チョコとスパイス

鐘古こよみ

【お題】「チョコレート」「安心」「カレー」


 二月の高三は暇だ。

 進路が決まった奴と、そうでない奴とがいるが、大抵の高校では自由登校になる。

 自由と言われて学校に来る奴はそういない。

 学校大好き人間か、家にいたくないけど金もないか、特別な事情があるかだ。

 俺の事情は多分、最後のやつ。


 で、牧村はどうかってことだ。


 静まり返った図書室で、シャープペンシルの音がサラサラと流れる。

 耳の下で潔く切りそろえた髪を時折触りながら、牧村は、俺の対角線上に位置する机で、何やら熱心に文字を書き連ねていた。


 俺は手元の本に目を落とし、一心不乱に文章を追うふりをしながら、その実、まったく内容なんか頭に入っていない。


 二月十二日金曜日。


 今日のこの日付が何を意味するか、すぐにピンと来る奴は、俺と同じ煩悩に侵された人間に違いない。

 そう。答えはもちろん、女子が楽しげにチョコレート交換を行う冬の恒例行事が、今年は日曜日に当たるという事実だ。


 件の行事が平日であれば、学校に何某かの包みを持って来たかもしれない、知人枠に属する女子がいたとしよう。

 その女子が今年度の行事日程を踏まえ、それでも何某かの包みを、ただの知人に過ぎない俺に渡してくれる心づもりがあると仮定した時。

 ……いや、わかっている。ただの知人の分際で、行き過ぎた妄想だということは。

 だが、心は自由だ。仮にだ。もしそのような天変地異が起きた場合。

 その期日は、今日をおいて他にないのではないか。


 先ほどからこんなことを考えている自分に、俺は失望していた。

 しっかりしろ、佐野正樹。

 お前ずっと、甘いもの苦手なスタンスだったじゃないか。


「あ」


 牧村が急に声を発したので、俺は漫画のように肩を揺らした。

 眼鏡のずれを直すふりをして、手の陰から様子を窺う。


 カチカチカチカチと、牧村はシャープペンシルの上部を連打していた。

 芯がない。これはもうあからさまに、芯がない。


 奇跡のように、この瞬間、他に人がいなかった。

 つい十五分ほど前まで他に四人いたのだが、電車の時間が被ってでもいるのか、バラバラと帰ってしまったのだ。


 自分の喉からゴホォッ……とわざとらしい咳が出た。

 ペンケースからおもむろに取り出した自分の芯を、視線を向けずに差し出す。


「あ、良かったら」


 牧村がこちらを見るのがわかった。


「いいの? 佐野君、ありがとう」


 嬉しそうな声。

 俺は、視線を向けなかった自分を呪う。


 席を立って牧村がこちらに来る。

 俺の心拍数は上がる。

 目の前で立ち止まって両手を合わせ、「いただきます」と小声で言ってから、牧村が芯のケースを俺の指から引き抜く。

 俺は、今の一連の流れを脳内でリピートしながら、胸中で目を剥いていた。


 なんだ今のは。

 可愛い仕草選手権でも行われているのか。


「あれ、2B?」


 驚く声にハッとして、俺は顔を上げる。

 そうだ。シャープペンシルの硬さと言えば、HBが主流。

 俺は素描を嗜むから2Bを愛用しているが、牧村の要望とは違っていたのでは。


「そっか。佐野君って、美術系だっけ」


 顔を上げて目が合った。人間とは不思議なもので、ここまで接近遭遇すると居直るというか、かえって落ち着きを取り戻すようだ。

 俺は冴え渡った五感で牧村の呼吸が巻き起こす微細な空気の渦さえ感じ取りながら、頷いた。


「まあ、大学じゃなくて、美専だけど……」

「私も専門だよ、看護の。もう合格したから、暇なんだ」


 思わぬ情報が転がり込んできて、息が止まりそうになった。

 牧村、看護師になるのか。

 その情報はいかん。俺のような人間に漏らしては。


「佐野君も決まったんだね。そっか、だからいつも本読んでるんだ」

「……牧村も、ずっと図書室来てたっけ」

「そうだよ、一月末から。知らなかった?」


 その言葉に、胸がぎゅうっと縮む感覚がした。


 知ってた。

 知ってたよ。だから未だに毎日、来てるんだ。

 自由登校で行かなくてもいい高校に、骨董品みたいな面白いデザイン画集があるからと、言い訳して。

 ……いや、それは一応、ちゃんと目的の一つだけど。


「不思議だよね。少し前まで図書委員で、毎日のように来てたのに。受験生だからって、三年の活動は二学期で終わっちゃってさ。なんか寂しくて、また来るようになっちゃった」


