第4話 孤島にて嵐を恐れ

 雨は見る間に、熱帯特有のスコールとなって屋根を激しくたたいた。中庭が見る間に泥水であふれていく。


「こりゃあ酷い。樋口くん、明日は出歩けそうにな――」


 言いかけて振り向いた橘川は、唇を柔らかいものでふさがれた。瞬間的に鼻から息をすることを忘れ、彼は夏場の金魚のように喘いだ。


「ちょっと、君。止したまえ」


「いいんですよ」


 何がいいのか分からない。だが、樋口はどうやら橘川をからかっているわけではないらしかった。


「明日出歩けないなら、ずっとここにいればいいんです。ふふっ、先生としたいこと、沢山ありますから……」


「どうしたっていうんだ、君らしくもない」


「……学生時代から、ずっと憧れてたんですよ」


 嵌められたか――まさかこんなことが自分に起こるとは、考えてもいなかった。


 橘川は懸命に平静を保とうと努めたが、樋口の唇が顔面を離れ、正中線に沿って彼の肌を下方へ移動していくに至って、その努力はやがて潰えた。


「せんせぇ……」


 甘えるような声が、大学での最初の講義のあと、廊下で個人的に話しかけてきた時の彼女を思い出させる。

 ベッドに仰臥した彼の上に、樋口史子は蜘蛛のように覆いかぶさって自身の欲するものを貪りはじめた。



        * * *



 情事のあとのけだるさが翌朝を過ぎてもまだ去らない。老いたのだな、と橘川は自嘲した。

 樋口はまだすやすやと寝ている。寝物語までがオセアニア各島の民話であったあたり、流石にこの旅行の目的、全部が全部、というわけではなかったらしい。


 コテージのドアにノックの音がした。素肌にガウンを羽織り、マニラ麻に似た繊維で編まれた部屋履き用のサンダルをつっかけて戸口へ向かう。ドアを開けると、外の雨音が急にボリュームを上げて聴こえるようになった。

 ドア枠で切り取られた雨模様のヤシ並木を背に、オレンジ色のビニール雨合羽をかぶった人物が立っている。何かを言いつのる様子だが、雨音でろくに聞き取れない。


 ――……の、……がデスネ! ……いで……ださイ、


 辛うじて日本語らしいと聞き取れる音声。タジマだ――橘川はそう判断した。


「分からん! ……中へ入って、ドアを閉めてくれ!」


 ぺこりと頭を下げてタジマはコテージの玄関に足を踏み入れ、後ろ手にドアを閉めた。雨合羽からぽたぽたと滴る水が、コンクリートを打った玄関の土間に黒ずんだ水たまりを広げていく。


「いやあ、お邪魔しマス……あの、今日はデスね、このホテルから出ないでくださイ」


 何ごとか、と訊くとタジマはあいまいに言葉を濁した。


「雨で、少々困ったことになってマシテ」


「少々、じゃ分からんな……今日は奥地の村で古老に話を聞くつもりだったんだが。まあ、この雨では私も出かける気にはならない。実際、何があったのかね?」


 ここで聞ける話ぐらいは、と食い下がる。タジマは少々逡巡した後でしぶしぶ概略を話した。


「畑のご先祖サマ、あの精霊小屋のやぐらがあちこちで倒れマシてね……いま島民総出で直してるところなんデス。その、ネ。中身が出ちゃって……」


「中身……じゃあ、今なら見られるんです!?」


 樋口が全裸のまま、寝室のドアから顔をのぞかせた。


「樋口くん……やめたまえ、そんな恰好で」


 タジマは一瞬驚いて橘川と樋口を交互に見たが、すぐに首をぶるぶると横に振った。


「ダメ! ダメデスよ!! よそ者が見たラ、殺されても文句言えないデス! 私まだここの住人になり切ってないカラ、あなた方にこれ教えてル……とにかく、トラブル起こさないデくださイ」


 怖気を振るった表情で、タジマが必死に言い立てた。


 ――これ以上雨ひどくなったラ、大変なコトなるかも……とにかく、ホテルを出ないでください……イイネ?


 そう言い残すと、ドアからまた、雨の中に飛び出していく。橘川は居間のソファに腰を落とすとため息をついた。


「釘を刺されちゃいましたね……」


 樋口も毒気を抜かれたように、対面に腰を下ろす。彼女はわずかの間に下着をつけてガウンを羽織り、どうにか直視しても許されそうな姿にはなっていた。


「私一人なら、雨だろうと必要なら出ていくんだが、樋口君を連れて、なおかつこんな小島ではな……無茶はしない方がよさそうだ」


「心配してくださるんですね……よかったぁ、嬉しっ」


「君なあ……いや、まあおとなしくしていよう。この際仕方がない」


 だが、しかし――橘川は考え込んだ。この島の歴史が実際には二世紀とちょっと、堡礁を埋め立てて土壌まで持ち込んだものだとすると――雨と、さらに言えば嵐は。

 小さな島にとっては随分と致命的なものになるのではあるまいか?


 日本でも、盛り土された造成地は雨に弱く、コンクリート製の擁壁程度は簡単に崩れるのだ。


 マーシャル諸島はよく知られた台風の発生地でもある。近年のデータでは二月にさえ熱帯低気圧が発生し、台風へ成長するのではないかと懸念された事例があった。


「そういえば……パンフレットに載っていたには、何やら続きがあったな」


「ありましたね、ええと――」


 樋口がテーブルからパンフレットの一冊を取ってパラパラとめくった。


「ああ、ありました。ダマ・ナパタの再臨とバッタラの死についての一節です」


「それだ。読み上げてみてくれ」


 うなずいた樋口が、その部分を朗読し始めた。それは、次のような内容だった――


=================


 ダマ・ナパタは天空に上り太陽となって陸を照らし続けていた。

 だがある時、西から来た邪悪な神が空に居座って毒の雲を吐き出し、世界は再び闇と水に閉ざされてしまった。


 バッタラとカカランタは海辺に赴き、今は海中で暮らすようになったイホヌヤを呼び出して、どうすればよいか相談した。


「一つだけ方法がある」


 イホヌヤはそういった。


「バッタラが死者となって天に昇り、ダマ・ナパタに助力をすれば、あの邪悪な神を追い払える」


 カカランタはしばらく迷い、異を唱えたが、結局三人はそのようにした。

 バッタラは最も高い場所にある火の穴に身を投げ、焼かれて天に上った。ダマとバッタラ、二人の力で邪悪な神は打ち払われ、ダマは再び世を光で照らした。


 その後も邪悪な神が勢いを盛り返すと、そのたびにバッタラの子らは一人づつ身を焼いて、父祖の助けに加わった。

 

 忘れるなかれ。

 もし火の穴に身を焼くものが絶えれば、その時は邪悪が勝利を収めるのである。

 また、バッタラの子らがイホヌヤを汚し損なうときも、その時は邪悪が勝利を収めるのである――バッタラの子らとダマ・ナパタを結ぶのは、イホヌヤのとりなしによるものであるが故に。 


================= 


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