階段を上ると
朝吹
階段を上ると
※お題【チョコレート、安心、カレー】
お父さんと一緒にこの家に残ると
「そのほうが清々する」
亜弓に背中を向けたまま吐くように云った。
「お姉ちゃんとはもう逢えないの」
泣いている弟の
後に残されたのは背中を丸めてリビングでテレビを観ている父親と、明日、配送業者が引き取りにくる玄関先に積まれた段ボール箱。
父と母が離婚した原因は父にあり、そして母も悪かった。お互いネットの中で特定の異性を相談相手にしていたのだが、父は実際に相手に逢ってその先に進んだ。ただそれだけの違い。
「お父さん、夕ご飯はどうしよう」
「お父さん、ママの段ボール箱をどれか一つ開けてもいいかな。悠ちゃんにあげる約束をしていた色鉛筆を入れたいの」
「お父さん、明日から亜弓が掃除当番をするね。ママが帰ってくる日のために家をきれいにしておいた方がいいもんね」
何か云って欲しいな。
亜弓は室内観葉植物のゴムの木を撫ぜた。肉厚の葉があちこち折れている。うちは父親をお父さん、母親をママと呼んでる。友だちに訊かれた亜弓は応えた。なぜかというとお母さんのお母さんが隣県に住んでいて、お父さんから見てお義母さんとお母さんを区別するためなんだよ。
不意にリモコンから手を放して玄関に向かうと、父親は段ボール箱の一つを選んでガムテープを一気に引きはがした。引き裂くようなその音に亜弓は身をすくめる。
父親は亜弓にやさしく云った。
「悠にあげる色鉛筆は」
「これ」
ファーバーカステルの60色の水彩色鉛筆。平たいアルミケースを段ボール箱の中に入れると、新しいガムテープで父親はまた蓋をした。箱が開いた時に母親の服が少し見えた。あの服知ってる。ママとわたしのお気に入りで、亜弓が大きくなったらあげるとママが云っていたリバティ柄のワンピース。
立ち上った父親は亜弓の背中をぽんぽんと叩いた。
「今日から二人きりだ。さあ夕ご飯の材料を買いに行こう。亜弓は何が食べたい」
カレー。亜弓は即答した。あれなら家庭科の調理実習で作ったことがあるから、亜弓にも作れる。
じゃんけんぽん。チョコレート。
「チ・ヨ・コ・レ・イ・ト」
亜弓は階段を六段あがった。じゃんけんぽん。グ・リ・コ。
「パーで勝ち。パ・イ・ナ・ツ・プ・ル。お父さんは酢豚にパイナップル、ある派ない派?」
「ない。じゃんけんぽん」
「亜弓もない派。でも給食には入ってるよ」
「亜弓」
「なに」
「ごめんな亜弓。亜弓や悠は何も悪くないんだからな」
「だ・い・じ・よ・う・ぶ」
チョコレートと大丈夫は同じ文字数だ。六段上がる。また上がる、また上がって、買ってきた夕食の材料ごと、あの橙色の夕陽の国に行けたら神さまに願いごとをしてみたい。
「亜弓ちゃんのお弁当箱、あったあった」
どうしてもテレビアニメの美少女戦士のお弁当箱が欲しかったの。
「探したわ。パートが終わってから何軒も回ってやっとあった。ネットでは全部売り切れてたから期待していなかったけど意外と地元の商店街にあるものね」
ママありがとう。ママの趣味じゃないのは分かってたけど、あの時、亜弓すごく嬉しかったよ。それから小学校の入学式のことも憶えてる。講堂で小さな悠ちゃんがぐずって大変だったのに亜弓が振り返ると、「前を向きなさい」ママは口を動かして微笑んだ。
丘の上の新興住宅地。車道の他にはこの長い長い階段を住人は使う。
「お母さんが出て行ったのは、亜弓のせいだよ」
「違うよ亜弓。それは違う」
「だって亜弓が、あゆみだったからだよ」
清々する。
そのほうが清々する。
近寄らないで、亜弓の顔なんか見たくもない。
慣れないとなぁ。ママに嫌われたからって泣くことなんかないんだ、なんでも慣れたら平気だよ、だ、い、じ、よ、う、ぶ。
「亜弓の勝ち」
長い階段をのぼり終えた。振り返った亜弓が眺めた下界の町並みは、悠ちゃんの集めているトミカをぎゅっと潰して固めたような色だった。
──娘と同じ名前の女と浮気するなんて信じられない、あなたよくも、よくもできたわね、気持ち悪いッ。
観葉植物のゴムの木が倒れている。こぼれた土で床が汚れた。
亜弓は奥歯をかみしめた。悠ちゃんがいやいやする時のように、泣くのを堪えた唇がイーッとなってへの字になる。漢字が違うんだ、同じ亜弓でもその女の人は歩くと美しいで『歩美』だよ。お父さんも下の名前までは知らなかったって云ってるよ。お互い偽名だったって。だから安心してママ、大丈夫だよママ。
「近寄らないで、顔も見たくない」
「おいっ。亜弓を突き飛ばすことはないだろう」
「はあ? あなたにわたしを怒鳴りつける資格があるの」
「いいから子どもにだけは当たるな、頼む。亜弓が頭を打ったじゃないか。大丈夫か亜弓」
「誰のせい? こうなったのは誰のせいなの? 見て、あなたにすがるその子の眼。その女も同じ顔をしていたのかしらね」
