第6話 虚構の島、ベルナパタ

「樋口くん。さっきの岩、見たかね? あれは火山性のものだった。他所から運んだものでなければ、やはりここは火山島だったんだよ」


「じゃあ、ますますよくできてたことになりますね、あの神話。そういえば以前教えていただいてましたっけ……先生はもともと、地質学専攻だったって」


 橘川たちの会話は、タジマには聞こえていない様子だった。雨合羽のフードをかぶったまま雨に打たれているのだ、無理もなかった。

 

「回り道も、たまには役に立つものだよ」


 院生の頃を思い出す。1993年の夏に親友と体験した、千葉県南東沖の孤島での、不可解で悍ましい体験も。

 地質調査に赴いたその島で、橘川はいわゆる補陀落渡海の奇習にまつわる遺物を発見し、そこで神に――神らしきものに出会ったのだ。


 その一件こそが、彼が民俗学へ転進して今に至る、きっかけだった。


 車は次第に森の奥へ分け入り、崖下の岩壁に面したどん詰まりにたどり着いた。途中でタジマは倒木に擬装した巧妙なゲートを開け閉めして、車の足跡を隠していた。


「ここネ……私の、子供のころ見つけた隠れ場所デス……いろいろ悪い事もしましたネ。盗んだモノ、隠したりね」


「はは……」


 屈託のない言い草に、思わず笑いが漏れた。タジマがどうやら味方であるらしいことに、心底ほっとさせられる。


「この奥に、洞窟あります……入り口付近しか、安全確認してナイ。だから、奥行っちゃだめデスヨ」


「分かった」


 タジマの案内で、草むらをかき分けて崖の方へ歩いて行く。近づいてみると、岩の間に裂け目があり、人が二人ほど余裕をもって通れるだけの幅があった。


 不意に辺りが明るくなった。岩壁の間に渡されたワイヤーに灯油ランプが吊られていて、暗闇をものともせずにタジマがそれにライターで火をともしたのだ。


「まるでロビンソン・クルーソーの岩屋だな」


「私はムーミン谷にある、スニフの洞窟を思い出しますけど」


 いずれにしても、居心地のいい場所に違いなかった。洞窟の中は程よく乾いていて、岩壁にはこまごまとした家具類が立てかけられている。その壁が、どうやら玄武岩質の特徴を持っていることに橘川は気づいていた。


「エヘヘ……ホテル・ニュータジマへようこそ……」


 緊張をほぐしてくれるつもりなのか、タジマがおどけた調子で挨拶をする。神話に語られていた「鳥も獣も見ることのできない場所」とは、案外こんな場所だったのかも――


 ぱし、と橘川は自分の頬を叩いた。


「どうかしているな。いつのまにか、あの神話を古来からある伝統的なもののように考えてしまう。ひどくしっくりくるんだ……この島の風土というか、景色というか」


「この島をよく知ってる人が作ったのは、間違いないと思います。故地を離れ、ときに追い立てられ、場合によってはそれまでの歴史もなくしてここへ来た人たちには――やっぱり、神話が必要だったでしょうし」


「言われてみれば……それはここだけじゃない。アメリカもそういう国だったな」


「ですよね」


 だが、と橘川は自問した。単にそれだけではないのだ。どうやらここには本当に、いや、表面にあるのが虚構であればあるほど、かえって黒々とその色つやを際立たせる「本物」が存在しているではないか。


「……タジマさん。あの、サンゴビトというのは一体なんです? 知っていますか?」


「アー……アレね。アレは……イホヌヤの子供。そういうことになってます。モンテ・ローザ号が漂着したときに、彼らが最初に出会ったのはサンゴビト……それが、この島で一番古い言い伝えデスネ。ま、先にサンゴビトがいて、それからイホヌヤの話が出来たんでショウ」


 なるほど――因果が逆だったのだ。


「アレは普段は姿を見せませんガ……嵐の時だけ、島に上がってきマス。人を見ると、捕まえて海へ引き込むデスヨ」


「じゃあ、それを『婚姻』と解釈した人もいたかもしれませんね……」


 樋口が無気味なことを言い出す。


「……そもそも、なんでこの島にはああいうものが居たり、燻製のブタが動いたりするんだ……?」


 ――皆が、望んだからですヨ。


 洞窟の中で、タジマの声が奇妙にうつろに響いた。


 ばかな、と橘川は眉をしかめた。望んだから存在する――理屈が通っているように聞こえるが、何でもかんでもそんな風に可能になるならば、学問も文明も必要ないではないか。

 だが――かつて『神』を見た忌まわしい記憶が、ふいにまた橘川を揺さぶった。


 かつて、千葉県沖のあの島で見た何かは人の思念に呼応して姿を変え、様々な奇怪な事象を起こして見せたではないか。柱状節理の六角岩の上にわだかまる、月縦の餅かすりおろした山芋のような、燐光を発する白い粘着質の生命ある何かは。


 柱状節理――そうだ、あそこも火山島だった。そして、あの島にあの神をもたらしたのはおそらく黒潮で、その遠い源は――北太平洋旋廻まで含めるなら、ここミクロネシアもその一部といえる。


 洞窟のずっと奥、タジマが侵入を禁じた暗い領域で、何かがふつふつと蠢く気配を、橘川は確かに感じた。もしあれが――あれの眷属、あるいは始祖がここにいるとしたら、うかつに何を考えるのも危険だろう。


 外の雨はまだやまない。風は次第に強くなる様子でもある。この島は、果たして嵐が収まるまで持つだろうか。今までは大過なく過ごしてきたとしても、スマトラの地震やトンガの火山爆発のように、思いもよらない大災害が起こることもあるのだ――いや、


 虚構で塗り固められたこの島は、あるいは、あらゆる虚構が神に許しを得て、現実のものへと変容し、脱皮する場所なのかもしれない。

 降りしきる雨を遠く聞きながら、橘川は極力頭を空白にしようと、困難な努力を続けた。

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虚構の島ベルナパタ 冴吹稔 @seabuki

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