。


 どうしたものか。笑顔になるのを止められない。いや、止めたくない。

 隣を見れば、芳乃さん。

 別のホテルに予約していた二人のメンバーと一旦別れ、世話になるホテルを目指す。

 何だか俺、一年分、いや一生分くらいの運を使い果たしているんじゃなかろうか。

 芳乃さんの歩幅に合わせつつ、歩みを進める。


「色々な考えに触れられて楽しいです。」

「俺も。教育に対する考えとか生徒へのアプローチとか、同僚とも話す機会が無くて。

今回参加して、本当に良かった。」


 道中も楽しくて、あっという間に着いた。

 ホテルは一番安いプランで予約していたが、思いのほか立派な外観とそこそこ広い庭があって目を引いた。

 自分の受付を済ませて振り返ると、既にカギを手にした芳乃さんが外を見つめている。

 よく見ると、また辛そうな顔をしていた。


「芳乃さん?」

「え?」


 つい、下の名前で呼んでしまった。

 芳乃さんが、きょとんとした顔で見てくる。


「あぁ、すみません。急に下の名前で呼ばれるの嫌…です…よね。」


 誤魔化すように下を向く。


「いいえ、そんなことは無いです。お部屋、何号室でした?」

「三〇二です」

「あら、私、三〇三です。お隣ですね。」


 行きましょうかとエレベーターを指さすと、下の名前で呼ばれても気にしないよというように歩き出した。


「あ、でも他の方の前ではやめた方がいいですよ。成川さんが誤解されちゃいます。」

「誤解されても構いません。俺、芳乃さんをもっと知りたいんです。」


 言ってしまってから気が付いた。

やばい、これ告白になってないか?

 けど、彼女の反応は、


「私の事を? そんな風に思って下さるなんて嬉しいです。先輩として、明日も頑張ります。」


 なんて、かなり見当外れな解釈をしている。

 微笑む芳乃さんの隣で、がっくりと項垂れているとエレベーターの到着音が鳴った。

 乗り込んで、三階へ向かう。

 三階について、それぞれの部屋の前へ。


「それじゃぁ、後ほどロビーで」


 宴会場があるホテルはすぐ側だ。時間まで各々過ごすべく、隣同士の部屋に入った。

 芳乃さんは、何か隠しているんじゃないか。

 そう思ったのは、ドアの前の芳乃さんがまた辛そうな顔をしていたから。

 昼休みのあの様子…ただの迷惑メールじゃなくて、誰かからのメッセージ?

 考えても、答えが出るわけじゃない。

 悶々とする頭の中を少しでもすっきりさせたくて、顔を洗ってみる。冷たさがすっきりさせてくれたけど、ほんの一瞬だった。

 スマホの電源を入れると、加恋からのメッセージ『研修終わった?』の文字が見える。

 俺は、こんな毎日をずっと生きていくんだろうか。息が詰まりそうだ。

 隣の部屋を隔てる壁を見つめる。

 さっき別れたばかりだしもうすぐ会えるけれど、今すぐ芳乃さんに会いたい。

 そういえば、このホテルの庭園て中に入れたりするんだろうか。二人で散歩とか。

 早いけどロビーに行ってみようか、パンフレットとかあるかもしれない。

 敢えてスマホの電源を切り、スーツのポケットにしまう。必要最低限の物だけ持って部屋を後にした。


*********


 下の名前なんて、久々に呼ばれた。

 明るくて生き生きとしていて、うちの女子校に居たらきっと毎日騒がれているだろう。

 そんな青年が、私を先輩と慕ってくれている。明日も、教育者として熱い情熱を持った彼の見本とならなければ。

 そんな決意の裏で、どこかときめきに似た思いを感じている自分が居る。

 大きな瞳で真っ直ぐに見つめながら笑い掛けてくる様子が思い出されてはっとする。

 そんな思いを抱いたことに、少々戸惑いを覚えた。当の昔にそんな思いを捨てて、一人で生きていくと決めたじゃないか。

 一人の教育者としてのみ生きていくと。

 備え付けの椅子に座りスマホの電源を入れると、メッセージと留守番電話が数件あったことを知らせている。

 相手が誰か確認して、ため息をついた。見るのも、聞くのも辞めよう。

 それらを消去はせずデータだけ残して、テーブルに伏せた。

 もう、終わっているのに何を引きずっているの?

 椅子に座ったままぼうっとしていると、だんだんと部屋が暗くなってくる。

 事前に設定しておいたアラームが鳴る。

 あの人がいる懇親会へ向かわなくては。

 鏡の前で化粧を直し、ロビーへ向かった。


 ロビーについて辺りを見渡すと、フロントの横にあるパンフレットが並べられたコーナーに成川さんが居た。


「成川さん、お待たせしました。」


と声を掛けると、驚いた成川さんが横へ飛びのいて壁に激突した。


「いってぇ。すみません、芳乃さん。気が付かなくて。は、早かったですね。」

「いえ、こちらこそ驚かせてしまってごめんなさい。大丈夫ですか?」

「大丈夫です。丈夫なのが、取柄なので。」

「何を見ていたんですか?」

「あ、いや、暇だったんでこのホテルの施設案内を見てました。」


 成川さんが、何故か後ろ手にパンフレットを元の場所に戻している。


「ここ、宿泊代が一番安かったんでかなり小さめなのかと思ってたんですけど、結構大き目だしコンビニが併設されていたり。ほら、カフェもあったりしたんで気になって。」


 成川さんが指さす方を見てみると、なるほどコンビニとカフェが見える。

 全然、気付いてなかった。

 余裕が無かったのだ。


「本当ですね。よく気づきましたね。」


 成川さんを見上げて言うと、少しだけ顔が赤くなっているようだった。

 ん? 変なこと言ったかな…。


「そ、そろそろ行きましょうか。」

「はい、そうですね。」


 私の少し先を何だか嬉しそうな背中が歩いている。直ぐに私に振り向いて、歩幅を合わせてくれる。

 さっきも、そうだったな。

 目が合って、自然と笑顔になる。

 この時間だけ、今だけ、少しだけ温かさを感じていてもいいかな。

 この先にある靄を見ないふりをして会場へ向かった。


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