 手の中で芯のケースを弄びながら、牧村はつぶやくように話す。


「佐野君の図書だよりのイラスト、すごく上手だった。それで美術系なんだって知ったんだよ。三年で図書委員になってから初めて話したよね。二年生の時もクラス同じだったのに」

「……そうだっけ」

「そうだよ。佐野君、ちょっと孤高の人っぽいから、話しかけづらかったの。でも実際は、全然そんなことなかった。こうやって芯とかくれるし……」


 不意に言葉を切ると、牧村は踵を返して、自分の席へ戻って行った。

 牧村と会話が続くという、稀に見る幸運に動揺しまくっていた俺は、むしろホッとひと息ついた。

 不甲斐ない。だが、これが俺だ。

 認めよう。先ほどのチョコレートが絡む妄想、実現の見込みは万に一つもないと。

 孤高の人。そんな風に思われていたとは、知らなかった。

 心優しい牧村の言い回しだからちょっと良さげに聞こえるが、要するに、ぼっち。

 いや、友達がいないわけではないが、美術予備校の奴らとつるむことが多いから、高校のクラスメイトとはそんなに深い付き合いをしてこなかったのは確かだ。

 ぼっちの知人。

 そんな程度の認識に過ぎない男にチョコレートをくれるほど、牧村は甘くない。


「はい」


 いつの間にか机に突っ伏していた俺の傍に、牧村が戻ってきた。

 手には青い不織布でラッピングされた、何某かの角ばった物体。


「芯、三本もらっちゃった。お礼にこれ、どうぞ。ちょうど余ってたから」


 俺の背後の窓から差し込む日光が眩しいのか。

 ちょっと目を細めて視線をずらし気味に、牧村が言った。


    *


 俺は今、悩んでいる。


 ほとんど放心状態で家路に着き、制服を脱いでから、数時間後の話だ。

 少し前までは、牧村がくれた青い不織布の包みの扱いについて、脳内で自問自答していた。


 開けるべきか、否か。

 阿呆、人からもらったものを開けないとは、何事か。 

 いや、罠かもしれん。話がうますぎる。俺は牧村の何を知っている。

 何も知らなくていい。お前はただ未来を信じて、その包みを開ければいいだけ。

 ほら、開けろ!


 衝動に任せて、俺は開けた。ああ、開けてやったさ。

 そして、人生最大の謎に直面する羽目に陥った。


 青い不織布の包みから出てきた厚みの少ない直方体。


 それがなんと、カレーのルーだったのだ。


 「!?」という記号が頭の上に浮かぶ、動画や漫画でよく見るやつ。

 素であの感覚を味わった。


 チョコレートじゃなくて、カレーのルー?


 やばい。牧村、レベル高ぇ。


 目頭を揉んだり、不織布の内側に暗号が書かれていないか調べたり、カレーのルー風の箱に入ったジョークチョコレートではないかと疑って裏の原材料名と成分表を一文字も抜かさずに読んでみたり、画像検索したり、いろいろやってみた。


 が、やはりそれは、紛れもなくカレーのルーなのだった。


 え……ちょっと待てよ。牧村、余ったって言ってなかったか。

 昨今のバレンタインデーは、カレーのルーを交換する日に変わったのか?


