第5話 脱出行

 朗読を終えると、樋口は助けを求めるように橘川を見上げた。


「これは……もしかしたら、まずい……んじゃないですかね」


「まさか……いや、しかし――」


 これは彼らが後付けで作ったもの――そう否定しかけて、橘川は言葉を飲み込んだ。


 彼らが信じているなら、人為的な寄せ集めでもそれは意味のある信仰になる――そう語る樋口の言にうなずいたのはたかだか昨晩のこと。まだ一日すら経っていない。

 ほの暗い不安感に捕らわれまいと、彼は窓際へ歩みよってずらしたカーテン越しに外の雨を眺めた。風が出てきたのか海は白く波立ち、北の入り江にも昨日のようなエメラルドの輝きは無い。灰色の空と海を分けて楔のように横たわるのは、あの模造品イミテーションのシルエットだった。


「もとより低気圧の巣のような場所なんだ……嵐のたびに生贄など捧げていたら、それこそ島に人間がいなくなる。そこまでするなら、何処かもっと地盤のしっかりした大きな島や、あるいは大陸本土へ移り住めばいいはずだ」


「そうですね……それができるなら、もちろん」


 樋口の返答は橘川に追従するようでいて、うっすらとそうではないものを含んでいた。この島が因習に凝り固まっていて欲しい、と言うわけでもないのだろうが。


「だいたい、おかしなことをすればこの情報社会、すぐ悪評が世界中に広まるだろう。観光を生業にしていてそんなリスクを冒すことはバカげている」


 樋口からは明確な反応がなかった。なおも雨を透かして入り江を眺めるうちに、橘川はおかしなものを見たように思った。

 あの「駆逐艦の残骸」のあたりに、何か動くものが――

 まぶたをこすって更に目を凝らす。雨でぬれたガラスで屈折して、明瞭な像が捉えられない。橘川は思い切って窓を開け放った。


「ちょっと、先生!?」


 窓から吹き込む水しぶきに、樋口が小さな悲鳴を上げる。そして、橘川は見た。なにか人めいた形をした白いものが、海の中から這い上がってきている。ある物は「駆逐艦」の上に。あるものは、湾を囲んで密生するマングローブの根元に。まつ毛を濡らす雫を振り払ってそれを凝視し、橘川はその白い影の何よりもおかしな点に気が付いた。


 ――人にしては、大きすぎる。


 ぞくりと背筋が泡立った。


「樋口くん。海から何か来るぞ……白い、大きな人型の何か……」


「ええ!?」



「人型の何か、って。人間ではない、ってことです……?」


「さしあたってまず服を着たまえ。雨風を防げる、保温のいいものだ」


 本来は内陸に分け入って何日も、伝承の聞き取りや地形の調査、植物の採集といったフィールドワークもこなすつもりで来ている。目的にかなうだけの装備は、一通り用意してはいた。

 いざとなったら、ホテルを放棄してこの場を逃走することも――


 外の雨の中に車のエンジン音を聞いたように感じて、橘川はドアの方を振り返った。樋口が窓に飛びついてガラス戸を閉めカーテンを引いた。


「先生……あれっていったい」


 樋口もどうやら同じものを見たらしい。


「分からん。分からんが……あれと間近で向かい合いたくはない」


 ドアに、またノックの音がした。


 ――ヒグチさん! キッカワさん! まずいことになりマシタ! ここを出まショウ!


 タジマの声だ。


 ふと、奇妙な考えが頭をよぎる。これは本当にタジマか? 

 日本の各地にある民話、怪談の類でも、怪異はいとも簡単に親しい相手の声を写し取って、結界の中に潜んで朝までやり過ごそうとする犠牲者を、まんまと騙してのけるではないか。

 ままよ、とドアを開ける。そこには先ほどと変わらない、雨合羽姿のタジマがいた。


「精霊小屋を直そうとしマシタガ、集まるのが雨で遅れテ……『ご先祖』起きてしまった。長老が言うには『サンゴビトも出てきた、もう贄を出すしかない』、ト」


「起きた?」


 不吉な響きに耳が呪われる。タジマの話をそのまま信じるなら、あの「精霊小屋」のかますに入っていたのは、梱包を解いて時間が立てば、起きて動き出すような何かなのか? 