「子どもに向かって、いい加減にしろッ」
「あゆみだって。その女、あゆみなんだってー!」
亜弓のせいだ。ごめんね。亜弓のせいだよ。喧嘩を止めて欲しいな、ゴムの木が折れてるし悠ちゃんが泣いてるよ。
こたつを強にした時のように頭の中がじりじり熱い。風船をふくらます時のように胸がぺったんこになって痛くなってきた。
二人ともやめて欲しいな。亜弓の名前があゆみじゃなかったら良かったのにな。
壊れたママは元には戻らなかった。
その夜お父さんのために作ったカレーはまずかった。おかしい。誰にでも作れるはずのカレーで失敗するなんて。
「だ・い・じ・よ・う・ぶ」
しっかり踏んで石段をあがる。慎重にしないとこの高さから転落したらお腹の子が危ない。
「ママ、それ変。チョキはチョコレート、パーはパイナップルだよ」
「六文字で六段分だったら何でもいいじゃない」
「それなら、じゃんけんしてる意味がないよ」
「感慨深いわね。娘のあなたと一緒にこの階段でグリコをしてるなんて」
「じゃんけんぽん。パイナツプル。なんで」
「ママの両親がまだ結婚していて、いまのお家の近くに家があった時に、家族みんなでこの階段でグリコをしていたから」
「悠おじさんも」
「そう。おじさんは憶えてないかもしれないけれど」
じゃんけんぽん。
ママと一緒にあがったの。
チヨコレイト。
よちよち歩きの悠ちゃんはお父さんに手をひかれて階段をのぼってきたよ。忘れないようにするんだ、どんなことがあっても絶対に。ママはわたしのためにお弁当箱を探してくれた。お父さんはまずいカレーを残らず食べておいしいよと云ってくれたんだ。だから大丈夫。
いつかみんなでまた倖せに暮らすんだ、絶対に。
階段の上から夫が呼んでいた。丘の下で娘とわたしを降ろして、車で坂道を回って先に家に着いていたのだ。夫が呼ぶ。
「亜弓ちゃん」
「あれもさぁ」と娘がぼやく。
「おかしいと想うんだよね。他の家のお父さんは子どもの前ではママとかお母さんって呼んでるのに」
「嫌いな名だったんだけど、パパがいい名前じゃんって云ってくれたから、ママも好きになってきたのよ、自分の名前」
「なんで嫌いだったの。チヨコレイト」
追いついてきた娘がわたしの手を握る。
「わたしも好きだよママの名前いいなまえ。お腹の中の赤ちゃんが生まれたら、みんなでこの階段でグリコをやるのが今のわたしの夢なんだ」
丘の上から夫が階段を少し降りてきた。
「悪い、亜弓ちゃん。ポン酢買うの忘れてた。今から車でスーパーにまた行ってくるわ」
「ええ? 下のコンビニでいいわよ」
「それならわたしが行って来る。わたしに買いに行かせてママ」
お金をあずかった娘が軽やかに長い階段を駈け降りていく。
おつりで好きなものを買っていいと云っておいたから、きっとお菓子か雑誌を買ってくるのだろうと想っていた。娘が買って来たのは箱入のカレーのルーだった。
「おいしい?」
家庭科で習ったばかりのカレーを夕食に娘が作ってくれたのだ。
「とても美味しい。上手に出来たのね」
お世辞ぬきで娘を褒めた。食卓には娘が作ってくれたカレーと、夫が作ったもやしとしめじのポン酢蒸し。
「レンジでチン」
「すみません。下の子の出産までにはバリエを増やしますので」
「でもパパが料理するとあちこちが汚くなるから、パパはお米とレンジ料理担当でいいよ」
亜弓でよかった。
壊れた家のかわりに、新しい家。長い長い階段。ランドセルを背負った女の子がうつむきながら上ってる。想い出の中を何度でも。
亜弓。
わたしは呼び掛ける。こっちだよ。小さな頃にママが呼んでくれたように呼んでみる。
少女は気づかない。丘の上にいつもの家が待っていたらいいのにな。今日はママと悠ちゃんが帰っていたらいいのにな。それはきっと突然なんだ。亜弓を愕かせようと想ってママはきっとそうするよ。あの頃は毎日そう想ってた。この階段を上ったら。
それまでこの階段で一人でグリコをやるんだ。忘れないように。
グリコ。亜弓。グリコ。あゆみ。い・や・な・な・ま・え。
カレエライス。
丘の上には家がある。リビングのソファでは娘がコンビニでついでに買ったおもちゃみたいなきらきらネイルを爪に塗ってご満悦だ。明日の登校までには落とすように云わないと。
神さまたちが作ってくれた夕食は美味しかった。上っておいで。名前が嫌いなままでいいんだよ。いつかこの家に辿り着くからね。
長い階段の上にそれは待っている。
食器を洗い、台ふきできれいにテーブルを拭いた。
あと今さらだけど気がついたよ。あの日のあなた、二人分の水をはった鍋に、四人分のカレーのルーを入れたでしょ。
[了]
階段を上ると 朝吹 @asabuki
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