 階下から、風呂に入れと呼ばう母の声がする。

 普段は三度ほどスルーしてから重い腰を上げるところだが、今の俺にはむしろ、その指示の分かりやすさは天の救いに思えた。


    *


 風呂から出て部屋に戻ると、スマホが何やら通知の光を発していた。

 無料通話アプリの着信を知らせる色だ。

 夜にかけてくる悪友に二人ほど心当たりがある。

 無感動に画面を表示して、俺は、スマホを取り落としそうになった。


 牧村しずか。


 俺を思い悩ませている張本人の名が、通知画面にずらずらと列を為していたのだ。


 そういえば、図書委員のグループに登録していたっけと思い出す。

 個人的なやり取りをしたことは一切なかったが、たまにアイコンを眺めることはあった。

 いや、やましい気持ちではない。フリーダ・カーロを彷彿とさせる大胆なデザインの花器の写真が使われていて、美術的に興味があったのだ。本当だ。


 通知の数は全部で十三、あった。

 不吉な数字だ。いや、ここは日本だ。奇数はむしろ尊ばれる文化のはず。

 ほぼ三分おきにかけられていて、最後の着信は五分前。これも奇数だ。


 ここに並ぶ名前が悪友の野村や三好だったら、俺は問答無用でそいつをブロックしただろう。すぐに復活するだろうが、戒めの意思表示だ。

 だが、牧村の名前が並んでいるのは、悪い気がしない。

 スクショを撮るのはさすがに気持ち悪いかと、別の方面で悩み始めた時だ。


 手の中でスマホが震え、高らかな音楽を鳴り響かせた。


「うおっ」


 びくついた拍子に画面をタップしていた。

 まずい。なぜか焦って通話を切ろうとした時、


『佐野君? ごめんね、ちょっといい?』


 こちらも何故か焦ったような牧村の声が、空間を超えて俺の部屋に響いた。

 スピーカーになっている。慌てて直し、耳に押し当てる。


「はい、佐野です」

『あ、何度もかけちゃってごめんね、あの、さっきあげた袋なんだけど、あれ、もう開けちゃった?』

「あ、うん」

『うわああ、ごめん、なんか変なの出てこなかった?』

「え、あ、そうかな。カレーのルーが」

『あああああ』


 初めて聞く声で牧村は呻き、ごめん、ごめんと繰り返す。


『それ、あの、違うの。間違えちゃって! 大きさとか似てたから、キッチンで用意してるときに……なんか焦って、お母さんが夕飯用に出してたやつ、入れちゃったみたいで!』

「ああ……そうだったんだ」


 俺はホッとして頷いた。なんだ。考えてみれば、そうだよな。

 良かった。バレンタインデーにカレーのルーを交換する奇習は、なかったんだ。


「そっか。安心した」

『安心? いや、そうだよね。わけわかんないよね。ほんとごめん。それで、ちゃんとしたのと交換させてほしくて……あのさ、あの、日曜とかって、空いてない?』

「え」


 俺は言葉に詰まった。すぐに返事が出てこなかった。

 日曜。それは、件の行事の。


『あ……もしかして、別に約束とか、あるかな。だったら……』


 不意に暗くなる牧村の言葉に被せて、俺は急いでシャウトした。


「いや、空いてるよ。明日も明後日もガラ空きだし、大丈夫だけど!」

『本当? 良かった! それじゃあさ、悪いんだけど、どこかで会ってくれないかな。それで、わざわざ来てもらって申し訳ないし、スタバかどっかで何かおごらせて。佐野君、最寄どこなの?』

「俺は……」


 互いの最寄駅を確認し、中間点で落ち合おうということに、話がまとまる。

 すごい。なんだこれ。幸運を使い果たして俺は死ぬのか。

 余り物とはいえチョコレートをもらった、まあカレーのルーだったわけだが、のみならず、牧村の最寄り駅まで知ってしまった。

 おまけに、日曜日に会う約束をしている。


 これはチャンスだ……と、俺は自分に言い聞かせる。

 こんな機会は二度と訪れないだろう。高校を卒業したら、俺たちは別の道へ進む。

 そうなれば、会うことはなくなるんだ。


 告白しよう。

 気持ち悪がられてもいいから。


『本当にありがとう、佐野君。じゃあ、日曜にね』

「ああ。わざわざありがとうな」


 表面上、平静を取り繕って、めちゃくちゃ名残惜しい気持ちを抑えて、通話を切ろうとして、やっぱり相手が切るのを待とうと思い直した時だ。


『おねーちゃん、ルー作戦うまくいった?』

『わ、シッ!』


 通話が切れ、何分の会話を達成したかを知らせる画面になる。

 その画面を見つめ、思わぬ幸運に対する感謝で満ち満ちた頭を、俺は横に倒した。


 ん?




 <了>


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