 そして、どうやら本当に生贄の選択肢があったらしい。あまりのことに眩暈を覚えるが、事実なら――


 島の外から来た男。その一点で、バッタラと橘川には共通点がある。島民が贄を選ぶなら、真っ先に候補に挙がるだろう。


 あまつさえ、樋口と関係を持ったことでカカランタとの神婚にも構図が重なるはずだ。

 つまり橘川は今、この島において神話を再現した存在になりかけている。原始的な生贄儀礼から古い神事、芸能化した神社の神楽にいたるまで、儀礼、祭礼とはつまり、神話の再現であって――ああ、冗談ですめばどれだけよかったか。


「タジマさん。ここを出るとして、何処へ行くつもりだ?」


「空港へ。あそこには鉄条網とフェンスありマス、簡単には越えられマセン。ゲートもあるシ、航空会社の警備員もいますカラ!」


 島の人間であるタジマを全面的に信頼することには、若干の不安があった。だが、今しも海から上がって、ナメクジが這うようにじわじわと近づいてくるあの白い影――タジマたちの言う「サンゴビト」から逃れるには。

 タジマの後ろでアイドリング中の、ジープ以上の手段は見つかりそうにない。


 急いで服を着こみ、余分なものを捨てて手荷物をまとめた。防水ポンチョをその上にかぶって、同様に準備を済ませた樋口と共に、車へ走る。


「宿泊料、踏み倒す形になっちゃいますね、これ……」


「何をバカな」


 そんなことを気にする場合か、と思うのだ。

 ジープを急発進させ、一行は空港への道を走り始めた。ものの十分もあれば到達できる距離だ。だが――


 見えてきた空港はあの「ボンダンス」の扮装をまとった群衆に十重二十重に取り囲まれ、固く閉ざされたゲートの前には武装した警備員たちが、雨の中ポンチョ姿で銃を構えていた。


「ありゃあ……これはダメですネ……」


 魂の抜けたような情けない声で、タジマがうめく。「島の外から来た男」が贄の資格者なら、空港の係員や海外からの搭乗員も埒外ではないのだろう。


 エンジン音とライトに気付いた群衆の一部が、一つの生き物のようにぞぞ、と蠢いてこちらへ向かい始めた。

 その中に、明らかに人でない形のものが混ざっていることに、橘川は気づいた。煙でいぶされたような黒褐色に染まった、奇妙に足が短く胴の長い影が、ボンダンスのそれに似た、ヤシやバナナの葉で出来た頭飾りを頭部に載せている。


 アクション映画にありそうな勢いでハンドルを切って方向転換し、タジマのジープは来た道を反対向きに走り出した。水たまりに突っ込んだ車が、走り抜けながら大量の泥水を跳ね上げる。


「ご先祖も、ああなったらもう止められマセン」


「ご先祖!?」


 いや待て。あれはしかし、見たところどう考えても。


「あれは、ブタじゃないか……!」


「シッ! だから、見ちゃダメなんデス……! アレが起きてなければ、山の穴に投げ込んで贄の代わりにスル。持ってる家で、嵐のたびに回り持ち……でも、今回はダメ……」


「それで、どうするの……」


「ヒグチさんたちが無事に帰りの飛行機に乗らないと、ワタシの報酬出ないデス……ドコカ人目につかないところに隠れテ、嵐が過ぎるまでやり過ごス……それしかないネ」


 狭い島に、そんな隠れ場所があるものだろうか? 橘川の懸念をよそに、車は次第に山道へ入っていくようだった。

 そういえばこの島が火山だというようなデータは事前に調べた情報にもなかったが――バッタラの犠牲を受け入れたという、最も高い場所の火の穴とはやはり火口なのだろうか?


 山道が大きなカーブに差し掛かった時、そこの山側に露出していた岩に、橘川は目ざとく気が付いた。苔や地衣類に覆われていたが、風化によるものか半ばほどに割れて崩れた跡が露出していて、そこには凝固した溶岩に見られる、泡立ってガラス状に溶けた構造が見て取れた。

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